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紫の意味
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楽しい――
ホテルの敷地を出て、車は海岸沿いを走り始めた。
夜中の道は空いている。
慧一はスピードを抑えていたが、突如としてすっ飛ばしたい衝動に駆られた。
いいじゃないか。
何て素晴らしい夜なんだ!
身も心も、これ以上無いくらい俺は満たされている。
高まる気持ちを抑えながら、慧一は彼女の家に向かってひたすら走る。
しかし走りながら、段々と現実に足が着いてきて、いつしか生真面目な顔になった。彼は、峰子の両親への挨拶を考え始めていた。
◇ ◇ ◇
峰子の家は丘を切り開いて区画整理した住宅街にある。
この前送った時は、彼女を降ろすとすぐに帰ってしまった。だけど今夜は会社の先輩としての責任もある。彼女の家に顔を出すと決めていた。
(あんなことをしておいて、責任もなにも無いけどな)
慧一は、今夜の思わぬ展開に負い目を感じつつも、まっすぐに前を見る。
(とにかく挨拶だけはするぞ)
築二十五年になるという三原家の居宅は、木造二階建ての簡素な造りであり、あちこち修繕のあとが見られる。
周囲を見回せば、この辺りの住宅はどれも皆同じような状態だ。
同じ頃に一斉に建てられたのだろう。
慧一は用意しておいた手土産を片手に、峰子の後についてポーチまで上がった。
「少し待っていてくださいね」
峰子は慧一に言うと、玄関のドアを開けて中に声を掛けた。
暫く待つと、奥からスリッパの足音が聞こえてきた。
「あら峰子、お帰りなさい。食事会はどうだった、楽しかった?」
玄関ドアの隙間から、彼女の母親らしき女性の穏やかな声が漏れてくる。
「会社の人に送ってもらったの」
「え? そうなの。まあ! どうも申しわけありません」
慧一の姿に気付くと母親は恐縮し、頭を何度も下げた。
きちんとした格好の、品の良さそうな人だ。顔立ちは、峰子とあまり似ていない。
慧一は峰子に促されて玄関に入った。
「遅くなってしまい、こちらこそ申しわけありません。私は製造課に勤務する滝口慧一と申します」
母親は改めてお辞儀をすると慧一を見上げ、「あらっ」と、少し驚いた顔になる。
「え?」
慧一が見返すと、なんでもないと言うように首を横に振った。
「いいえ、ほほ……あの、よろしければお茶でも」
「ありがとうございます。でも今夜はこれで失礼します。あの……これは気持ちだけですけど、皆さんで召し上がって下さい」
慧一が菓子折りを差し出すと、母親はさらに恐縮するが、遠慮がちに受け取ってくれた。
どうやら父親は不在らしい。慧一は残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちで三原家の玄関を後にした。
母親が何か言いたげだったのは気になるが、特に失礼は無かったと思う。
緊張が解けたためか、見送りに出てきた峰子を見て、ふと思い出した。
「そういえば、モースを返すのを忘れてたな」
車の後部ドアを開けて茶封筒を取り出す。
「はい、大事な本」
慧一が恭しく手渡すと、峰子もつられたのか丁寧に受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「それじゃ、俺はこれで帰るよ」
車に乗り込もうとすると、峰子が「そうだ……」と、慌てて後戻りをして家に入ってしまった。
「おい?」
少しすると、バタバタと階段を下りる音が聞こえ、玄関から峰子が勢いよく飛び出してきた。腕に何か抱えている。
いつになく俊敏な動きに、慧一は目を瞬かせた。
「これ、もしよろしければ……」
峰子は抱えていたものを差し出す。見ると、デパートの紙袋だ。
中身は――
慧一はピンときた。
「例のアレか」
「はい、アレです」
二人は目を合わせ、クスリと笑う。
「あと、これを」
峰子は慧一のスーツのポケットに、そっと何かを入れた。
「ん?」
「今夜の記念に」
「記念?」
「はい。あの、後で見てください」
俯いた顔が、少し赤らんでいるのが分かった。
「……ま、何だか知らないが貰っておくよ。サンキュ」
車に乗るとエンジンをかけ、窓を開けた。
峰子は腰をかがめて覗き込み、「おやすみなさい」と、小さく囁いた。
「ああ、おやすみ」
「……」
なぜか車のそばを離れず、慧一の顔をじっと見つめている。
「どうした?」
「慧一さん」
「うん」
下の名前で呼ばれ、慧一は微かに眉を動かすが自然に返事する。
「会社の広報誌の、新入社員紹介のページに、書いてあったんです」
「え?」
「好きな色は紫だって」
「……」
峰子はそっと車から離れると、ぺこりと頭を下げて、そのまま走って玄関に入ってしまった。
(なんだ?)
慧一は不思議顔で車を走らせながら、ハッと思い出した。
新入社員紹介のページ――
以前、広報誌のアンケートで、好きな色は紫と書いた記憶がある。
紫は今でも一番好きな色だ。
「紫、紫って……ああっ!」
慧一は叫んだ。
ホテルでの、彼女との一場面を頭に浮かべる。
峰子が身に着けていた下着が、紫だった。彼女にしては大人びた、セクシーなデザインなので、ちょっと驚いたのだ。
慧一の全身は魔法をかけられたように、カーッと熱くなる。
いきなり何を言い出すんだ!
