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第一章 なぜ私であるのか
おぞましいか?
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耳が塞ぐことができたらどれだけよかったことか、とジーナは思うもこの程度の問いなら対応可能だと少しは安心をした。
「貴婦人の前でこんなことを言うのはよくはありませんが、わざわざこちらに来たのは金ですよ、へっへっ金が欲しくてたまりませんですからね。私はあちらでは商人でもありまして、こちらとは砂漠を越えてよく交易をしていましたが、今度は戦争ということでこの身一つを売りまして、傭兵になりましたよ。バルツ様はよくしてくださります。それだけの理由でこちらに参った次第ですよ、はい」
こう露悪的に言えば相手は鼻白んで軽蔑し口も利かなくなる。それはいつものことであり慣れきったことである。
ましてやそのお相手は貴婦人を通り通り越してのいわゆる最も尊き御方。場合によっては二度と呼ばれることも無くなる……内心こう期待するもののしかしジーナは違和感を抱いた。
この言葉に対する反応が、無い。
軽蔑や憐憫でも人が他者に発する感情というものは伝わるものであるのに、ここにはその感情の発露を感じられなかった。
それはまるで今の言葉が存在しないかのようにその虚ろさを見抜いているように。
そうであるから次の言葉に驚きが無かった。
「西の果てには龍の信仰が無いと聞いたが、実情はどうなのだ?」
意味がある問いとは到底思えなかった。実情もなにも知っていて敢えて聞いているといったようなその姿勢にジーナの声は荒れた。
「私には興味がないことですからよくは知りませんが、無いんじゃないですかね。あの砂漠は龍の信仰を越えさせていないようですし」
これもそう同じくなにも伝わるはずがないもの。何の意味もなく互いに何も問わず語らず空虚であることを確かめあうことを目的とした問答。
当然であることを確認し合うようなやり取り、無論反応は何も返ってはこなかった。
しばらく次の言葉を待つがもはやジーナは耐え切れず打ち切ろうとする。
私達の間には、もうこれ以上のなにも必要がない。
「あの、作業を命ぜられないのならば、これでおしまいならば、もうここで今日は」
言いながら立ち上がり、ようやくジーナは気が付いた。あれは自分の背後にはいない、と。
いると思い込んでいたがいつのまにか移動をしている。
ではどこに?
そう思うもののけれどもジーナは探さない。いいや探せなかった。
だからジーナは反射的に瞼を閉じ、闇へと入っていく。ここではいまはなにも見たくはない、という意思が働き瞼が上がらない。
あちらからの問い掛けは完全に途絶え、あたかも世界は静寂なる暗闇によって閉ざされているかのようである。
だがこれでいい、とジーナは考えまた思う。
いつものことだ、だいたい自分は瞼を開いている時も結局は沈黙と闇で覆われている、と。
真実を言わず語らずの繰り返し……そう、今の対話のように、語り合うことはなにもなく沈 黙しなければならない。
特にあれとは、あれとだけは、決して……決して一歩たりとも近づくことさえも望まない。
ジーナの思考が闇の中へと溶けて消えていこうとするが、床が鳴る。床への杖による一突きがその夢想じみた思考を砕きジーナは現実へと帰ってくる。
やはりあれが近づいてくる、杖で床を叩き物理的な距離のみが近づき、止まった。
眼の前にそれはいる。ジーナは気配を消すためか呼吸を止め闇のなか、対峙する。
匂いすら拒否し、思う。いまここは死の場所に限りなく近くまた遠いと。その手前には試練が使命があり、それこそが近くまた遠い未来に起こること。
それはきっとこのような形で現れる。ジーナが考えていると不意に左の頬に冷たいものが触れてきた。
見ずともすぐに右手だと分かる。
確かめに来たのだと。見ることができないお前はそれをするしかないのだろう。
左頬の痕を印を右手で触れに来たのだ。
だが龍よ、お前は分からないのだ。分かるはずもない。
「なにを、見ているのだ?」
声は闇の彼方からではなくその中心から湧き出るように聞こえてきた。
耳からは聞こえない。この左頬の痕から伝わって来たのだろうか?とジーナは思い、答える。
「闇を見ているのです。あなたの左眼と同じことですよ」
「お前はずっと目を逸らし瞼をつぶるが……何故見ぬのだ?」
左頬にかかる冷たさの熱が変わり始める。何と答えるべきか?
