ワイルド・プロポーズ

藤谷 郁

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揺れる心

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 その後、私は経理課オフィスに戻って仕事を続けた。胸のもやもやなど、一生懸命仕事をすれば消えてしまうだろう――と、高をくくっていたのだが、なかなか気分は晴れなかった。
 
「北見さん、金田専務から電話だよ。内線2番」
「えっ……専務?」
 時計を見れば午後5時10分前。私はもしやと思った。
「お電話代わりました。北見です」
『おお、北見君。忙しいところ悪いが、一つ頼まれてくれないか』
「少しお待ちください」
 きょろきょろと周囲を見回す。誰も近くにいないのを確かめ、電話に戻る。

「すみません、どうぞお話しください」
『君も知っていると思うが、5時から嶺倉水産と例の契約について話し合うことになってる。場所は5番会議室だ。それで、もうじき先方が来社されるんで、君に案内役を頼もうと思ってな』
 やっぱり……そんなことだろうと予感していた。
「お客様のご案内は、受付係の役目では?」
『何を言っとるんだ。嶺倉部長がお越しなんだぞ。北見君がいいに決まっている!』

 契約の話をよりスムーズに進めるため、相手のご機嫌を取るために私を使うのだ。利用できるものは利用する、専務のそつのない仕事ぶりに、感心する。

『もしもし、聞いとるのかね』
「分かりました。早速、受付に向かいます」
『よろしく頼んだぞ、じゃあな』
 まったく、契約のためとはいえ、もう少し配慮してほしい。嶺倉さんとの関係を、誰かに勘付かれたらどうするのか。

(まあ、ばれないと思うけど。嶺倉さんはビジネスモードで来るだろうし)

 二人が見合いし、結婚を前提に付き合っていることは、会社の人達に内緒だと彼に伝えてある。
 むしろ、私のほうがぼろを出さないか心配だ。
 何があっても動揺することのないよう、気を引きしめた。


「はじめまして。財務部経理課の北見と申します。会議室までご案内させていただきます」
 お辞儀をして顔を上げると、嶺倉さんとまっすぐに目が合った。髪をきちんと整え、紺のスーツを纏う彼は、完璧なビジネスモードである。
「はじめまして、北見さん。よろしくお願いします」
 爽やかな笑みを浮かべる彼に、受付係の女性達が、うっとりと見惚れている。
 私もつい見惚れそうになり、それとなく目を逸らした。

「では、こちらへどうぞ」
 嶺倉さんと彼の部下をエレベーターホールまで案内する。
 今のところ、ぼろは出していない。嶺倉さんもちゃんと合わせてくれている。この調子で、『他人』を演じ切るのだ。
「ん?」
 エレベーターの前まで来て、ふと感じるものがあった。
 まさかと思うが、気のせいではない。さっきから視線を感じている――女性社員がやたらと通りかかり、嶺倉さんのことをじっと見つめていくのだ。
(ちょっと、嘘でしょ?)
 噂の王子を一目見ようと、多くの女性社員が一階に集まっていた。

 この会社のマナーはどうなっているの!?

 しかし、ウイステリアに長いこと勤めている私だが、こんな現象は初めてのこと。嶺倉さんは、普段は保たれている社内風紀を乱してしまうほど、魅惑的な男性なのである。
 納得すると同時に、私はそわそわして落ち着かない気持ちだった。
 エレベーターの扉が開くと、嶺倉さん達と一緒に素早く乗り込み、すぐに『閉』のボタンを押す。覗き込んでくる女性達の羨ましげな……否、恨めしげな顔をシャットアウトした。

「申しわけありません。うちの社員が失礼いたしました」
 上昇を始めたエレベーターの中で、お客様に対する社員の無礼を詫びた。
「え、何かありましたか?」
 嶺倉さんは不思議そうに私を見下ろす。
(何かって……女性社員があなたのことを、無遠慮に眺めていたのですが?)
 もしかして、気付いていないのだろうか。

(そっか。嶺倉さんは王子様だもんね)

 女性に注目されるなど、彼にとっては日常茶飯事で、いちいち気に留めることではない。
 さすがイケメン御曹司である。 

 SNSの写真を頭によぎらせ、ひそかにため息をつく。私と結婚しても、見知らぬ女性達によってあんな写真がアップされるのだろうか。
 嶺倉さんはあらゆる面でハイスペックな男性だと、あらためて認識した。
 今夜私は、この人とデートする。何だか夢みたいな話だと思う。
 


 会議室に着くと、金田専務はじめライセンス契約の担当者が待ちかねていた。
 専務は喜色満面で嶺倉さんを出迎え、丁重に席に案内する。そして、ドアを閉めようとする私を呼び止め、近付いて来た。

「北見君、ご苦労さん。どうだ、君も同席するかね」
「は? いえいえ、とんでもございません。私は経理の人間ですので」
 慌てて断ると、専務はムッとした。
「何を言っとるんだ。君はこの取引の重要な鍵を握っておるのだぞ。嶺倉さんの機嫌を損ねたらどうする」
 この人は、会議を接待と勘違いしている。見合いの仲立ちをしてくれたのは感謝しているが、ここまでくると公私混同だ。

「申しわけございません。仕事が残っておりますので」
「あのなあ、北見君」
 専務と小声で話す私を、嶺倉さんが面白そうに見ている。
 彼は、何もかも分かっているのだ。
「失礼いたします」
 専務が睨んでくるが、無視して会議室をあとにする。契約の手柄を自慢するなら、専務自身の実力で話を進めればいい。
 とにかく私は、嶺倉さんとの関係を社内で隠しておきたかった。




 午後7時前。
 私はついさっき仕事を終わらせ、更衣室で着替えている。
 嶺倉さんも会議が終わったようで、先ほどメールが届いた。ここまでは予定どおりだけれど……

 水曜日は残業する人が少なく、更衣室にいるのは私一人だった。髪をほどき、ワンピースの肩にふわりと垂らす。ヒールの靴に履き替えてからスマートフォンをもう一度見直し、嶺倉さんのメールに首を傾げた。

《 会議終了 タクシーを呼んだ ロータリーで待ってるよ 》

(ロータリーって、ウイステリアの正面玄関前? そんな目立つ場所で待ち合わせたら、他の社員に見られてしまう)
 間違いかと思って確認のメールを送るが、やはりロータリーだという。
(どういうことだろ)
 スマートフォンをバッグに仕舞おうとした時、電話の音が鳴った。壁に設置された、社内連絡用の電話である。

「はい、2階更衣室です」
『そちらに経理課の北見さんはいらっしゃいますか』
「北見は私ですが」
 電話は経理課の社員だった。
『あ、やっぱりまだいらっしゃったんですね。先ほど北見さんに電話がかかってきて、相手の方に帰宅したと伝えてしまったんですが』
「そうなの。急ぎの用件だった?」
『いえ、仕事先ではなく、個人の方でした。お名前と電話番号を預かっています』

 私はバッグから手帳を取り出し、メモの用意をした。
「お願いします」
『お名前は、海藤蓮さん。電話番号は……』
「えっ?」
 相手の名前を聞き、思わず小さく叫んだ。

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