5 / 37
フルーツケーキ
1
しおりを挟む
篠塚雅子さんの婚約を知ったのは、ゴールデンウィークのさ中。同期の連中と温泉旅行に出かけて、その夜の飲み会で女性陣が噂するのを、ぼんやりと聞いていた。
地方都市に本社を構えるアパレルメーカーに就職して3年。俺は今年、25歳になる。営業部員としての苦労は多々あるが、何とか頑張っている。
その頑張りを後ろから支えてくれているのが、営業事務の雅子さんだ。
事務員は他に二人いるが、俺の担当は雅子さん。彼女は最年長という事もあり、落ち着いた仕事ぶりと穏やかな性格が評判だ。俺も他の担当営業マンも、彼女に全幅の信頼を寄せている。
雅子さんは29歳。
奥二重の目に小さめの鼻、きれいな口元。
化粧は薄く、髪も後ろで結ぶだけのシンプルなスタイルを貫いている。少々地味ではあるが、よく見れば可愛い系の女性だ。
年上の女性に対して失礼かもしれないが、可愛いと感じるのだから仕方ない。
仕事以外では口数が少なく、男性社員からは反応がいまひとつに思われているようだが、俺にはむしろ好ましい。
つまり、俺は彼女が好きなのだ。
同期会の旅行は一泊二日だったが、もうどうでもよくなり、すぐにでも帰りたい気分になった。宴会場のすみでひとり沈んでいると、隣に沢口が座り、俺の顔を覗きこんだ。
「どうしたの? 元気ないね」
「ああ」
沢口は特に美人でも不美人でもない。
しかし、性格が明るくて愛嬌があり、一般受けするタイプの女の子だ。時々こうして、気さくに声をかけてくる。
去年のバレンタインデイに、俺にチョコレートをくれた。本命だとほのめかされたが、俺にはそれに応える気持ちがなかったので、義理のお返しをするに留めた。ただの同期仲間という間柄だ。
「ショックを受けてるのね」
「はっ?」
女特有の鋭い眼差しに刺され、ぎくりとする。
「わかりやすいんだもの、木島くんって」
「……向こうで飲んでこいよ」
ぶっきらぼうに突き放した。悪い子じゃないけれど、こういったところが苦手だ。
「篠塚さん、お見合いなんだって」
沢口はめげずに俺の横に居座り、話を続ける。
「お見合い?」
「お父さんの経営している会社関係の人で、養子にくるそうよ。ナントか言う会社の次男坊だとか。篠塚さんは跡取り娘さんなのね」
「そう……」
見合いというのは考えられないでもなかった。あの女性らしいとすら思える。
昼休みにはいつも静かに本を読んでいる雅子さん。睫を伏せた彼女のきれいな横顔。遠くから眺めるだけで何も言えず、俺は愛しさを隠し、苦しい気持ちを持て余していた。
親の会社関係ということは、もしかしたら断れなかったのではないか――
どこの誰だか知らないが、その見合い相手の婿養子に、俺は激しく嫉妬した。
どうせ親の金で遊び歩いているようなボンボンに違いない……などと、根拠のない文句を並べ立てる。
胸がふさがって仕方がない。もう、どうしようもなかった。
「俺、家に帰るわ」
「えっ、どうやって。車で来てるのに!?」
沢口が驚いた声を上げる。
「そうか……酒を飲んでいるな」
大して飲んだわけでもないのに、頭がぼんやりする。
「じゃ、もう寝る」
俺は立ち上がるが、足元がふらついた。沢口がさりげなく支えるけれど、同期の連中が注目しているのに気付き、俺は彼女から体を離した。
「木島くん、もう眠いんだって」
まだまだ盛り上がっている同期連中に、沢口が肩を竦めてみせる。
「部屋まで送ってあげなさいよ」
「襲うなよ、沢口」
幹事から部屋の合鍵をもらうと、皆に冷やかされながら、沢口と一緒に外に出た。
宴会場の襖を閉めると、静けさが耳に迫った。何かのモーターの音だけが、どこかで低く唸っている。夜の温泉ホテルには、独特の空気が漂う。
「一人で行けるよ」
「駄目よ、ふらついてる」
沢口が前に回り込み、体を支えようとした。浴衣の胸元がやけに白く見える。石鹸の香りが鼻先をくすぐった。
「いいよ、もう」
俺は乱暴に彼女を引き離し、おぼつかない足取りで歩き出す。
危ない所だった。