純情なのか大胆なのか、本当はどっちなんだ。
エキセントリックにもほどがあるだろ。
「まったく、敵わないぜ……」
慧一は劣情を刺激され、男心をかき乱され、またしても振り回される。
車の中、峰子の残り香を感じながら、独り蕩けそうになった。
ホテルの敷地を出て、車は海岸沿いを走り始めた。
夜中の道は空いている。
慧一はスピードを抑えていたが、突如としてすっ飛ばしたい衝動に駆られた。
いいじゃないか。
何て素晴らしい夜なんだ!
身も心も、これ以上無いくらい俺は満たされている。
高まる気持ちを抑えながら、慧一は彼女の家に向かってひたすら走る。
しかし走りながら、段々と現実に足が着いてきて、いつしか生真面目な顔になった。彼は、峰子の両親への挨拶を考え始めていた。
◇ ◇ ◇
峰子の家は丘を切り開いて区画整理した住宅街にある。
この前送った時は、彼女を降ろすとすぐに帰ってしまった。だけど今夜は会社の先輩としての責任もある。彼女の家に顔を出すと決めていた。
(あんなことをしておいて、責任もなにも無いけどな)
慧一は、今夜の思わぬ展開に負い目を感じつつも、まっすぐに前を見る。
(とにかく挨拶だけはするぞ)
築二十五年になるという三原家の居宅は、木造二階建ての簡素な造りであり、あちこち修繕のあとが見られる。
周囲を見回せば、この辺りの住宅はどれも皆同じような状態だ。
同じ頃に一斉に建てられたのだろう。
慧一は用意しておいた手土産を片手に、峰子の後についてポーチまで上がった。
「少し待っていてくださいね」
峰子は慧一に言うと、玄関のドアを開けて中に声を掛けた。
暫く待つと、奥からスリッパの足音が聞こえてきた。
「あら峰子、お帰りなさい。食事会はどうだった、楽しかった?」
玄関ドアの隙間から、彼女の母親らしき女性の穏やかな声が漏れてくる。
「会社の人に送ってもらったの」
「え? そうなの。まあ! どうも申しわけありません」
慧一の姿に気付くと母親は恐縮し、頭を何度も下げた。
きちんとした格好の、品の良さそうな人だ。顔立ちは、峰子とあまり似ていない。
慧一は峰子に促されて玄関に入った。
「遅くなってしまい、こちらこそ申しわけありません。私は製造課に勤務する滝口慧一と申します」
母親は改めてお辞儀をすると慧一を見上げ、「あらっ」と、少し驚いた顔になる。
「え?」
慧一が見返すと、なんでもないと言うように首を横に振った。
「いいえ、ほほ……あの、よろしければお茶でも」
「ありがとうございます。でも今夜はこれで失礼します。あの……これは気持ちだけですけど、皆さんで召し上がって下さい」
慧一が菓子折りを差し出すと、母親はさらに恐縮するが、遠慮がちに受け取ってくれた。
どうやら父親は不在らしい。慧一は残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちで三原家の玄関を後にした。
母親が何か言いたげだったのは気になるが、特に失礼は無かったと思う。
緊張が解けたためか、見送りに出てきた峰子を見て、ふと思い出した。
「そういえば、モースを返すのを忘れてたな」
車の後部ドアを開けて茶封筒を取り出す。
「はい、大事な本」
慧一が恭しく手渡すと、峰子もつられたのか丁寧に受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「それじゃ、俺はこれで帰るよ」
車に乗り込もうとすると、峰子が「そうだ……」と、慌てて後戻りをして家に入ってしまった。
「おい?」
少しすると、バタバタと階段を下りる音が聞こえ、玄関から峰子が勢いよく飛び出してきた。腕に何か抱えている。
いつになく俊敏な動きに、慧一は目を瞬かせた。
「これ、もしよろしければ……」
峰子は抱えていたものを差し出す。見ると、デパートの紙袋だ。
中身は――
慧一はピンときた。
「例のアレか」
「はい、アレです」
二人は目を合わせ、クスリと笑う。
「あと、これを」
峰子は慧一のスーツのポケットに、そっと何かを入れた。
「ん?」
「今夜の記念に」
「記念?」
「はい。あの、後で見てください」
俯いた顔が、少し赤らんでいるのが分かった。
「……ま、何だか知らないが貰っておくよ。サンキュ」
車に乗るとエンジンをかけ、窓を開けた。
峰子は腰をかがめて覗き込み、「おやすみなさい」と、小さく囁いた。
「ああ、おやすみ」
「……」
なぜか車のそばを離れず、慧一の顔をじっと見つめている。
「どうした?」
「慧一さん」
「うん」
下の名前で呼ばれ、慧一は微かに眉を動かすが自然に返事する。
「会社の広報誌の、新入社員紹介のページに、書いてあったんです」
「え?」
「好きな色は紫だって」
「……」
峰子はそっと車から離れると、ぺこりと頭を下げて、そのまま走って玄関に入ってしまった。
(なんだ?)
慧一は不思議顔で車を走らせながら、ハッと思い出した。
新入社員紹介のページ――
以前、広報誌のアンケートで、好きな色は紫と書いた記憶がある。
紫は今でも一番好きな色だ。
「紫、紫って……ああっ!」
慧一は叫んだ。
ホテルでの、彼女との一場面を頭に浮かべる。
峰子が身に着けていた下着が、紫だった。彼女にしては大人びた、セクシーなデザインなので、ちょっと驚いたのだ。
慧一の全身は魔法をかけられたように、カーッと熱くなる。
いきなり何を言い出すんだ!
純情なのか大胆なのか、本当はどっちなんだ。
エキセントリックにもほどがあるだろ。
「まったく、敵わないぜ……」
慧一は劣情を刺激され、男心をかき乱され、またしても振り回される。
車の中、峰子の残り香を感じながら、独り蕩けそうになった。
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