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第四章 サーカスナイト
ダメな母親
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登校する生徒たちとすれ違いながら息が切れるまで走った。
とはいえ運動不足の身体は思うようには動けず、すぐにバテた。荒い呼吸をなんとか整えてまた走り出す。
勢いよく飛び出しておいてこのざまである。風間の言う通り俺はどうしようもなくダサい奴だ。
「はぁ……はぁ……ランニングしよ。明日、いや今度から……!」
信号で足止めたついでにスマホを開く。風間からの「体調不良って言っといたぞ」「今度昼飯奢りな」というメッセージを見て感謝しつつ、地図アプリを開いた。
黒江の家は知らないが、スナックをやっていることは知っている。そしていつも途中までとはいえ見送りをしているから方向の目星はつく。
地図アプリの検索機能で“スナック”と入れれば、確定とはいかないまでも相当絞れるはずだ。
我ながらなかなか冴えて——。
「じゅ、十軒!? スナックってそんなにあるのか……」
地図上に現れた無数のピンを見て思わず苦悶の声が漏れた。
一縷の望みをかけてそれらの店舗情報を見てみるが、ザッと見た範囲に“黒江”という文字列は出てこない。
外観写真に表札でも映っていないかと期待したがそもそも写真がない店の方が多い。あったとしても古かったり、電飾看板の写真だったりで期待していた情報は得られなかった。
そうなると、いよいよ残された手段は一つだ。
タイミングよく信号が青に変わる。「とにかく進め」と言われているようだ。
「……とりあえず近いとこから行くか」
映画の主役であれば奇跡的に目当ての人物と遭遇したり、決定的な情報を手に入れたりするんだろうが、俺は主役でも何でもない。
それを受け入れたからには地道に進んでいくしかないのだ。
*
典型的な閑静な住宅街、その中に一つの電飾看板が現れる。近づけば辛うじて『スナック 鈴々』という文字が認識できた。
まず地図の通り店があって安心だ。さっき行ったところは更地になっていて、それに気づかず無駄な時間を過ごした。
さて、建物は一見ただの年季の入った一軒家といった風体だが、入口脇に置かれた空き瓶の詰まったビールかごや「Close」の掛け看板が確かにここが飲食店であると再認識させてくれる。問題は表札だが——。
「あ、あった……! 八軒目て、本当に持ってないな」
一時間程見知っていたと思っていた我が町を彷徨ってようやく探し求めていた“黒江”の表札を発見した。
全身に達成感を伴った脱力を感じるが、まだ何も成していないのだと両頬を叩いて気を引き締めた。
家を探す間ずっと考えていた言うべき事を改めて頭に並べ直し、乱れた服装を軽く整えて、意を決してインターホンに手を伸ばした——そのとき、玄関の扉が開いた。
心臓が跳ね、反射的にそちらを見ると、店主と思われる壮年の女性がそこにはいた。その人もまた俺の存在に驚いて軽く体をビクつかせた。
「……開店は17時ですよ、ってお客さんって歳でもなさそうね。うちに何か用?」
喋ると声が黒江にそっくりだった。やや擦れ気味なのは酒焼け声というやつだろうか。
それによく見ると、切れ長の目元やスッと伸びた鼻筋がよく似ている。間違いなくこの人こそが黒江ナナの母親だ。
「と、突然すみません。ナナさんいらっしゃいますか。その、話したいことがあって」
色々な感情を抑え込んで要件を簡潔に答えると、黒江の母は手に持った空き瓶をかごの隙間に詰めながら、驚いたような声を上げた。
「ナナに……? 悪いけどあの子なら出てこないと思——あっ待って、もしかして君が神崎慎クン?」
彼女は声を上擦らせながらスッと立ち上がり、こちらの顔を覗き込んでくる。さっきまで気にしていなかったがこの人、背が高い。
名前を言い当てられたこともあって尻込みしそうになりながら、何とか答える。
「えっと、はい。そうですけど、なんで名前を?」
「やっぱり。前にナナの携帯にメッセージ来てたのをチラッと見てね。人の名前覚えるの得意だから。それにあの子、昔から友達少なかったし男の子なんて特に……ってこんなところで話すのもアレね。どうぞ。飲み物ならたくさんあるから。チャージは取らないから安心して」
「いやあの……えっと、おじゃまします」
条件反射で遠慮しそうになったが招き入れて貰えるのは願ってもない事だ。
それに黒江の母には聞きたいことも言いたいこともある。
「おお……」
招かれるままに扉をくぐると、そこには見慣れない酒瓶がズラリと並ぶバーカウンターと、それに沿うように並ぶ十脚ほどのイスだけがある空間だった。
広くは無いが全体的に清潔はありつつ、薄暗い照明は外と隔絶されたような退廃的雰囲気がある。
マフィア映画に出てくるアジトの画がいくつか思い浮かんだ。
「どうぞ。ウーロン茶でも入れるわ」
黒江の母は真ん中のイスを軽く引いて、自分はカウンターの中に入る。
何度も何度も繰り返してきた動作なのだろうと感じる、鮮やかな所作だと思った。
「失礼します」
案内された椅子に腰かける。座る部分がやけに高くて足がぶらついてどうにも落ち着かない。
座り方はこれで合ってるのか? これ以外座りようがないから正しいとは思うが、不安だ。
俺が何度か座り直したり、しっくりくる体勢を探してる間に黒江の母は縦長のサワーグラスにウーロン茶を入れて出してくれる。
そして流れの一環のように取り出した煙草に火をつけた。
そこでようやくこの空間の嗅ぎ慣れない匂いが壁に染み付いた煙草の香りだと気がついた。
ふぅと紫煙を吐き出すその仕草からは哀愁が立ちこめていた。
非現実的な場に飲まれかける意識を正常に取り戻すようにグラスをぐいと傾ける。散々放浪した体によく冷えたウーロン茶が染み渡り、シャンと背が伸びた。
「改めて、神崎慎です。突然お邪魔しちゃってごめんなさい」
「はい、ご丁寧に。アタシは黒江絵梨って言います。普段おじさんばっかり相手してるから、若い子と喋るの緊張しちゃうわ――そういえば慎クン、学校は?」
「えーっと、抜け出してきました」
「フフッ、見た目に寄らずやんちゃなのね」
絵梨さんは黒江と同じ笑い方で笑う。
何となく、占い師のような人だなと思った。
そして、「黒江ナナを自殺に追い込んだ酷い母親」という事前の認識とはかなり印象が違う人だとも思った。
「すみませんでした」
「ん? 全然お邪魔じゃないから、大丈夫よ」
謝罪の意図は伝わらないだろうが説明のしようも無い。
改めて、色眼鏡を外してこの人と、そしてその先にいる黒江ナナと向かい会おうと決意を固めた。
とはいえ運動不足の身体は思うようには動けず、すぐにバテた。荒い呼吸をなんとか整えてまた走り出す。
勢いよく飛び出しておいてこのざまである。風間の言う通り俺はどうしようもなくダサい奴だ。
「はぁ……はぁ……ランニングしよ。明日、いや今度から……!」
信号で足止めたついでにスマホを開く。風間からの「体調不良って言っといたぞ」「今度昼飯奢りな」というメッセージを見て感謝しつつ、地図アプリを開いた。
黒江の家は知らないが、スナックをやっていることは知っている。そしていつも途中までとはいえ見送りをしているから方向の目星はつく。
地図アプリの検索機能で“スナック”と入れれば、確定とはいかないまでも相当絞れるはずだ。
我ながらなかなか冴えて——。
「じゅ、十軒!? スナックってそんなにあるのか……」
地図上に現れた無数のピンを見て思わず苦悶の声が漏れた。
一縷の望みをかけてそれらの店舗情報を見てみるが、ザッと見た範囲に“黒江”という文字列は出てこない。
外観写真に表札でも映っていないかと期待したがそもそも写真がない店の方が多い。あったとしても古かったり、電飾看板の写真だったりで期待していた情報は得られなかった。
そうなると、いよいよ残された手段は一つだ。
タイミングよく信号が青に変わる。「とにかく進め」と言われているようだ。
「……とりあえず近いとこから行くか」
映画の主役であれば奇跡的に目当ての人物と遭遇したり、決定的な情報を手に入れたりするんだろうが、俺は主役でも何でもない。
それを受け入れたからには地道に進んでいくしかないのだ。
*
典型的な閑静な住宅街、その中に一つの電飾看板が現れる。近づけば辛うじて『スナック 鈴々』という文字が認識できた。
まず地図の通り店があって安心だ。さっき行ったところは更地になっていて、それに気づかず無駄な時間を過ごした。
さて、建物は一見ただの年季の入った一軒家といった風体だが、入口脇に置かれた空き瓶の詰まったビールかごや「Close」の掛け看板が確かにここが飲食店であると再認識させてくれる。問題は表札だが——。
