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溺れる! (カウンタークルー 古木理緒)

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 はじめこそビーチボールでバレーなどに興じていたが、理緒はすぐに飽きてしまった。
 海に浸かっても、浅瀬で浮いているだけだ。シニヨンにしているとはいえ、髪が濡れるのが嫌なので、平泳ぎで顔は常に出している。学校のプールより体が浮きやすく、長く続けると腰が痛くなりそうだった。適当に引き上げようと思った。
 三つくらいの女の子が浮き輪を使って足をばたばたさせていた。
 通りすがりで顔を見合わせ、ピースサインを送ると、女の子はにこっと笑った。可愛い盛りだ。
 すぐ傍に母親らしき女性が、もうひとり赤ん坊のような男の子を両手で抱えて、海面に浮かべていた。横にはさらに同じくらいの親子の姿があった。
 何とものどかな風景。理緒は海から上がると、砂地に体を横たえた。
 十メートルほど向こうで、松原、伊堂寺、留美佳、富貴恵がバレーボールをしていた。
 荷物置き場のシートには、ちゃっかり璃瀬がもどって休んでおり、その横に美香がいて、小野田と話をしている。この二人が傍にいると璃瀬はナンパを受けるチャンスが激減するだろう。彼女には全くその気がないようだったが。
 両手を頭の後ろで組んで枕にし、仰向けで根っころがる。水からあがったばかりで寒かった肌が、照りつけで、たちまち熱くなっていった。
 やっぱり焼けるんじゃないかしら、と思った。
 目を閉じるとあちこちから嬌声が聞こえる。こういう時間の過ごし方を理緒は知らなかった。
 常に追いまくられていたようだ。競争ばかりしていた。丁寧な仕事より、スピードを選んだ自分は間違いだったのか。ちっぽけな存在だと思い知らされると、もう何でもいいという気になっていった。
 突然がばっと波が襲い、頭も顔もずぶぬれになった。口にも入ってむせた。
 髪がべっとりと濡れてしまった。ただでさえ肌に塩が染み付いてねちゃねちゃとしているのに、これで頭も台無しだ。
「あーん、馬鹿にしてー」
 自分の嘆きを耳にすると同時に、沖の方から悲鳴が聞こえた。
 身を起こし、そちらを見る。赤ん坊を抱きかかえた母親が二人、さらに沖の方に目を向けて叫んでいた。
 その先に裏返しになった浮き輪が音もたてずに浮いていた。女の子の姿がない。
 考えもせずに体が動く。それが理緒の性分だった。無我夢中で海に飛び込んだ。顔をあげたままクロールのように手をかき、足をしならせているうちに、十メートル以上さきに浮いたり沈んだりする女の子を見つけた。波はあっという間に女の子をさらっていったのだ。
 泳ぎには自信があったが、ゴーグルもしていない目はすぐに海水にやられてしまい、徐々に視界がはっきりしなくなっていった。全く煩わしい。早く見つけなくてはと思い、夢中で手を掻く。
 ときどきやってくる高波をくぐりぬけ、ようやく手のとどきそうなところに女の子を見つけた。
 火事場の馬鹿力で女の子を確保。ほっとした瞬間、二人揃って下へ沈んでいく。足がつかない深さになっていた。
 それからが大変だった。女の子が泣き叫んで暴れるので、収拾がつかない。頭の上に持ち上げて立ち泳ぎをしようとしたがだめだった。そのうち目も見えなくなり、陸か沖かの方向すらわからなくなった。
 まずい、このまま溺れて死ぬのか。しかし何とか女の子だけでも母親に返してあげたい。
 こんな状況でも冷静に死を見つめる自分が滑稽だった。
 お父様、お母様、親不孝の理緒をお許しください。わがままでちっとも言うことの聞かない娘でした。十七年ありがとう……。
「なんて、言ってる場合か! 誰か助けに来ないのかー!」
 理緒は叫んだ。
「古木! こっちだ!」
 天の助けか。いや松原の声だった。
「こっちへ渡せ!」
 いつも軽薄そうな松原チーフが真剣な顔になっていた。間近に来た彼に理緒は女の子を託した。
「古木、何とか自力で戻って来い。俺の声のする方に泳ぐんだ」
「はい」と我ながら素直な返事ができると理緒は自分を見直した。
 しかし無理な泳ぎが祟ったのだろう、ふくらはぎがつった。あまりの痛さにふくらはぎを押さえようとしたら、またも体が沈み始めた。
 ぶくぶくぶくと口から空気が漏れていく。
(ああ、今度こそ、だめだ、体がいうことを利かない)
 全身に乳酸がたまっている感覚を覚えた。女の子を松原に渡して安心したのかもしれない。それまでは必死になっていて、非常事態に気づいていなかったのだ。
(死にたくないよう……)
 そう思ったとき、腕を掴まれた、かすむ目をむけると、長身の男らしい姿があった。
 身をあずけると、仰向けの状態で体が浮いた。体の下にベッドのように誰かの体があった。あごに手があてられ、そのまま頭の方へ少しずつ移動していく。まるで人間の船のようだ。
 気が緩み、意識が遠のいていった。

