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ミックスジュース
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一人暮らしをするようになって八年。初めて風邪を引いて寝込んだ。
アパートの小さな窓。カーテンの隙間から、冬空を眺めている。
(もう若くないのかも……なんて)
大学時代の私は、丈夫なのが取り柄だった。たとえ体調を崩しても、こんなふうに寝込むなんてことは無い。細っこいくせに鋼のような体力の持ち主だと、サークル仲間にも不思議がられた。
「相馬くん、元気してるかな」
痛む喉からかすれた声を漏らし、ひとりごちる。
サイクリングサークルで、特に仲が良かった。少年のような童顔で、旅と自転車が大好きで、旅先での面白い話を上手に楽しく聞かせてくれた。男とか女とか、全く意識せずに付き合えた、唯ひとりの純粋なボーイフレンド。
そう思っていた。
そのはずだった。
『めぐみが寝込んだら、俺が看病してやるよ』
皆で飲んだり歌ったり、カラオケ店でワイワイ遊んでいた。そんなさなか、彼は真顔で言ったのだ。
私はその時、ドリンクバーにいた。
ミックスジュースをグラスに注ぎながら彼に見向く。いつものように、ジョークの前振りか何かだと思った。だから何も言わず、その真顔が崩れるのを待っていたのだ。
だけど、彼の表情はそのままだった。
私は半秒ほどぼうっとして、グラスからジュースが溢れそうになったところで我に返る。
相馬くんはそこで初めてクスッと笑い、なみなみと注がれたミックスジュースを私から取り上げた。こぼれないよう慎重に唇に近付け、ごくりとひと口含む。
『美味いな』
とても静かな口調。
私は声を出せず、ひたすら頷くのみ。童顔の相馬くんが、どうしてかとても大人びて見えたから。
彼はおしぼりでグラスの外側に溢れた果汁を丁寧に拭うと、大事そうに私に手渡した。それからサッと背中を向けて、皆のほうへと戻って行く。
ドリンクバーに来たのに手ぶらで戻る彼を見送りながら、私はかつてない感情を覚えた。ますます身体が火照ってくるのに戸惑い、困惑して……
あの時、私はカラオケの歌いすぎで喉がカラカラになっていた。熱を持つ首もとを押さえ、
『珍しく風邪引きそう。こんな時は果物のジュースがいいんだよね』
皆に冗談っぽく言って、ドリンクバーに立ったのだ。
そして気が付くと、相馬くんが隣にいた。
あんなことを言ったのは、私を心配してくれたからだ。そう、単に友達として、真面目に気遣いしてくれただけ。
あの頃の私はそう思い込んだ。かつてない感情に戸惑いながら、思い込もうとした。
――めぐみが寝込んだら、俺が看病してやるよ。
相馬くんとの関係を、これまでと違うものにしたくない。だから、特別な意味の言葉とは受け取らず、深く考えることもしなかった。
真顔で、いつもの彼らしくもない、静かな口調。本当は、分かっていたのに。
結局、私は風邪を引くに至らず、相馬くんの看病も必要としなかった。
『まったく、頑丈な奴だな』
次の日、キャンパスで顔を合わせた彼は呆れていた。少しだけ残念そうに、でも、自然に声をかけてくる。いつもの童顔の、いつもの屈託の無い笑顔に私はほっとして、肩を並べて歩いた。
それからも仲の良い友達として彼と大学生活を過ごし、卒業を迎えた。頑丈な私は風邪ひとつ引かず、一度も寝込むことなく――
アパートの小さな窓。カーテンの隙間から、冬空を眺めている。
(もう若くないのかも……なんて)
大学時代の私は、丈夫なのが取り柄だった。たとえ体調を崩しても、こんなふうに寝込むなんてことは無い。細っこいくせに鋼のような体力の持ち主だと、サークル仲間にも不思議がられた。
「相馬くん、元気してるかな」
痛む喉からかすれた声を漏らし、ひとりごちる。
サイクリングサークルで、特に仲が良かった。少年のような童顔で、旅と自転車が大好きで、旅先での面白い話を上手に楽しく聞かせてくれた。男とか女とか、全く意識せずに付き合えた、唯ひとりの純粋なボーイフレンド。
そう思っていた。
そのはずだった。
『めぐみが寝込んだら、俺が看病してやるよ』
皆で飲んだり歌ったり、カラオケ店でワイワイ遊んでいた。そんなさなか、彼は真顔で言ったのだ。
私はその時、ドリンクバーにいた。
ミックスジュースをグラスに注ぎながら彼に見向く。いつものように、ジョークの前振りか何かだと思った。だから何も言わず、その真顔が崩れるのを待っていたのだ。
だけど、彼の表情はそのままだった。
私は半秒ほどぼうっとして、グラスからジュースが溢れそうになったところで我に返る。
相馬くんはそこで初めてクスッと笑い、なみなみと注がれたミックスジュースを私から取り上げた。こぼれないよう慎重に唇に近付け、ごくりとひと口含む。
『美味いな』
とても静かな口調。
私は声を出せず、ひたすら頷くのみ。童顔の相馬くんが、どうしてかとても大人びて見えたから。
彼はおしぼりでグラスの外側に溢れた果汁を丁寧に拭うと、大事そうに私に手渡した。それからサッと背中を向けて、皆のほうへと戻って行く。
ドリンクバーに来たのに手ぶらで戻る彼を見送りながら、私はかつてない感情を覚えた。ますます身体が火照ってくるのに戸惑い、困惑して……
あの時、私はカラオケの歌いすぎで喉がカラカラになっていた。熱を持つ首もとを押さえ、
『珍しく風邪引きそう。こんな時は果物のジュースがいいんだよね』
皆に冗談っぽく言って、ドリンクバーに立ったのだ。
そして気が付くと、相馬くんが隣にいた。
あんなことを言ったのは、私を心配してくれたからだ。そう、単に友達として、真面目に気遣いしてくれただけ。
あの頃の私はそう思い込んだ。かつてない感情に戸惑いながら、思い込もうとした。
――めぐみが寝込んだら、俺が看病してやるよ。
相馬くんとの関係を、これまでと違うものにしたくない。だから、特別な意味の言葉とは受け取らず、深く考えることもしなかった。
真顔で、いつもの彼らしくもない、静かな口調。本当は、分かっていたのに。
結局、私は風邪を引くに至らず、相馬くんの看病も必要としなかった。
『まったく、頑丈な奴だな』
次の日、キャンパスで顔を合わせた彼は呆れていた。少しだけ残念そうに、でも、自然に声をかけてくる。いつもの童顔の、いつもの屈託の無い笑顔に私はほっとして、肩を並べて歩いた。
それからも仲の良い友達として彼と大学生活を過ごし、卒業を迎えた。頑丈な私は風邪ひとつ引かず、一度も寝込むことなく――
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