尊過ぎて……違う。心にもない言葉やそのような誤魔化しなど求められず聞こえはしないのだ。
そして、いまの自分はそのような言葉を言えるはずがない。世界が闇なのだから。
いま、自分が言うべき言葉とは?ジーナはこれ以上考えるのをやめると、瞼が自然に開きだした。
「お前は、こちらを見ないように努めている。見ることを拒絶している」
「……あなたを見たくないからです」
「そうだ、この言葉だ」
とジーナは瞼が開かれる様に心の解放感を同時に覚える。
眼前になにがあるのかを、一目見た瞬間で湧き起るその心がなんであるのかも、分かり伝わっているのだろう。
瞼の隙間から光が差し込む前に龍身が現れる。
底が見えない暗闇の眼孔に薄紫の肌にいまは見えないが指が欠落した左手と傷つき歪んだ左脚がある。
その全てを、私は知っている。私だけが知っているはずのもの。
「おぞましいか?」
「貴婦人の前でこんなことを言うのはよくはありませんが、わざわざこちらに来たのは金ですよ、へっへっ金が欲しくてたまりませんですからね。私はあちらでは商人でもありまして、こちらとは砂漠を越えてよく交易をしていましたが、今度は戦争ということでこの身一つを売りまして、傭兵になりましたよ。バルツ様はよくしてくださります。それだけの理由でこちらに参った次第ですよ、はい」
こう露悪的に言えば相手は鼻白んで軽蔑し口も利かなくなる。それはいつものことであり慣れきったことである。
ましてやそのお相手は貴婦人を通り通り越してのいわゆる最も尊き御方。場合によっては二度と呼ばれることも無くなる……内心こう期待するもののしかしジーナは違和感を抱いた。
この言葉に対する反応が、無い。
軽蔑や憐憫でも人が他者に発する感情というものは伝わるものであるのに、ここにはその感情の発露を感じられなかった。
それはまるで今の言葉が存在しないかのようにその虚ろさを見抜いているように。
そうであるから次の言葉に驚きが無かった。
「西の果てには龍の信仰が無いと聞いたが、実情はどうなのだ?」
意味がある問いとは到底思えなかった。実情もなにも知っていて敢えて聞いているといったようなその姿勢にジーナの声は荒れた。
「私には興味がないことですからよくは知りませんが、無いんじゃないですかね。あの砂漠は龍の信仰を越えさせていないようですし」
これもそう同じくなにも伝わるはずがないもの。何の意味もなく互いに何も問わず語らず空虚であることを確かめあうことを目的とした問答。
当然であることを確認し合うようなやり取り、無論反応は何も返ってはこなかった。
しばらく次の言葉を待つがもはやジーナは耐え切れず打ち切ろうとする。
私達の間には、もうこれ以上のなにも必要がない。
「あの、作業を命ぜられないのならば、これでおしまいならば、もうここで今日は」
言いながら立ち上がり、ようやくジーナは気が付いた。あれは自分の背後にはいない、と。
いると思い込んでいたがいつのまにか移動をしている。
ではどこに?
そう思うもののけれどもジーナは探さない。いいや探せなかった。
だからジーナは反射的に瞼を閉じ、闇へと入っていく。ここではいまはなにも見たくはない、という意思が働き瞼が上がらない。
あちらからの問い掛けは完全に途絶え、あたかも世界は静寂なる暗闇によって閉ざされているかのようである。
だがこれでいい、とジーナは考えまた思う。
いつものことだ、だいたい自分は瞼を開いている時も結局は沈黙と闇で覆われている、と。
真実を言わず語らずの繰り返し……そう、今の対話のように、語り合うことはなにもなく沈 黙しなければならない。
特にあれとは、あれとだけは、決して……決して一歩たりとも近づくことさえも望まない。
ジーナの思考が闇の中へと溶けて消えていこうとするが、床が鳴る。床への杖による一突きがその夢想じみた思考を砕きジーナは現実へと帰ってくる。
やはりあれが近づいてくる、杖で床を叩き物理的な距離のみが近づき、止まった。
眼の前にそれはいる。ジーナは気配を消すためか呼吸を止め闇のなか、対峙する。
匂いすら拒否し、思う。いまここは死の場所に限りなく近くまた遠いと。その手前には試練が使命があり、それこそが近くまた遠い未来に起こること。
それはきっとこのような形で現れる。ジーナが考えていると不意に左の頬に冷たいものが触れてきた。
見ずともすぐに右手だと分かる。
確かめに来たのだと。見ることができないお前はそれをするしかないのだろう。
左頬の痕を印を右手で触れに来たのだ。
だが龍よ、お前は分からないのだ。分かるはずもない。
「なにを、見ているのだ?」
声は闇の彼方からではなくその中心から湧き出るように聞こえてきた。
耳からは聞こえない。この左頬の痕から伝わって来たのだろうか?とジーナは思い、答える。
「闇を見ているのです。あなたの左眼と同じことですよ」
「お前はずっと目を逸らし瞼をつぶるが……何故見ぬのだ?」
左頬にかかる冷たさの熱が変わり始める。何と答えるべきか?
尊過ぎて……違う。心にもない言葉やそのような誤魔化しなど求められず聞こえはしないのだ。
そして、いまの自分はそのような言葉を言えるはずがない。世界が闇なのだから。
いま、自分が言うべき言葉とは?ジーナはこれ以上考えるのをやめると、瞼が自然に開きだした。
「お前は、こちらを見ないように努めている。見ることを拒絶している」
「……あなたを見たくないからです」
「そうだ、この言葉だ」
とジーナは瞼が開かれる様に心の解放感を同時に覚える。
眼前になにがあるのかを、一目見た瞬間で湧き起るその心がなんであるのかも、分かり伝わっているのだろう。
瞼の隙間から光が差し込む前に龍身が現れる。
底が見えない暗闇の眼孔に薄紫の肌にいまは見えないが指が欠落した左手と傷つき歪んだ左脚がある。
その全てを、私は知っている。私だけが知っているはずのもの。
「おぞましいか?」
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