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第一章 なぜ私であるのか

とくになにもありません

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 ソグの中心地から馬車にて南へしばらく進むと中央ソグと南ソグとの境界線上にあたる地点に到着し、そこでは定期市であるバザーが開催されており、今日というこの日は中央と南の平和関係の象徴的イベントと呼べるものであった。

 南ソグ出身である古の龍の騎士の決定により南の地は各族長の自治に委ねられバザーも今日まで途切れることなく続きここに至る。

 この日のルールは古より変わらない。それは南の各族長一族から誰か、中央のソグ王室一家から誰かがお忍びで参加しなければならないということ。

 しかし南側は戦争の影響などによりソグ王室のものは実は来てはいないのでは? といった疑念や噂が広がっているために、ソグ王室側も特にヘイムは今回の参加はそういった政治的な意味も込めてのものだとも話合いの席で力説をしていたようであったものの、買い物リストを嬉々として眺め口ずさんでいるヘイムの姿を見るとジーナにはまるで説得力を感じられなかった。


 そんな場所にぎこちない感じの若夫婦じみた二人連れが向かっている。ソグの民族衣装を身に纏う体格のいい男と細身であり身体の障害があるのか杖をついて歩く女がそこにいた。

「ナギ、もっとゆっくりと。道が悪いから気を付けて」

「ククッ人を馬鹿にしおって。すっかり旦那面だなジン」

 ナギと呼ばれた女は笑いながら顔をあげジンと呼んだ男の顔を見る。その左半身を布で覆われており女の方に振り返る男の表情はいつもは見せない表情を見せてきた。すると女の心の安らぎといったものが湧き、その不可思議な自身の心地に堪えられずに目を外し前を見ていった。

「ここではまだその名前でなくていいぞジーナ。バザーの門を通ったら、それでいくぞ」

「あっはい。かしこまりましたヘイム様」

 そういいながらジーナはヘイムの手をとり門へと導いていく。この直前に行われた最後の会議では意見が噴出し会議は混乱し乱れていた。

「龍身を隠すだなどと」

 ルーゲンが嘆きながら訴える。

「そのようなことはしてはなりません。それは龍への冒涜であります」

 あまりの姿に場にいたものは全員ルーゲンがこれほど取り乱すのならその意見の方が正しいのでは、と思い出そうとする前にシオンが告げる。

「そのご意見は最もです。龍身は隠してはならない、これは真理でありソグ教団側の意見としては当然でしょうけれど、この件に関してはこちらはソグ王室の一人がお忍びという形で進めていく所存でございます。そのうえ龍身を隠さずにいることはそのままバザーの秩序を乱すことに繋がります、一目見てあの方はあの部族の長だ、あの人は王女様だ! などと言われないことがバザーのルールです。これまで龍身がバザーに参加した記録はございません。前例のない事態ですが今回は龍身といえどもバザーの趣旨に従い身を隠す、これがこちらの総意です。これは言うまでもなく龍身の権威を陥れるわけではなく、むしろ秩序を担う龍身にとって相応しい態度であり、まさか龍身が秩序を乱す行動をするなどあってはなりません。また公平さにも配慮するという点でも龍身の権威を高めることにも繋がるとの判断であります。どうかソグ教団側も同意を願いします」

 シオンが静かにゆっくりと理路整然とした意見を述べたことにジーナは驚いていると場の空気も一変し、今度はシオンの意見が正しいとの流れが作られルーゲンは唸るものの渋々と同意する他に無かった。

「僕が護衛でしたらこのような意見は通さなかったのに」

 とはあとから漏らした言葉だがその場合であったら果たして違う呼び名の考案があったのだろうか? それは会議後に残る方針を巡っての話し合いの席で出た意見のひとつ、別名を使うかどうかの件でありそのまま呼び合うことはできないとの意見が一致し、さて新しい名は何かということとなった時、真っ先に手をあげたのがハイネであった。

