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スーパーガール
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「それでは、帰りましょうか」
「はい」
棚橋さんは帰り支度を始めた。
私もカップを片付けて、更衣室にリュックを取りにいく。事務所に戻ると、棚橋さんが待っていてくれた。
私達が最後なので、戸締りをしてからフロアをあとにする。
(考えてみると、こんな風に二人きりでいるのは初めてだ)
かつてない急接近にドキドキするが、慌てて顔を振った。
(ときめいてる場合じゃない。私のせいで棚橋さんが怪我をしたというのに、何をのんきな)
ビルを出たところで棚橋さんが立ち止まり、こちらに振り向く。
不謹慎な思考を見透かされたのではと緊張するが、彼は別のことを口にした。
「末次さん、一度帰って準備しますか? 明日の着替えとパジャマが必要でしょう。それとも、とりあえず今夜は、着の身着のまま泊まりますか」
「はあ…………えっ?」
今、何と?
よく、わからないことを言われたような。
「泊まる……って。えっ、どこ……に、ですか?」
うろたえる私に、棚橋さんは真顔で言葉を継ぐ。
「もちろん、僕のアパートですよ。家事を手伝ってくれるんですよね?」
「は……はいい!?」
今のは冗談?
いや、棚橋さんは大真面目だ。
いやいやいや、ちょっと待ってください。確かに家事を手伝うと約束しましたが、そこまでするつもりはありませんが!?
と、言いたかったのだが、驚きすぎて私は口をパクパクさせるのみ。
「僕のアパートは歩いて10分ほどのところにあります。そうだなあ、今夜はもう遅いし、このまま泊まってください。途中にスーパーがありますから、そこで晩ごはんと一緒に必要なものを買いましょう」
他意を感じさせない、てきぱきとした口調。棚橋さんは私の申し出を、仕事の延長と考えているのだろうか。
「ちょ、あの……棚橋さん、私は、住み込みというわけでは……」
「遠慮は無用です。家事を手伝ってくれるのですから、必要経費は僕が持ちますよ。さ、早く行きましょう」
棚橋さんはにこりと微笑み、さっさと歩いていく。
あまりにも自然な様子に、私はものも言えず、とりあえず従うほかなかった。
棚橋さんのアパートの手前に大型スーパーがある。思わぬ展開に混乱しながらも、私は彼と一緒に食品売り場を回り、晩ご飯の弁当と朝食の材料を買い物した。
「お菓子も買っていいですよ」
「ええっ? いえ、大丈夫ですので」
「そうですか? じゃあ、食品の会計が済んだら、着替えなど買いに行きましょう」
「は、はいっ」
片手が使えない棚橋さんは、財布からカードを取り出すのも難儀そうだった。私はそれを手伝ううちに、徐々に現実に立ち返ってくる。
(私、わかってなかった……)
家事を手伝う――半端な気持ちで考えていたことに思い至り、自分を恥じた。そして、彼との急接近を喜び、安易にときめいたことを恥じた。
棚橋さんの家事を手伝うのは、仕事の延長なのだ。
(でも、泊まるのって)
彼は抵抗がないのだろうか。気持ちの整理がつかないまま、買い物を続けた。
棚橋さんは、私が買うものすべてをカードで支払ってくれた。私はリュックから財布を出し、お金を返そうとするが、
「言ったでしょう、経費は僕が持つって」
目を逸らし、むこうを向いてしまう。彼らしくもない頑なな態度を見て、これ以上遠慮するのは、かえって失礼かもしれないと感じてきた。
後日、まとめて返すことにする。
「……では、ありがたくいただきます」
「よろしい」
買い物の荷物は私が持った。棚橋さんが持とうとするのを全力で阻止し、奪い取るようにして。
「これは私の仕事ですから」
「でも、重いでしょう」
「全然平気です」
本当に平気だ。この時ばかりは、力持ちと思われても構わないと、開き直ることができた。
