エデンの住処

社菘

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第7章 過去

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藍が自分のことをとてつもなく重い愛で想ってくれているのは分かっていたが、第二性を転換させてまで由利の選択肢を断とうとしているのは『本気』だと感じた。

普通なら藍の言葉や行動は束縛にも似た重いものだと思うが、その重さを『嬉しい』と思っている自分がいる。そんな藍の気持ちにできるだけ応えたいと思うが、体が作り変えられるのは少しの怖さがあるし、仕事のことが気にかかるのだ。

オメガになったとして、番がいても『発情期ヒート』というものがやってくる。たとえ番のアルファにしかフェロモンが効かないと言っても、ヒート中は普通に仕事をするのが困難な状態になるらしい。経験したことはないが、学生時代に一週間ほど休んでいる同級生がいたので、大変なんだなと思ったことがあった。

モデルの仕事は由利にとって大事なもので、続けられるならできる限りこの仕事をしていきたいのだ。いつか演技の仕事もしてみたいし、海外を拠点に仕事をするのも憧れがある。正直オメガになることにそこまでの抵抗はないのだが、オメガになった後の仕事をどうしたらいいのかが気にかかった。

「由利がこれまで一度もオメガと付き合ったことがなければ、もしかしたらこんなこと考えなかったかもね。それがあったからこっちもさすがに考えなくちゃなって」
「………え?」
「いつだっけ。確か2、3年前だよね?僕より年下のオメガ。あっちは由利と付き合ってる時20歳だった気がするけど」

藍の言葉に体が硬直する。瞬きも呼吸も忘れてしまいそうなほど驚いた由利は、どくんどくんと暴れ狂ったように脈打つ心臓の鼓動だけが耳の中にこだました。なんだか目の前が霞んできて藍の姿がきちんと見えなくて、またソファに身を沈めてしまいそうなほどふわふわとした感覚に襲われる。何を言ったらいいのか分からなくて固まっていると、由利の顔を藍が覗き込んできた。

「言わなかったっけ?由利のことで知らないことはないんだよ、僕」

確かにそんなことを言われた気がするが、まさか由利の交際関係まで把握されているとは思っていなかった。特に由利はモデルという立場上スキャンダルが出るのは仕事にも影響が出るので隠していたつもりなのに、どこからどう藍に漏れたのだろう。

一瞬、過去に付き合っていたそのオメガの元恋人が言いふらしているとか?なんて思ったけれど、それならもっと多方面に広まっているだろう。きっと由利が知らない藍のネットワークがあるのだろうが、一番知られたくない過去の恋愛事情だったので、黙っていたことに対しても罪悪感を覚えた。

「相手に子供ができなかったから運がよかったねって言いたいだけで、一歩間違えれば今頃なにがあったか分からないっていう警戒心を持って欲しいだけ。どういうつもりで付き合ってたのかだけ聞いてもいい?」
「ど、どういうつもり、って……」
「由利が誰と付き合ってたっていう事実は調べられるけど、その時の由利の気持ちまでは理解できないから。本人に聞かないといけないなと思ってたんだよね」
「……調べたなら知ってるだろ、付き合ってた期間も」
「一ヶ月?それだけあれば"過ち"は犯せるよ」
「分かる、藍の言いたいことは分かってる……」

まさか突然『あの時』のことを話すなんて思っていなかったので、暴れ狂う心臓が落ち着かない。別にやましいことがあったわけではないのだが、なんとなく由利がオメガと付き合っていたのは藍に対しての裏切りのように思えて今更後悔の波が押し寄せてきた。

「知り合いの集まりに参加した時に一目惚れされて、しつこかったから付き合ってみただけ……でも藍が想像するようなことはなかったし、むしろキスもそれ以上もしてくれないって呆れられて別れ話されたんだよ……」
「本当に、キスすらしてない?」
「うん…俺は特に仕事で忙しくて、ちゃんと会う時間取れなかったし……」
「その人のこと、好きなわけじゃなかった?」

思い返してみれば、そのオメガは同じ男だった。可愛らしい顔立ちで、男にも女にも受けるような愛らしい性格だったのも覚えている。やたらとボディタッチが多く、酒に弱いのか酔うと甘えるような子だった。確かに可愛いなと思った記憶はあるけれど、決して好きだから付き合ったわけではない。由利の行くところ行くところに出現してしつこかったから渋々折れたのだ。付き合ったと言っても何も恋人らしいことをすることはなく一ヶ月で速攻別れ話をされた。

『由利さんって思ってたほど面白くない』

とかなんとか言われた気がする。
やっと自分に飽きてくれたかと、あの時は安堵したものだ。

「一ヶ月の間にその子にヒートもこなかったし、なにより俺がその子を、だ、抱きたいと思わなかった……」
「へぇ?」
「調べてるなら知ってると思うけど、確かにそれなりに付き合った人はいるよ。でもどれも短期間の付き合いだった」
「なんで?」
「………心のどこかで、無意識に藍じゃないとダメだと思ってたから。今まで認めたくなかったけど」

藍への気持ちを認めたくなくて色んな人と付き合ってみたものの、その全てが半年も経たないうちに相手から振られることが多かった。やはり恋愛というのはお互いを想っているからこそ成り立つ関係だと思う。もしかしたら好きになれるかも、なんて不確かな気持ちで付き合ったとしても、大体が失敗するのだと学んだものだ。

だからこそこの8年で何人か付き合った人はいたけれど長く続かなかったし、夜を共にした回数も両手か片手で足りるほど。でも藍がわざわざ『オメガ』の彼だけの話を持ち出してきたということは、それなりに怒っているのだろう。その彼以外はアルファの女性やベータの女性だったので、同性でオメガだった彼のことが特に癪に触ったのかもしれない。

その証拠に藍が何も言わずにじっとこちらを見ているので、言いようのない不安を感じた。

今の藍の顔や瞳からなんの感情も読み取ることができなくて、怒るならいっそのこと押し倒したり罵ったりしてくれたほうがマシだ。藍の言うようにもしその子にヒートが来ていたら、仮にも付き合っているのに何も知らずに呼び出されて『過ち』を犯していたとしたら、それでもし子供でもできていたら――

由利は生まれてこの方オメガのフェロモンに誘われた経験はないし、それによるラットの経験もない。通っている病院の医師や周りから話を聞いた限りだと、オメガのフェロモンに耐えるのは相当すごいことらしい。今まで一度も経験がない由利がもしラットを引き起こしていたとしたら、自分の意思に関係なく悲惨なことになっていただろうなと今更その恐怖に心が支配された。



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