 遠くで人の声が聞こえる。
「……しっかりしろ、古木!……」
「人工呼吸は?」という声。
 目の前が暗くなった。
(え! もしかして、マウスツーマウス?)
 金縛りを解くようにして力をこめ、目をあけると伊堂寺つばさの顔があった。
「息してるわよ、私!」
 気づいたら思い切り、伊堂寺の頬を張っていた。
 伊堂寺つばさは、なよなよと崩れ落ちた。
「大丈夫か、古木」と松原チーフの声がした。振り向くと柄にもなく真剣な彼の顔があった。
「ああ、よかった」と美香と璃瀬が安堵の表情を浮かべている。
 周囲に多くの人がいて、一斉に理緒に注目していた。
「女の子は?」
 松原の差す方に、母親にしがみ付いている女の子の姿が見えた。ふるえつつ円らな瞳を理緒に向けていた。
「良かった……」と理緒はまた力が抜ける。美香の膝の上に頭を寄せた。
 母親が平身低頭して感謝のことばを雨あられのように理緒に注いだ。いつの間にかライフセーバーたちもかけつけていて、幸いなことに誰にも問題がなかったことを確認すると、ひとりふたりと取り巻いていた人々が散っていった。
 美香の説明では、理緒から女の子を受け取って浜まで運んだのが松原、理緒の体を誘導したのが伊堂寺つばさだったという。
 頬を叩いても反応のない理緒を見て、あわてた伊堂寺は人工呼吸をしようとして、理緒に張り手を喰らったという話だった。
「手順の間違いよ、ちゃんと呼吸してないことを確認してからすればよかったのよ」
 ここでも璃瀬はトレーナーのような口の利き方をした。
「惜しかったなあ、伊堂寺。古木のファーストキッスをいただく最大のチャンスだったのに」
 松原はすっかりふだんの彼になっていた。こういうところでいうことかと理緒は憤慨した。
「やっぱり確認は大事ね、何事も」
「それにしてもすごい張り手だったなあ」
「何だか、可哀相。一所懸命リオさんをここまで救出したのに、最後にああいう仕打ちなんて……」
 みんな勝手なことを言っている、しかも笑顔で。理緒は爆発した。
「うるさい! 黙れ! こっちは必死だったのに、笑いものにして……」
 あまりに情けなくて、涙が溢れてきた。
「ああ、ごめん、ごめん、理緒ちゃん、誰も笑っちゃいないわ」
「ほっとして笑顔になっただけだぜ」
「よく頑張ったでござるよ、リオさん」
「そんなに泣かないで、あなたはあの子の命の恩人なんだから……」
 いろいろ言葉をかえて言われても、理緒の機嫌がなおることはなかった。
 ただこれだけはしておかないと、人間として恥ずかしい、そう思った理緒は、膝を崩して女のように呆然と坐っていた伊堂寺つばさに声をかけた。
「ひ、引っ叩いてごめんなさい。それから、助けてくれて、あ、ありがとうございました……」
 つばさは叩かれた頬をおさえつつ、うんうんと頷いた。

 帰りは松原チーフの車に乗った。
 美香と璃瀬が付き添うように一緒に乗り、伊堂寺は理緒の代わりに小野田の車に乗った。あちらでは富貴恵と留美佳が伊堂寺のケアをするという。
 自分はやはり問題児なのかと理緒は反省した。
 あの瞬間、理緒の目には軽薄な松原が勇ましく格好良く見え、命の恩人である伊堂寺の活躍は全く認識していないのだ。感謝をしなければと思いつつ、なよなよしたオカマに頭を下げるのは違和感があった。
「スイッチが入って男になったのよ、伊堂寺君」と美香が説明したが、本当とは思えなかった。
「そう、かっこよかった。見直したわよ」と璃瀬までが絶賛したのに、どうしても救命者のイメージが思い浮かばない。
 そういう意味で申し訳ない、というのが、かろうじて理緒の心に生じた伊堂寺への思いだった。
 しかし今回のレクで、理緒は仲間のありがたみを知った。いざという時に役に立つ。お互いに庇いあう。緊張を解すためにリラックスさせることを言おうとする。彼らはそういう面で一致団結しているようだった。これを見せ付けられると、自分もその中に加わらなければならない。
 何かあったときに、自分も仲間のために動こうと理緒は決意した。
 締めくくると睡魔がやってきて、理緒は車の中で安心して眠った。他のメンバーも運転手を除いて爆睡したという。
 八人は途中のファミレスで夕食をとり、楽しいレクリエーションを終えたのだった。
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