しかし棚橋さんは、私が無理をしているように見えるのか、アパートに着くまで心配そうな顔でこちらを窺っていた。
「このアパートです」
棚橋さんの住まいは、12階建ての小ぎれいなマンションだ。
私はここへきて、いきなり緊張してきた。
(今夜、棚橋さんの部屋に泊まるんだ……まじで)
「さあ、どうぞどうぞ」
私の緊張を知ってか知らずか、彼はオートロックを解除し、エントランスに招き入れる。エレベーターで5階に上がり、降りてすぐのところにあるドアの前で立ち止まった。
「ここが僕の部屋です」
「な、なるほど」
何がなるほどなのか、自分でもわからない。本当に来てしまったのだ、彼の部屋に。
いざとなり、頭の中が混乱してきた。
やっぱりこんなのは良くない。いくらなんでも、男性の部屋に泊まるなんて。もしかしたら棚橋さんは、私を女と思っていないのだろうか。そうかもしれない。だけどこんなのは良くない。やっぱり帰ろうか。でも、それでは家事を手伝うという約束が果たせない。彼が怪我をしたのは私のせいなのに。
モラルと責任の狭間で、私の心は揺れに揺れた。
何も言えずに突っ立っていると、彼が顔を覗き込んでくる。
「末次さんは、隣で寝泊まりしてくださいね」
「はい、わかりまし……」
こうなったら腹を決めよう。そう思いながら返事をするが――
「……隣?」
棚橋さんは、隣のドアを指差している。
「はい、隣の部屋です。僕の部屋は501号室。これは502号室の鍵です」
「……」
カードキーを手渡された。これは一体……? 私は首を傾げつつ、棚橋さんを見上げる。
「ああ、そうか」
彼はようやく、私の戸惑いに気付いたらしい。微かに頬が染まっている。
「実は、大量の本を整理するために、倉庫代わりにもう一部屋借りているのです。すみません、最初に言っておくべきでしたね」
「はああ?」
膝から崩れそうになった。
つまり、同じ部屋で寝泊まりするわけではなかったのだ。
「電気も水道も普通に使えますよ。テーブルに椅子、テレビ、布団も一組置いてありますので。あ、掃除機はかけたほうがいいかな」
502号室の説明をしながら、501号室のドアを開ける。少し上ずった声に聞こえるのは、気のせいだろうか。
いや、彼は今頃になって状況を把握したのだろう。
(た、棚橋さんって……天然?)
何だか可笑しくなり、ぷっと噴き出した。
「ど、どうかしましたか?」
「いいえ……うっ、うふふ……」
緊張が解けたせいか、笑いが止まらない。
照れながら部屋を案内する彼に、これまでとは違う親しみを覚えるのだった。
「はい」
棚橋さんは帰り支度を始めた。
私もカップを片付けて、更衣室にリュックを取りにいく。事務所に戻ると、棚橋さんが待っていてくれた。
私達が最後なので、戸締りをしてからフロアをあとにする。
(考えてみると、こんな風に二人きりでいるのは初めてだ)
かつてない急接近にドキドキするが、慌てて顔を振った。
(ときめいてる場合じゃない。私のせいで棚橋さんが怪我をしたというのに、何をのんきな)
ビルを出たところで棚橋さんが立ち止まり、こちらに振り向く。
不謹慎な思考を見透かされたのではと緊張するが、彼は別のことを口にした。
「末次さん、一度帰って準備しますか? 明日の着替えとパジャマが必要でしょう。それとも、とりあえず今夜は、着の身着のまま泊まりますか」
「はあ…………えっ?」
今、何と?
よく、わからないことを言われたような。
「泊まる……って。えっ、どこ……に、ですか?」
うろたえる私に、棚橋さんは真顔で言葉を継ぐ。
「もちろん、僕のアパートですよ。家事を手伝ってくれるんですよね?」
「は……はいい!?」
今のは冗談?
いや、棚橋さんは大真面目だ。
いやいやいや、ちょっと待ってください。確かに家事を手伝うと約束しましたが、そこまでするつもりはありませんが!?
と、言いたかったのだが、驚きすぎて私は口をパクパクさせるのみ。
「僕のアパートは歩いて10分ほどのところにあります。そうだなあ、今夜はもう遅いし、このまま泊まってください。途中にスーパーがありますから、そこで晩ごはんと一緒に必要なものを買いましょう」
他意を感じさせない、てきぱきとした口調。棚橋さんは私の申し出を、仕事の延長と考えているのだろうか。
「ちょ、あの……棚橋さん、私は、住み込みというわけでは……」
「遠慮は無用です。家事を手伝ってくれるのですから、必要経費は僕が持ちますよ。さ、早く行きましょう」
棚橋さんはにこりと微笑み、さっさと歩いていく。
あまりにも自然な様子に、私はものも言えず、とりあえず従うほかなかった。
棚橋さんのアパートの手前に大型スーパーがある。思わぬ展開に混乱しながらも、私は彼と一緒に食品売り場を回り、晩ご飯の弁当と朝食の材料を買い物した。
「お菓子も買っていいですよ」
「ええっ? いえ、大丈夫ですので」
「そうですか? じゃあ、食品の会計が済んだら、着替えなど買いに行きましょう」
「は、はいっ」
片手が使えない棚橋さんは、財布からカードを取り出すのも難儀そうだった。私はそれを手伝ううちに、徐々に現実に立ち返ってくる。
(私、わかってなかった……)
家事を手伝う――半端な気持ちで考えていたことに思い至り、自分を恥じた。そして、彼との急接近を喜び、安易にときめいたことを恥じた。
棚橋さんの家事を手伝うのは、仕事の延長なのだ。
(でも、泊まるのって)
彼は抵抗がないのだろうか。気持ちの整理がつかないまま、買い物を続けた。
棚橋さんは、私が買うものすべてをカードで支払ってくれた。私はリュックから財布を出し、お金を返そうとするが、
「言ったでしょう、経費は僕が持つって」
目を逸らし、むこうを向いてしまう。彼らしくもない頑なな態度を見て、これ以上遠慮するのは、かえって失礼かもしれないと感じてきた。
後日、まとめて返すことにする。
「……では、ありがたくいただきます」
「よろしい」
買い物の荷物は私が持った。棚橋さんが持とうとするのを全力で阻止し、奪い取るようにして。
「これは私の仕事ですから」
「でも、重いでしょう」
「全然平気です」
本当に平気だ。この時ばかりは、力持ちと思われても構わないと、開き直ることができた。
しかし棚橋さんは、私が無理をしているように見えるのか、アパートに着くまで心配そうな顔でこちらを窺っていた。
「このアパートです」
棚橋さんの住まいは、12階建ての小ぎれいなマンションだ。
私はここへきて、いきなり緊張してきた。
(今夜、棚橋さんの部屋に泊まるんだ……まじで)
「さあ、どうぞどうぞ」
私の緊張を知ってか知らずか、彼はオートロックを解除し、エントランスに招き入れる。エレベーターで5階に上がり、降りてすぐのところにあるドアの前で立ち止まった。
「ここが僕の部屋です」
「な、なるほど」
何がなるほどなのか、自分でもわからない。本当に来てしまったのだ、彼の部屋に。
いざとなり、頭の中が混乱してきた。
やっぱりこんなのは良くない。いくらなんでも、男性の部屋に泊まるなんて。もしかしたら棚橋さんは、私を女と思っていないのだろうか。そうかもしれない。だけどこんなのは良くない。やっぱり帰ろうか。でも、それでは家事を手伝うという約束が果たせない。彼が怪我をしたのは私のせいなのに。
モラルと責任の狭間で、私の心は揺れに揺れた。
何も言えずに突っ立っていると、彼が顔を覗き込んでくる。
「末次さんは、隣で寝泊まりしてくださいね」
「はい、わかりまし……」
こうなったら腹を決めよう。そう思いながら返事をするが――
「……隣?」
棚橋さんは、隣のドアを指差している。
「はい、隣の部屋です。僕の部屋は501号室。これは502号室の鍵です」
「……」
カードキーを手渡された。これは一体……? 私は首を傾げつつ、棚橋さんを見上げる。
「ああ、そうか」
彼はようやく、私の戸惑いに気付いたらしい。微かに頬が染まっている。
「実は、大量の本を整理するために、倉庫代わりにもう一部屋借りているのです。すみません、最初に言っておくべきでしたね」
「はああ?」
膝から崩れそうになった。
つまり、同じ部屋で寝泊まりするわけではなかったのだ。
「電気も水道も普通に使えますよ。テーブルに椅子、テレビ、布団も一組置いてありますので。あ、掃除機はかけたほうがいいかな」
502号室の説明をしながら、501号室のドアを開ける。少し上ずった声に聞こえるのは、気のせいだろうか。
いや、彼は今頃になって状況を把握したのだろう。
(た、棚橋さんって……天然?)
何だか可笑しくなり、ぷっと噴き出した。
「ど、どうかしましたか?」
「いいえ……うっ、うふふ……」
緊張が解けたせいか、笑いが止まらない。
照れながら部屋を案内する彼に、これまでとは違う親しみを覚えるのだった。
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