「ナギとジンでいかがでしょうか?」

 場にどよめきが起こるがハイネは動揺せずそのまま続けた。

「あの、これはあの童話の内容ではなくソグでは典型的な男女の組み合わせの名前であり、誰もが知っていて疑われる可能性が薄いということでありまして」

 ハイネがそう訴えるが誰も同意の動きを見せずにいるなかで、この会議の全時間において最終的な同意の言葉以外に口を開かなかったヘイムが手をあげて告げた。

「妾はその組み合わせに賛同するが、どうだ?」

 鶴の一声とも言えるその珍しい発言によって異論もなくその場で決定した。ヘイムがナギとなりジーナがジンとなった。

 互いにその名から解放されたわけであるが、この件に関しては決定後にシオンが直接ヘイムに文句を言いに行った。よりによってどうしてその名に同意したのか? と。遅れてきたのはハイネを叱ったからだと暗い顔つきで後ろからついてきた彼女の顔色を見てジーナは察した。

「ナギとジンだが最後の部分が気に入らんのか?」

「いえ気にいるとか気に入らないとかではなく、あれは少し不吉な話でありまして」

「それは分かっておるが、するとシオンは妾とあれがそういった関係になると想像して不吉だというのであるのか?」

「いいえ」

 かなり直接的な言葉のためにシオンが否定したためにヘイムは笑い出し、そして告げる。

「だったらよいではないかそれで。まさか妾とあれが名に引きづられてそのものとなるわけでもないし」

 謎の暗号みたいなやりとりにジーナは不審がり聞いた。

「あれはどういった童話なのですか?」

 とヘイムに尋ねたが衣装を並べて忙しそうに選別しているためにこちらを見ないまま答えた。

「ジンは妖精の男の子でナギは人間の女の子。妖精から人間に、人間から妖精にお互いになろうと頑張るが、結局どちらもそのままとなり女の子が死に男の子も死ぬ、そんな話だ」

「ずいぶんと暗くていやな話だ」

「南北ソグの姿を描いたとされておる。どちらの方へと一つにはなれないが二つのままでならいられる、そういう話で皆が騒いだのはナギが死ぬからであり、それは妾の死と関連すると感じたからだろう。下らん、そういうことだ。だからもうこの話はこれまでにして、もう誰にも聞くでないぞ。ほれこれを受け取れ、そなたが当日着る服だぞ、ジン」

 その薄紫のソグの民族衣装を着替えるとジーナは自分の姿をどこか見失った気がした。有り得ない雰囲気に包まれ、顎を隠す襟のためか痕が目立たなくなっている。加えて呼び名も変わり、これが決定的なのかめまいを起こしそうになり足元が少しふらつく。私はいったい誰なのか……

「ジン、いいですか?」

 仮設テントの中に入ってきたシオンの声だが瞬時に自分の名が分からなかった。

「ほぉ、馬子にも衣裳といいますか、悪くはありませんね。予定通りに進んでいますが、これも使ってください」

 差し出された手には小さめな財布であるものの受け取るとジーナが今まで持ったことのない質量であることが中身を見ずとも分かった。

「事前に渡された財布があるのですが」

「あれは申請を無事通す程度のものです。あんなのはあっという間に無くなりますよ。幸いあなたですからこれを渡せます。バレてもあなたのせいにできますしね。あっいまのは聞かなかったことにしてください。それでこれはですね、去年使えなかった分に加えて私からの寸志です。どうにかこうにかして、使い切ってください」

 あっという間に? 事前に預かっただけでも十分すぎるほどだというのに、これまた次元の違うことを言われてジーナは沈黙していると、言い難そうにしていたシオンが続けた。

「つまりはですね、あの子を、いえヘイム様を楽しませてやってください。これが最後でしょうから」

 その言葉によって何かしらの衝撃が足元で起こりジーナの意識は生じた穴によって落ちて行こうとするも、言葉によって踏み留めさせた。

 最後って、なんだ?

