七日目のはるか

藤谷 郁

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22.七日目の夜

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「少し歩きましょうか」
 春花は頷くと、真崎と並んで整備された散策路をゆっくり進んだ。

 道の左側に、砂浜が広がっている。
 昼間には散策する人も多いであろう海辺も、夜はとても静かで寂しい。
 月明かりが現実感を薄れさせ、春花は頼りない心地になった。隣の真崎をチラリと見るが、いつもと変らぬ飄々とした風情である。
 何となくほっとして、気持ちが落ち着いてきた。

 砂浜の向こうに、広い海が横たわっている。真崎はしばらく黙っていたが、ふいに話し始めた。
「生き物の中には、ある条件のもとで性別が変わるものがいます。魚類ではキンチャクダイ科やトラギス科、ベラの仲間などが有名ですね。彼らは一夫多妻のハーレムを形成しますが、雄がいなくなると、雌の中の一固体が雄に性転換することが知られています」
 春花は黙ったまま、耳を傾ける。

「大きな体格の、他の雌より優位な固体が雄になってハーレムを築く。ちなみに、繁殖のために雌から雄へ性転換する現象を雌性先熟と言います」
「私がそうですか」
 春花が訊くと、真崎は穏やかに微笑む。
「ふふふ……まあ、そうですねえ。あなたの場合、女性としてまだ成熟していなかったようですが」
 春花は遠くの島にポツポツと瞬く灯りに目を当て、黙り込む。

 真崎は足を止めた。
 春花を手招きし、傍らのベンチに座るよう促してから、自分は立ったまま、上着を脱いで、暑そうに髪をかきあげる。
 春花の目には、そんな真崎の仕草ひとつひとつが、とても男性的に映った。
 暗い海をわたり、夜風が吹く。

「吉川君は、性転換する魚の研究を熱心に行っています。私のレポートと自身の研究成果から、人のゲノムに変化をもたらす驚くべき何かを発見したのかもしれません。しかし、やはりあのビタミン剤にはまったく関係のない話でしょう」
「あれはどこまで行ってもただのビタミン剤」
「そうです」
「どうして私がこうなったのか、誰にも分からないんですね」
 春花は涙声になった。彼女はいまだ男性体なのだ。

 真崎は黙って海を見ている。
 春花は初めて真崎に会った日を思い出した。あの日、バイト先に突然現れた彼。こんな風に、自分の心の大勢を占める男性になるとは、思いも寄らなかった。
「ただのビタミン剤なら、先生はなぜ、私のバイト先にわざわざ現れて、錠剤を渡したのです」
「それは……」
 真崎は言いかけて、春花の横に腰をおろした。

 遠くで一つ花火が上がった。
 その音が消えてしまうと、辺りには低い海のざわめきのみ。
 春花は急に、真崎と二人きりであることを意識して、睫毛を伏せた。
「あなたに会いたかったからですよ。口実を設け、どうにかして関わりたかった。ただ、それだけです」
 顔を上げ、ゆっくりと目を合わせた。
 真崎の黒い瞳に映るのは無防備な春花。ある種の揺らめきを宿した男の眼差しに、激しく動揺した。
 だけど同時に、その熱っぽさに呼応するものを、胸の底に感じている。

 真崎は春花を抱き寄せると、そっと口付けた。
 優しく、思いやりにあふれた触れ方に、涙が出そうになる。
「先生は、男でもいいんですか……私が」
「どちらでも。あなたは、あなたです」

 月明かりに照らされた春花の顔を、真崎は手の平で優しく包む。見つめ合う目と目は、互いを求めていた。
「ほら……マジックから解放されますよ」


 春花は七日目の夜、女に戻った。

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