女の匂いを遠くに追いやり、とにかく俺は前に進んだ。自棄になるのを恐れ、酒の底にわずかに残る理性をかき集めて、誘惑を払いのける。
ところが、部屋の前にようやく辿り着き、ドアの鍵を解いたその時。後ろをつけて来た沢口が背中にしがみついた。
「おい!」
「木島君っ」
「やばいだろう、よせ」
「好きなの」
「……」
沢口の柔らかさを背中に感じながら、俺は雅子さんを思った。
彼女とはこんな状況には絶対ならないだろう。というより、逆に俺がアプローチする。
もう少し大人だったら。自信が持てたなら……
俺は失恋した事実を痛烈に感じ、堪らなく一人になりたかった。
後ろを向いて沢口を強く押し返すと、部屋に入り、ドアに鍵をかけた。
さまざまな危機から脱したような、慰みの機会を逃したような、複雑怪奇な思いで頭も心も混乱している。
大部屋に敷かれた布団に倒れこむと、嵐のような感情の中であれこれ考えていたが、いつの間にか眠ってしまった。
地方都市に本社を構えるアパレルメーカーに就職して3年。俺は今年、25歳になる。営業部員としての苦労は多々あるが、何とか頑張っている。
その頑張りを後ろから支えてくれているのが、営業事務の雅子さんだ。
事務員は他に二人いるが、俺の担当は雅子さん。彼女は最年長という事もあり、落ち着いた仕事ぶりと穏やかな性格が評判だ。俺も他の担当営業マンも、彼女に全幅の信頼を寄せている。
雅子さんは29歳。
奥二重の目に小さめの鼻、きれいな口元。
化粧は薄く、髪も後ろで結ぶだけのシンプルなスタイルを貫いている。少々地味ではあるが、よく見れば可愛い系の女性だ。
年上の女性に対して失礼かもしれないが、可愛いと感じるのだから仕方ない。
仕事以外では口数が少なく、男性社員からは反応がいまひとつに思われているようだが、俺にはむしろ好ましい。
つまり、俺は彼女が好きなのだ。
同期会の旅行は一泊二日だったが、もうどうでもよくなり、すぐにでも帰りたい気分になった。宴会場のすみでひとり沈んでいると、隣に沢口が座り、俺の顔を覗きこんだ。
「どうしたの? 元気ないね」
「ああ」
沢口は特に美人でも不美人でもない。
しかし、性格が明るくて愛嬌があり、一般受けするタイプの女の子だ。時々こうして、気さくに声をかけてくる。
去年のバレンタインデイに、俺にチョコレートをくれた。本命だとほのめかされたが、俺にはそれに応える気持ちがなかったので、義理のお返しをするに留めた。ただの同期仲間という間柄だ。
「ショックを受けてるのね」
「はっ?」
女特有の鋭い眼差しに刺され、ぎくりとする。
「わかりやすいんだもの、木島くんって」
「……向こうで飲んでこいよ」
ぶっきらぼうに突き放した。悪い子じゃないけれど、こういったところが苦手だ。
「篠塚さん、お見合いなんだって」
沢口はめげずに俺の横に居座り、話を続ける。
「お見合い?」
「お父さんの経営している会社関係の人で、養子にくるそうよ。ナントか言う会社の次男坊だとか。篠塚さんは跡取り娘さんなのね」
「そう……」
見合いというのは考えられないでもなかった。あの女性らしいとすら思える。
昼休みにはいつも静かに本を読んでいる雅子さん。睫を伏せた彼女のきれいな横顔。遠くから眺めるだけで何も言えず、俺は愛しさを隠し、苦しい気持ちを持て余していた。
親の会社関係ということは、もしかしたら断れなかったのではないか――
どこの誰だか知らないが、その見合い相手の婿養子に、俺は激しく嫉妬した。
どうせ親の金で遊び歩いているようなボンボンに違いない……などと、根拠のない文句を並べ立てる。
胸がふさがって仕方がない。もう、どうしようもなかった。
「俺、家に帰るわ」
「えっ、どうやって。車で来てるのに!?」
沢口が驚いた声を上げる。
「そうか……酒を飲んでいるな」
大して飲んだわけでもないのに、頭がぼんやりする。
「じゃ、もう寝る」
俺は立ち上がるが、足元がふらついた。沢口がさりげなく支えるけれど、同期の連中が注目しているのに気付き、俺は彼女から体を離した。
「木島くん、もう眠いんだって」
まだまだ盛り上がっている同期連中に、沢口が肩を竦めてみせる。
