君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【四】暁闇

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 その文は、人を呼び出す内容のものだった。

 ――十五日の暮れ六つ刻、どうしてもお会いして話したいことがあります。

 十五日といえば今夕だ。
 香代は迷ったが、家の者には「少し実家に」と声をかけて家を出た。
 供がついて来ようとしたが、「忘れ物をしただけだから」と断る。
 吉夜の毒になるか薬になるか分からない女との対面に、供をつき合わせるべきではないと思ったのだ。
 まだ、六つ刻までは少しある。日は暮れきっていないから、様子次第では引き返すつもりだった。
 歩いて行くうち、折り悪く、空には雲が増えてきた。暦を思えば満月だろうが、この雲では隠れてしまうかもしれない。
 ――四つ辻を、町外れに向かってまっすぐに下ると、畑にぶつかる。
 書いてあった通り、香代は畑の前まで出た。
 文には、その横に建っている家の主に訪問を告げろと書いてある。

「ごめんください……」

 一見して手入れされていなさそうな家の前に立ち、玄関先でおそるおそる声をかける。
 中から唸りのような返事があって、髪も服も乱れた男が出てきた。
 男は片手にひょうたんを手にし、据わった目で香代を見つめる。

「あ、あの……人に会いに来たのですが……。こちらで、どこに伺えばいいか尋ねるようにと……」

 ああ、とうなずいた男の息が酒臭い。
 女か、と呟いたと思えば、ふらつく足取りで外へ出てきた。

「話は聞いてる。……こっちだ、来い」

 面倒くさそうに男は言った。香代はためらったあとで、男に続く。
 男は畑の隣を通り、さらに町外れへと歩いていった。
 町で生まれ育った香代も、ここまで来たことはない。不安を感じ始めたとき、ここだ、と男が立ち止まった。
 そこは小さなあばら屋だった。
 庭には、紅葉のほか、四季を楽しめそうな木々が植わっているが、もったいないことに雑草が生え放題で、まったく手入れされていない。
 足を止めたままの香代をそのまま、男はずかずかと家に近づき、戸を開けた。
 中には土間と一間があるくらいで、それも古いものなのか、あちこち傷んでいる。この辺りにしては随分狭い家だ。誰かが隠居のために作った家のように見えた。

「ここで待て」

 香代はためらいながら、男の近くに立った。中を覗いてみると、湿っぽいかび臭さがある。
 雨戸は閉められているらしく、中は暗かった。待ち人は少し外しているだけなのか、部屋の中に行燈の灯が揺れている。
 じゃあな、と男は言って、香代を残したまま立ち去った。
 手にしていたひょうたんを煽りながら帰っていく。

(……妙な男だったけれど……信じていいものかしら)

 香代は恐る恐る、あばら屋の中に足を踏み入れた。
 土間の奥にあるひと間には、畳が張られていたが、ずっと変えていないらしい。すっかりけばが立っていた。
 家の中に入れば、かび臭さだけでなく、生臭いような匂いもする。
 香代が袖で鼻を覆おうとしたとき、そのまま顔の前に手を押しつけられた。

「っ――!?」

 驚きのあまり息を飲む。後ろで戸が閉められた。香代はそのまま、木張りの床に押しつけられた。
 たたきの木に腿を打って、痛みが走る。あげた悲鳴は押さえられた手に飲み込まれた。

(しまった――)

 一気に頭から血の気が引いていく。香代の意志を問わない強引な力が、また過去の嫌な思い出を引きずり出す。心臓がざらついた音を立て始める。身体が強張り、目の前に過去の情景がちらつく。
 木の葉に覆われた夕暮れの空、男の荒い息、押さえつけられた身体の痛み、ドクダミの香り……

(だめ……思い出してはだめ)

 自分に言い聞かせる間に、香代の後ろで低く笑う男の声が聞こえた。

「のこのこ一人で来るなんて……馬鹿な女だ」

 聞き覚えのある声だ――香代は振り向こうとしたが、男に動きを奪われて叶わない。

「おとなしく俺の女になっていればよかったものを――あんな男に嫁入りするから、こういうことになる」

 男は香代の腕をつかみ、そのまま柱を抱えるように縛った。
 心臓がざらざらと荒い音を立てている。呼吸が浅く速くなる。恐怖で身体が震えている。

(やっぱり、ひとりで来るべきではなかった……)

 女手の手紙を、この男が書いたとは思えない。けれど、女が来るものと信じきっていた自分が甘かった。

「っ……!」

 後ろから、男の手が、香代の首筋を撫でる。
 気持ち悪さで声にならない悲鳴をあげると、男は満足げな吐息をついた。

「……さわり心地のいい肌だな」

 暗がりの中、行燈の灯だけが揺れている。

「これをあいつが触ったと思うと……切り刻みたくなる」

 狂気じみた言葉に、香代の身体が震えた。男はうなじに鼻先を寄せ、匂いを嗅ぐように息を吸う。

「もったいねぇことをした……十年前……びびって帰らず、最後までやってれば……」

 ――十年前。
 その言葉に、香代はぞっとする。

(あのときの男は……)

 香代を犯そうとした、二人組の男。
 兄の辰之介は目付になったとき、それが誰だったのか突き止めると、香代に密かに誓っていた。
 若い男だったという他、何の手がかりもないその調べが、どこまで進められたかは分からない――

(けれど、その男がそれなりの家格の者だとしたら……)

 突然、今までの出来事が繋がった。
 身体中を傷めつけられた兄。そこまでされても、兄は刀を抜かなかった。抜けなかったのだろう――相手の家格が自分よりも上だからだ。

(――十和田兵吾)

 確かめようと、振り向こうとした香代の頭は男の手に掴まれ、額を柱に押しつけられた。
 ごっ、と骨が柱に当たる鈍い音がする。

「見られぬ顔にする前に、一度かわいがってやる。遠慮せず喘いでいいぞ……ここにはまず誰も来ない」

 男の生暖かい吐息が、再び香代のうなじにかかった。
 ぞっ――と悪寒が背中を走る。
 脚を上げて相手を蹴ろうとするが、うまくいかない。
 男は後ろから香代の脚を割るように膝を割り込ませて笑った。

「ずいぶん威勢がいいな。だが無駄だ、ここには俺とお前しかいない。一番近くにいるのはさっきの男だが、酒さえ与えれば何でも言うことを聞く男だからな。俺がいいというまで近づくなと言えば近づきやしない」

 男は香代の耳の後ろで囁いた。

「それに……あまりおおごとにしない方が、お前のためなんじゃないか?」

 気持ち悪さに顔をよけようとした拍子に、ひゅっ、と喉が鳴った。
 真後ろから香代に覆い被さる男の薄い口元が目につく。

「夫不在の折に、御新造がわざわざひとりで家を抜け出し、あばら屋で男に抱かれたと知れたら……」

 くっくっく、と低い笑いに虫唾が走る。

「それが逢引ではないと、いったい誰が信じる?」

 香代は奥歯を噛み締めた。
 たとえどんな事情があれ、夫のいる女の姦通は最も卑しい罪とされる世だ。
 もし吉夜が赦しても、世間や義父が赦すかどうかは分からない――
 だから、と男はねっとりとした口調で言った。

「大人しく抱かれろ、香代。……そうすれば、姦通には気づかれずに済むかも知れんぞ」

 男は愉しげに喉を鳴らしながら、後ろから香代の膝の方へ手を伸ばし、裾を割った。

「っ――!」

 嫌悪感に、香代の目尻に涙が浮かぶ。腕は柱を抱くように縛られてどうしようもなく、後ろ脚で蹴ろうとしても、裾がはだけてしまうばかりだ。
 男は片手で香代の胸をまさぐり、ふと手を止めた。

「……なんだ? これは」

 男の呟きが聞こえて、香代ははっとした。
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