「それは、違いますよ」

 驚くシオンの顔に、男は言う。

「ナギ様を楽しませるのです」

 通じたのかシオンが笑い答える。

「あなたも間違えているわ。ナギを楽しませる、いいですかジン」

 たしかにそう呼ばれはじめてその名が、しっくりと来た。私の名は、ジン。

 予定は朝早くから始まり昼頃には終了というものであり、先んじて男は指定位置に待機していると向うから馬車がやってきた。

 それからシオンらしき誰かがこちらに手を振った。すぐに分からないその誰かは緑と青の派手な衣装を身にまとい栗色の長髪であるからである。

 恐る恐る男が近づいて行くと声が聞こえ、それはシオンなのである。

「シオン様に見えませんが、どなた様でしょうか?」

「なにをとぼけたことを言っているのですか。私ですよ、私以外の誰だというのですか」

 本当にだれなんだろうとその色彩豊かな服と長髪を見ながら男は思った。

「いまは貴婦人そのものですが、考えてみると普段の格好の方が仮想衣装での人物っぽいですよね」

 憤懣やるかたないといった感じでシオンが息を吐くとその背後から笑いながら出てきた美青年に男は気付くが、そちらは見間違えること無く誰だかすぐに分かった。

「では私は誰でしょうかジンさん?」

「ハイネさんは男装しても美少年か女の子にしか見えないのがシオン様には遠く及ばないかな」

「それはそれで褒め言葉でしょうか、あっシオン様違いますよ。これは姉様がカッコいいからでありまして」

「ふざけあうのもそれぐらいにしておくのだぞ。しかしあれだなシオン。いまのそなたは実に美しいな」

 奥の方から赤い衣装に身を纏ったヘイムが現れシオンのかつらを撫でながらそういった。ハイネも同調して湛えながら髪を触って懐かしがっていた。

「ヘイム様の命令で無かったら絶対にこんな恰好なんかしませんよ」

「ハッ、こんなこといってノリノリだったくせにな。どうだ久しぶりにかつらで髪を取り戻し襟首まで絞める上着やぴったりなズボン以外の服を着た感想は?」

「良い悪いは置いときますと正直なところ女という感じを思い出しましたね」

「おう思い出すのは良いことだ。忘れぬようにな。とまぁそういうことだ、このように妾が身を隠しているのだから当然皆も仮装する必要があろうに、そうだろう、なあ?」

 後ろ向きであったヘイムが振り返ると、男にとって知らない女がそこにいた。

 幾何学風な模様の赤い衣装に包まれた女。左半身は完全に隠れ見えるのは右手に右顔、隙間から流れる銀色の髪に青黒い瞳。知っているのに知らないもの。

 男はそれが誰であるのかを認識することに心の全てが動員し、無呼吸のまま女を無言で見続ける。これはいったいだれなのだろうか?

 そんな男の内面で渦巻く混沌と崩壊など気にせずに女は話しかけてきた。

「予想通りとても似合っておるな。どうだ妾が選んだこの衣装は。目に狂いはなかったな」

「男で紫とは奇抜ですけどソグ人っぽさのない顔のジーナさんが着ると結構似合いますね。異国人の仮装としてはすごく目立ちますし」

「こちらとしてはその特徴的な色が目印になりますから尾行ともども助かりますね。はじめはどんだけ悪趣味になるのかと思いましたけど、ジーナがマイナスだからかマイナスと掛け合わさってプラスになった感があって、まっ悪くはありませんね。酷かったらいつもの軍服でやらせるつもりでしたし」

 褒めているのか貶しているのか、いや褒めていないかと複雑な批評を耳にしながら男は心が徐々に落ち着いて来て女を見る。

 いま見ているのは、ヘイムではないというものと男は考える。少しの間だけ龍身でもヘイムでもない女となるもの、それなのだと。

「ご令嬢二人から御講評を受けたがそれで妾はどうだ?」

 男はぼやけ気味だった視点がこの時確かなものになる。動いてもいないのに女が近づく意識のなかで男は胸への痛みもなく一つのことを思った、美しいと。

 そう思うと同時に女は微笑み瞳の奥に閃光を放ち、男はそこに向かって答えた。

「とくになにもありません」

「そなたに美の説明などできるはずもないし、それでよいぞ」

 そう言うと女は右手を差し出し男は導きのための左手を出し触れる。その知っている感触に温度であるのに男には違う何かを感じそれから震えた。
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