「あ、あった……! 八軒目て、本当に持ってないな」
一時間程見知っていたと思っていた我が町を彷徨ってようやく探し求めていた“黒江”の表札を発見した。
全身に達成感を伴った脱力を感じるが、まだ何も成していないのだと両頬を叩いて気を引き締めた。
家を探す間ずっと考えていた言うべき事を改めて頭に並べ直し、乱れた服装を軽く整えて、意を決してインターホンに手を伸ばした——そのとき、玄関の扉が開いた。
心臓が跳ね、反射的にそちらを見ると、店主と思われる壮年の女性がそこにはいた。その人もまた俺の存在に驚いて軽く体をビクつかせた。
「……開店は17時ですよ、ってお客さんって歳でもなさそうね。うちに何か用?」
喋ると声が黒江にそっくりだった。やや擦れ気味なのは酒焼け声というやつだろうか。
それによく見ると、切れ長の目元やスッと伸びた鼻筋がよく似ている。間違いなくこの人こそが黒江ナナの母親だ。
「と、突然すみません。ナナさんいらっしゃいますか。その、話したいことがあって」
色々な感情を抑え込んで要件を簡潔に答えると、黒江の母は手に持った空き瓶をかごの隙間に詰めながら、驚いたような声を上げた。
「ナナに……? 悪いけどあの子なら出てこないと思——あっ待って、もしかして君が神崎慎クン?」
彼女は声を上擦らせながらスッと立ち上がり、こちらの顔を覗き込んでくる。さっきまで気にしていなかったがこの人、背が高い。
名前を言い当てられたこともあって尻込みしそうになりながら、何とか答える。
「えっと、はい。そうですけど、なんで名前を?」
「やっぱり。前にナナの携帯にメッセージ来てたのをチラッと見てね。人の名前覚えるの得意だから。それにあの子、昔から友達少なかったし男の子なんて特に……ってこんなところで話すのもアレね。どうぞ。飲み物ならたくさんあるから。チャージは取らないから安心して」
「いやあの……えっと、おじゃまします」
条件反射で遠慮しそうになったが招き入れて貰えるのは願ってもない事だ。
それに黒江の母には聞きたいことも言いたいこともある。
「おお……」
招かれるままに扉をくぐると、そこには見慣れない酒瓶がズラリと並ぶバーカウンターと、それに沿うように並ぶ十脚ほどのイスだけがある空間だった。
広くは無いが全体的に清潔はありつつ、薄暗い照明は外と隔絶されたような退廃的雰囲気がある。
マフィア映画に出てくるアジトの画がいくつか思い浮かんだ。
「どうぞ。ウーロン茶でも入れるわ」
黒江の母は真ん中のイスを軽く引いて、自分はカウンターの中に入る。
何度も何度も繰り返してきた動作なのだろうと感じる、鮮やかな所作だと思った。
「失礼します」
案内された椅子に腰かける。座る部分がやけに高くて足がぶらついてどうにも落ち着かない。
座り方はこれで合ってるのか? これ以外座りようがないから正しいとは思うが、不安だ。
俺が何度か座り直したり、しっくりくる体勢を探してる間に黒江の母は縦長のサワーグラスにウーロン茶を入れて出してくれる。
そして流れの一環のように取り出した煙草に火をつけた。
そこでようやくこの空間の嗅ぎ慣れない匂いが壁に染み付いた煙草の香りだと気がついた。
ふぅと紫煙を吐き出すその仕草からは哀愁が立ちこめていた。
非現実的な場に飲まれかける意識を正常に取り戻すようにグラスをぐいと傾ける。散々放浪した体によく冷えたウーロン茶が染み渡り、シャンと背が伸びた。
「改めて、神崎慎です。突然お邪魔しちゃってごめんなさい」
「はい、ご丁寧に。アタシは黒江絵梨って言います。普段おじさんばっかり相手してるから、若い子と喋るの緊張しちゃうわ――そういえば慎クン、学校は?」
「えーっと、抜け出してきました」
「フフッ、見た目に寄らずやんちゃなのね」
絵梨さんは黒江と同じ笑い方で笑う。
何となく、占い師のような人だなと思った。
そして、「黒江ナナを自殺に追い込んだ酷い母親」という事前の認識とはかなり印象が違う人だとも思った。
「すみませんでした」
「ん? 全然お邪魔じゃないから、大丈夫よ」
謝罪の意図は伝わらないだろうが説明のしようも無い。
改めて、色眼鏡を外してこの人と、そしてその先にいる黒江ナナと向かい会おうと決意を固めた。
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