「部屋まで送ってあげなさいよ」
「襲うなよ、沢口」
幹事から部屋の合鍵をもらうと、皆に冷やかされながら、沢口と一緒に外に出た。
宴会場の襖を閉めると、静けさが耳に迫った。何かのモーターの音だけが、どこかで低く唸っている。夜の温泉ホテルには、独特の空気が漂う。
「一人で行けるよ」
「駄目よ、ふらついてる」
沢口が前に回り込み、体を支えようとした。浴衣の胸元がやけに白く見える。石鹸の香りが鼻先をくすぐった。
「いいよ、もう」
俺は乱暴に彼女を引き離し、おぼつかない足取りで歩き出す。
危ない所だった。
女の匂いを遠くに追いやり、とにかく俺は前に進んだ。自棄になるのを恐れ、酒の底にわずかに残る理性をかき集めて、誘惑を払いのける。
ところが、部屋の前にようやく辿り着き、ドアの鍵を解いたその時。後ろをつけて来た沢口が背中にしがみついた。
「おい!」
「木島君っ」
「やばいだろう、よせ」
「好きなの」
「……」
沢口の柔らかさを背中に感じながら、俺は雅子さんを思った。
彼女とはこんな状況には絶対ならないだろう。というより、逆に俺がアプローチする。
もう少し大人だったら。自信が持てたなら……
俺は失恋した事実を痛烈に感じ、堪らなく一人になりたかった。
後ろを向いて沢口を強く押し返すと、部屋に入り、ドアに鍵をかけた。
さまざまな危機から脱したような、慰みの機会を逃したような、複雑怪奇な思いで頭も心も混乱している。
大部屋に敷かれた布団に倒れこむと、嵐のような感情の中であれこれ考えていたが、いつの間にか眠ってしまった。
0
お気に入りに追加
69
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法
栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。
一緒に召喚された私のお母さんは異世界で「女」になりました。
白滝春菊
恋愛
少女が異世界に母親同伴で召喚されて聖女になった。
聖女にされた少女は異世界の騎士に片思いをしたが、彼に母親の守りを頼んで浄化の旅を終えると母親と騎士の仲は進展していて……
世界最強魔法師の娘〜この度、騎士団で下働きをすることになりました〜
鍋
恋愛
世界最強と謳われた魔法師アダム。
アダムは先の戦争で多大な功績を上げたが、叙爵は辞退し王宮魔法師として働いていた。
魔法以外には興味が無かった彼は、ある日エリアーナと出逢い、大恋愛の末結婚。
しかし、出産と同時に妻であるエリアーナは亡くなってしまう。
愛する妻の忘れ形見であるらララを大切に守り育ててきたアダム。
だが、アダムもララの成人を目前に急逝。
遺されたのは世界最強魔法師の娘。
だがララは下級魔法すら使えない。
しかも、田舎町から一歩も出ない生活をしていたせいで、アダムがそんなに凄い魔法師だと言うことさえ知らなかった。
ララはこれから一人で生きていくため、アダムの唯一の弟子クライヴに頼み込んで騎士団の下働きとして働くことになった。
クライヴはアダムにララの世話を頼まれていた騎士で、ララには実の兄のように慕われている存在。
けれどクライヴは、世間知らずな上に、美しく人の好いララが心配で……?
このお話はそんな二人のお話です。
※ゆるゆる設定のご都合主義のお話です。
※R指定は念の為。
※感想欄ネタバレ配慮ないのでご注意ください。
【R18】エリートビジネスマンの裏の顔
白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます───。
私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。
同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが……
この生活に果たして救いはあるのか。
※サムネにAI生成画像を使用しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる