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スーパーガール
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仕事を終えて建物から出ると、ムッとする暑さに襲われた。
昼間の熱気がビルの壁やアスファルトに蓄えられ、夜になっても気温が下がらないのだ。
リュックを負う背中に汗がにじむ。今日から八月。本格的な夏に突入したのを実感する。
「暑い~。一日中涼しい事務所にいたから、余計にこたえるよ」
大学が夏休みに入ったので、平日も働くようになった。土日を含めて週5日の勤務である。仕事は忙しいけれど、バイト代が増えて助かるし、毎日のように棚橋さんに会えるのが嬉しい。
「なあんてね。うふふ……」
一人で照れ笑いする私を、通行人が訝しそうに見ていく。
「いけない、いけない。気を引きしめなくちゃ」
火照る顔を俯かせ、早足で歩き出した。
今日はこれから、駅近くのスポーツジムでトレーニングする。ゆるい気持ちで取り組んで、怪我でもしたら大変だ。バイトに差し障っては元も子もない。
勤務時間が増えたので、今後は事務仕事のほか、売り場の作業も手伝ってもらうと人事の人に言われている。
「よーし、モチベ上がってきた。体調を万全にして、棚橋さんの期待に応えるぞ!」
やる気をみなぎらせ、スポーツジムへと足を進めた。
「末次さん、お疲れ様。今日も絶好調ですね!」
マシントレーニングを終えて汗を拭いていると、担当トレーナーの尾崎さんが声をかけてきた。
「あっ、尾崎さん。こんばんは」
「末次さんには本当に感心する。選手を引退してもトレーニングを熱心に続けるなんて、素晴らしいわ」
「いえ、そんな。体を動かしてないと、落ち着かないだけですよ」
尾崎さんは、競技に合わせて的確なアドバイスができる、トレーニング指導の専門家だ。私が高校の空手部在籍中からお世話になっている。
実は、彼女に影響されて今の大学を選んだ。将来、スポーツに関る仕事に就きたくて、健康科学を学ぼうと考えたのだ。
「大学では、陸上とヨガと、柔道サークルにも入ってるのよね?」
「ええ。空手以外のスポーツもしてみたくて。どれも初心者だけど、楽しいです」
「まじですか? めっちゃアスリートですやん」
突然、背後から声が割り込んだ。
振り向くと、浅黒い肌の、私と同じくらいの年齢の男性が立っている。トレーナー用のポロシャツを着ているので、スタッフだとわかった。
「こらッ、間宮くん、馴れ馴れしいよ。末次さん、すみません。先週入ったばかりの新人なんです」
尾崎さんは困ったように眉根を寄せる。その表情から、彼がどういったタイプなのか察することができた。
「末次さん。体力のことで、何か気になることはありますか?」
「今のところは別に……あ、最近、握力を測ってないかも」
握力は全身筋力の指標だ。数値の上下で、体調を測ることができる。
「わかりました。間宮くん、握力計を持ってきて」
「あざっす!」
彼は元気よくすっ飛んでいき、すぐに戻ってきた。
「40ぐらい、いっちゃいますかねえ」
面白そうに言う彼から握力計を受け取り、スイッチを入れる。ピピッと、スタンバイの音がした。
椅子を立ち上がり、まず右から握力を測る。
「間宮くん、記録して」
「はいはーい。どれぐらいの数値かなあ。いくらマルチなアスリートさんでも、パワーでは男に敵わないでしょ……」
握力計の数値を見て、彼は絶句した。
「えっ、ご、60.02kg……って……!?」
左も測り、同じく男子並みの数値を叩き出す私に、間宮さんは呆然とする。
「末次さんは長い間、格闘技の稽古をされてきました。そして現在もトレーニングを積み、鍛錬を怠りません。前腕部を形成する筋肉群が発達しているため、これほどのパワーが出るのです」
尾崎さんの説明に、間宮くんは一応頷くが、
「……にしても、力ありすぎですよ。ちなみに、ベンチプレスはどれくらい?」
「調子が良ければ80ぐらいかな」
「うそお!」
彼は大げさに驚き、後ずさりした。化け物でも見るような顔をしている。
「ちょっと、間宮くん。驚きすぎだよ」
尾崎さんは私に気遣うが、彼はお構いなしに怯えてみせる。
「でも、一見フツーの女子が80kgって……! やばいっすよ、詐欺っすよ。彼氏さん、怖がりません?」
「……はいい?」
つい睨んでしまった。
私の表情と声音に、間宮くんは顔色を変える。何やら弁解しながら、ぺこぺこと頭を下げて退散した。
「まったく、あのバカ……末次さん、重ね重ねごめんなさい! あとできつく言ってきかせますので!」
「い、いえ、大丈夫です。格闘技やってると、しょっちゅうからかわれるんで。ぜーんぜん気にしてませんよ……あははははは」
うまくごまかせただろうか。
私はけんめいに笑顔を作り、渡された測定記録を見下ろし、ひそかにため息をついた。
「はあ~、疲れた」
スポーツジムを出て、駅に向かう。
運動すると、いつも爽やかな気分になるのに、今日はテンションだだ下がりだ。
「あの新入り……まったくもう、失礼なやつめ!!」
間宮くんの発言を思い出し、ムカムカしてくる。
何が詐欺よ! いくら新人とはいえジムのトレーナーが、あの言い草はないでしょ。
私はあらためて不愉快になった。
でも……
あれが、一般的な反応だ。この怪力を披露すれば、たいていの男性はビビるだろう。
「学くんがそうだった。そして、たぶん棚橋さんも……」
とはいえ、筋トレや格闘技は私のアイデンティティだ。もしやめたら、私ではなくなるだろう。
「でもっ、このままでは彼氏ができない。ていうか、好きな人に告白すらできないよおお」
ワンルームに戻った私は、ジレンマに嘆きつつも、いつものように台所に立つ。そしていつものように、良い筋肉を作るためのメニューを考え、料理してしまう。
それが私の、アイデンティティだから。
昼間の熱気がビルの壁やアスファルトに蓄えられ、夜になっても気温が下がらないのだ。
リュックを負う背中に汗がにじむ。今日から八月。本格的な夏に突入したのを実感する。
「暑い~。一日中涼しい事務所にいたから、余計にこたえるよ」
大学が夏休みに入ったので、平日も働くようになった。土日を含めて週5日の勤務である。仕事は忙しいけれど、バイト代が増えて助かるし、毎日のように棚橋さんに会えるのが嬉しい。
「なあんてね。うふふ……」
一人で照れ笑いする私を、通行人が訝しそうに見ていく。
「いけない、いけない。気を引きしめなくちゃ」
火照る顔を俯かせ、早足で歩き出した。
今日はこれから、駅近くのスポーツジムでトレーニングする。ゆるい気持ちで取り組んで、怪我でもしたら大変だ。バイトに差し障っては元も子もない。
勤務時間が増えたので、今後は事務仕事のほか、売り場の作業も手伝ってもらうと人事の人に言われている。
「よーし、モチベ上がってきた。体調を万全にして、棚橋さんの期待に応えるぞ!」
やる気をみなぎらせ、スポーツジムへと足を進めた。
「末次さん、お疲れ様。今日も絶好調ですね!」
マシントレーニングを終えて汗を拭いていると、担当トレーナーの尾崎さんが声をかけてきた。
「あっ、尾崎さん。こんばんは」
「末次さんには本当に感心する。選手を引退してもトレーニングを熱心に続けるなんて、素晴らしいわ」
「いえ、そんな。体を動かしてないと、落ち着かないだけですよ」
尾崎さんは、競技に合わせて的確なアドバイスができる、トレーニング指導の専門家だ。私が高校の空手部在籍中からお世話になっている。
実は、彼女に影響されて今の大学を選んだ。将来、スポーツに関る仕事に就きたくて、健康科学を学ぼうと考えたのだ。
「大学では、陸上とヨガと、柔道サークルにも入ってるのよね?」
