ワイルド・プロポーズ

藤谷 郁

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揺れる心

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 そもそも、私と嶺倉さんが上手くいくはずがないのだ。
 身分も性格も考え方も、違いすぎて折り合わない。
 あんなにも急激で、地に足のつかない、不安な恋はもうしたくない。
 でも、あの人は様々なことに気付かせてくれた。人の美点と欠点は表裏一体であること、対人関係など……それはとても感謝している。
 これまでのことは、すべて夢の中のできごと。そう思って、これからも生きて行こう。

 だけど、私の幸せは、どこにあるのだろう――


 翌日。私は気が重いながらも、いつもの時間に出勤した。
(あーあ、憂鬱だな。これからどうしよう)
 昨夜のことを思い出し、頭を抱える。
 タクシーを飛び出したあと、嶺倉さんから何度も着信があった。途中でスマートフォンの電源を切ったので、あきらめたのだろう。今朝電源を入れてからは一度もかかってこず、メールもない。

「あきらめたというより、あきれたのかも……」
 いくら何でも、グーで殴るのはやりすぎだった。
「鼻血が出たかしら。まさか、鼻骨が折れてたらどうしよう」
 そして、あの捨て台詞。

 ――ばかっ、あんたなんて大ッ嫌い!

 嶺倉さんの発言に腹が立った。でも、自分も悪いのだ。勇気がなくて、訊きたいことも訊けず、勝手に不安になったのだから。

 ウイステリアの本社ビルを見上げ、私は頭を振る。
 いずれにしろ、もう終わりなのだ。
 金田専務にすべて話し、契約をダメにしたことを謝罪し、用意してきた退職届を出そう。こんなことで仕事をやめるのは不本意だが、ウイステリアに勤め続けるのはもう無理、耐えられない。
「せめて、嶺倉さんと私の関係を、河内さんが黙ってくれていたら」
 いや、それも空しい願いだ。人の口に戸は立てられぬ。
 きっと今頃、全社に拡散されている。

 それに、嶺倉水産とのライセンス契約が頓挫すれば、いずれすべてが明らかになる。そうなれば私は針の筵。責任を取るという名目で、逃げるほかない。


 通用口からビルに入り、更衣室に寄ってから経理課オフィスに向かった。
(あれ……?)
 廊下やエレベーターで、何人かの社員と行き合った。普通に挨拶して、特に変な目で見られることもなく、無事にオフィスに着く。
(変ね。誰にも何も言われずに済んだ)
 嶺倉さんのファンなら、嫌味の一つも言ってくるはず。それが、まったく無反応って、どういうこと?
「……」
 しばし考えてから、営業部に足を運んだ。彼女に直接会って、訊くことにする。

「すみません、河内さんに用事があるのですが」
 入口のところにいた営業部員が、すぐに呼んでくれた。間もなく河内さんが現れ、私のところに駆け寄ってくる。
「おはようございます、北見さん。私のほうから会いに行こうと思ってたんですよ」
 大きな目を見開き、早口で喋る彼女は興奮した様子だ。私は辺りをはばかり、廊下の隅に彼女を連れて行く。

「河内さん、ちょっと訊きたいんだけど。昨日、もしかしたら会議室で、金田専務に……」
「そうそう、その話! 私、北見さんに確かめたかったんですよ。本当なんですか? 嶺倉王子とお見合いして、もうすぐ婚約……むぐっ」
 慌てて河内さんの口を塞ぐ。彼女の高い声は、廊下の端まで届いてしまう。
「うそー。その反応、マジなんですか」
「違……っていうか、そうなんだけど違うのよ」

 ヒソヒソ声で話す二人を、通りがかりの社員が横目で見ていく。変に思われないよう、仕事の話をするように背筋を伸ばした。
「ええっ、どっちなんですか?」
 河内さんの目は、好奇心できらきらしている。私は迷ったが、金田専務の仲立ちでお見合いしたことは白状した。嘘をついても、彼女の嗅覚はごまかせないだろう。

「すごーい。やっぱり本当だったんですね。私、ガセネタは流さない主義なんで、皆に言うのを我慢してたんですよ。でもこれで裏が取れたし、早速グループ送信を……」
「待って待って」
 スマートフォンを取り出す彼女を、押し留めた。ここからが大事なのだ。
「どうして止めるんですか。あ、もしかして、女性社員に嫉妬されるのを恐れて?」
「嫉妬はされないの。ダメになったんだから」

 河内さんは眉をひそめた。
「ダメになった……って、もしかして先輩、振られたんですか」
「ええ。お見合いは失敗したの。嶺倉さんと私は、いまや何の関係もないわ」
 自分の言葉に、自分で傷付く。うつむく私を見て、河内さんはスマートフォンを仕舞った。
「そうだったんですか。すみません、専務が上手くいってるようなこと言うから……信じちゃいました。あの人、ライセンス契約のために、ごり押ししてるんですね」
 専務が悪者になってしまったが、近からずといえども遠からず。細かい話は端折って、そういうことにしておいた。

「でも、王子とお見合いしただけでもすごいですよ。どんなご縁があるか、分からないものですね」
「え、ええ……」
 嶺倉さんが見合いを希望したとは、言えなかった。言っても信じないだろうし、やはりあれは、何かの間違いなのだ。
「あの……北見さん、すみませんでした。知らなかったとはいえ、昨日休憩室で会った時、嶺倉さんのハーレム写真とか見せちゃって」
 河内さんがしゅんとするのを見て、私は顔を左右に振る。
「いいの。その時にはもう、ダメになってたんだから」

 彼女のために嘘をついた。でも、それが実感だった。

「それにしても、嶺倉王子もしたたかですね。だって、専務が『北見さんはあなたにベタ惚れだ』って言った時、王子ってばすごく嬉しそうでしたよ。契約のために、話を合わせたんですかね」
「……」
 胸がずきんと音を立てる。
 あの人はどこまでも素直で正直で、堂々としている。それに比べて、私は……
「だけど北見さん、金田専務にずばっと言った方がいいですよ。ライセンス契約のために、利用されることないです。専務のことだから、無理やりくっつけようとしますよ」

 専務が本格的な悪役になってきた。
 さすがに申しわけなく、私は切り上げることにする。
「う、うん。今日の午後、お見えになるはずだから、その時にきちんと話すわ。だから心配しないで。それじゃ、もう行くね」
 頷く彼女を見て、経理課に戻ろうとした。
「あっ、北見さん」
 振り返ると、河内さんがつま先立ちをして、私の耳に口を近付ける。

「でも、本当にベタ惚れなら、あきらめちゃダメですよ。最後まで、戦ってください」
 ぽかんとする私に、河内さんはガッツポーズする。
 やはり、彼女の嗅覚は抜群だ。
 私はどんな顔をすればいいのか分からず、黙って背を向け、足早に廊下を進んだ。
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