「ええ。空手以外のスポーツもしてみたくて。どれも初心者だけど、楽しいです」
「まじですか? めっちゃアスリートですやん」
突然、背後から声が割り込んだ。
振り向くと、浅黒い肌の、私と同じくらいの年齢の男性が立っている。トレーナー用のポロシャツを着ているので、スタッフだとわかった。
「こらッ、間宮くん、馴れ馴れしいよ。末次さん、すみません。先週入ったばかりの新人なんです」
尾崎さんは困ったように眉根を寄せる。その表情から、彼がどういったタイプなのか察することができた。
「末次さん。体力のことで、何か気になることはありますか?」
「今のところは別に……あ、最近、握力を測ってないかも」
握力は全身筋力の指標だ。数値の上下で、体調を測ることができる。
「わかりました。間宮くん、握力計を持ってきて」
「あざっす!」
彼は元気よくすっ飛んでいき、すぐに戻ってきた。
「40ぐらい、いっちゃいますかねえ」
面白そうに言う彼から握力計を受け取り、スイッチを入れる。ピピッと、スタンバイの音がした。
椅子を立ち上がり、まず右から握力を測る。
「間宮くん、記録して」
「はいはーい。どれぐらいの数値かなあ。いくらマルチなアスリートさんでも、パワーでは男に敵わないでしょ……」
握力計の数値を見て、彼は絶句した。
「えっ、ご、60.02kg……って……!?」
左も測り、同じく男子並みの数値を叩き出す私に、間宮さんは呆然とする。
「末次さんは長い間、格闘技の稽古をされてきました。そして現在もトレーニングを積み、鍛錬を怠りません。前腕部を形成する筋肉群が発達しているため、これほどのパワーが出るのです」
尾崎さんの説明に、間宮くんは一応頷くが、
「……にしても、力ありすぎですよ。ちなみに、ベンチプレスはどれくらい?」
「調子が良ければ80ぐらいかな」
「うそお!」
彼は大げさに驚き、後ずさりした。化け物でも見るような顔をしている。
「ちょっと、間宮くん。驚きすぎだよ」
尾崎さんは私に気遣うが、彼はお構いなしに怯えてみせる。
「でも、一見フツーの女子が80kgって……! やばいっすよ、詐欺っすよ。彼氏さん、怖がりません?」
「……はいい?」
つい睨んでしまった。
私の表情と声音に、間宮くんは顔色を変える。何やら弁解しながら、ぺこぺこと頭を下げて退散した。
「まったく、あのバカ……末次さん、重ね重ねごめんなさい! あとできつく言ってきかせますので!」
「い、いえ、大丈夫です。格闘技やってると、しょっちゅうからかわれるんで。ぜーんぜん気にしてませんよ……あははははは」
うまくごまかせただろうか。
私はけんめいに笑顔を作り、渡された測定記録を見下ろし、ひそかにため息をついた。
「はあ~、疲れた」
スポーツジムを出て、駅に向かう。
運動すると、いつも爽やかな気分になるのに、今日はテンションだだ下がりだ。
「あの新入り……まったくもう、失礼なやつめ!!」
間宮くんの発言を思い出し、ムカムカしてくる。
何が詐欺よ! いくら新人とはいえジムのトレーナーが、あの言い草はないでしょ。
私はあらためて不愉快になった。
でも……
あれが、一般的な反応だ。この怪力を披露すれば、たいていの男性はビビるだろう。
「学くんがそうだった。そして、たぶん棚橋さんも……」
とはいえ、筋トレや格闘技は私のアイデンティティだ。もしやめたら、私ではなくなるだろう。
「でもっ、このままでは彼氏ができない。ていうか、好きな人に告白すらできないよおお」
ワンルームに戻った私は、ジレンマに嘆きつつも、いつものように台所に立つ。そしていつものように、良い筋肉を作るためのメニューを考え、料理してしまう。
それが私の、アイデンティティだから。
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