七日目のはるか

藤谷 郁

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5.生理現象!?

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 真崎は部屋に入ると、興味深そうにキョロキョロ見回した。そして、ひび割れたテーブルを発見して目を丸くする。
「これはもしや、あなたが?」
「ええ……さっき夕子と電話で話してる時、つい……」
「なるほど、大体状況は分かります。しかし、すごいパワーだなあ」
 驚くよりも感心している。科学者らしい反応だが、変人ぽくもあった。

 (ほんと、おかしな人だ)

 春花はキッチンでお茶を淹れると、盆に乗せて真崎にすすめた。
 真崎は胡坐をかいて座り、片手でいただきますの仕草をしてから湯のみを取り上げる。
「やっぱり、あの錠剤を飲んだんですね」
「先生がただのビタミン剤だと言ったからです」
 春花が恨めしげに言うと、真崎はばつの悪い表情になる。

「ビタミン剤だというのは、嘘ではありません。私もゼミの学生らも、吉川博士……例の工学博士ですが、彼から同じ錠剤をもらいました。製薬会社と共同開発したサプリメントだそうです。ただ彼は夕子君にだけ『男になる薬』だと、でたらめを吹き込んだんですねえ」
「ええっ?」
「彼は夕子君をからかうのが好きで、あんな封筒に入れて彼女に渡したのです。……だけど、中身は私や学生も飲んだビタミン剤と同じものですよ。このことは先ほど吉川君に確認しておきました」

「先生達も飲んだんですか?」
「はい。でもこのとおり、何の変化もありません。学生も男女を問わず同じくです」
「そんな……だったら、なぜ私だけこんなことに」
 わけが分からない。
 分かったことといえば一つだけだ。
 今回のことは夕子や真崎というより、謎のビタミン剤を開発した吉川博士が主犯だということ。春花は見も知らぬその科学者を憎々しく思った。

「先生、吉川博士に連絡して、何とかしてください!」
「元に戻りたいですか」
「当たり前でしょう! 嫌ですよ、こんなの」
「しかし薬の効果は一週間だけですよ。封筒に書いてあったでしょう」
「あ……」
「不思議な現象でも、その期限は信じていいような気がします。根拠のほどは、吉川君に直接訊いてみなければ分かりませんが」

 そういえばそうだ。
 一週間だけ男になる――と、薬が入っていた封筒に明記されていた。

「だとしても、一週間も身動きが取れないのは困ります」
 春花の苦情に、真崎は意外そうな顔をする。
「何も家に閉じこもっていることはない。楽しんだらいいですよ。なかなか体験できることではありませんからね」
「楽しむ?」
 どういう意味だろう。
 春花は眉根を寄せるが、彼は至極真面目な様子である。

「一週間ですよ、たったのね。その間、男という性を体験するのです。あなたにとって、忘れられない、貴重な7日間になるに違いありません。どうでしょう」
 穏やかで丁寧な真崎の話し方には、理屈以前の説得力があった。
 あまり深くものを考えない春花は、もしかしたらそうなのかな――と思い始めている。

「例えば、男にしか出来ないことってあるでしょう」
「はあ」
「そういうのにチャレンジしてごらんなさい。いずれ女性に戻るのですから。ねっ?」
「……」
 そうか、一週間の期限付きか。
 改めて口の中で呟く。
 春花は、何だか急にラクになり、真崎の言葉に耳を傾ける余裕が出てきた。

「でも、何でしょうね、男にしか出来ないことって」
 前向きになった春花に、真崎はにんまり笑って膝を詰めてくる。
「ともかく、まずは着替えてください。女物の服を着て街へ出るわけにいかないでしょう」
 そう言って、先程の紙袋を指差した。
「えっ、もしかして……着替えを持って来てくれたんですか?」
「はい。私の手持ちから適当にかき集めてきました。サイズはLからXLです。少し大きめかもしれませんが、何とか間に合いそうですね」

 春花は驚くとともに、真崎がなぜこんなにすぐやって来たのか分かった気がした。
 こんな事態になるとは予測できなかったとはいえ、春花に謎のビタミン剤をすすめてしまった。そのことで、彼は彼なりに責任を感じているのだ。
「先生……」
 真崎は大きく頷いた。
 どっしりと構えるその姿には、年上らしい頼もしさが感じられる。この人が傍にいてくれたら、何とかなるような気がする。 

 春花は大きく息をつくと、膝を叩いて立ち上がった。
 こうなったら、覚悟を決めるしかない。

(私は、男として一週間を過ごす)

「では、遠慮なくお借りします」
「どうぞ、どうぞ。あ、下着類は新品ですから安心してくださいね」
「なっ……」
 一瞬狼狽するが、今の春花は男性体である。これは男同士としての親切なのだ。
「私と同じメーカーのトランクスです」
「あ、ありがとうございます……」

(うう、調子が狂う。まったく、おかしなことになっちゃったな……)

「さて、そろそろ帰ります。大学に行かねばなりません」
「あ……」
 先生も忙しいのに、こうして飛んできてくれたのだ。この人が悪いわけじゃないのに。
 春花は居住まいを正し、ぺこりと頭を下げた。
「すみません。お世話になりました!」
「どういたしまして」

 立ち上がった真崎は春花より背が高い。
 玄関に向かう後ろ姿を見上げながら、春花は認識を新たにする。
 彼のことを変人だと思い、ドアの鍵をかけないでおいたことを心で詫びた。

 真崎は駐車場のすみに停めてあるアウディに乗り込んだ。
 窓を下げると、春花に笑いかける。
「夕方、またおじゃまします。今後のこともありますし、相談しましょう。日中も何かあったら遠慮なく連絡してください」
 スマートフォンを掲げる彼に促され、春花は連絡先を交換した。
「よろしくお願いします。あの、いろいろとありがとうございました」
「いえいえ。では、グッドラックです」
 彼は片手を上げると、意外なほどスマートな運転で県道のむこうに消えて行った。


「さてと……どうしようかな」
 真崎を見送るためアパートの外に出て来た春花は、まだちんちくりんのパジャマを着ている。このなりを大家さんにでも見られたら面倒だと思いつき、慌てて部屋に戻った。
 しかし姿見に映る自分を眺め、考え直す。
 仮に見られても、男物の服を着て『僕は神田春花の弟です』と自己紹介すれば、通用しそうだ。顔がそっくりだし、普通に納得してもらえるだろう。

(それにしても、夕方まで何をして過ごそう。まさか女子大に行って講義を受けるわけにもいかないし)

 女性の春花はいなくなり、その代わり男性の春花が存在している。

 とりあえず、真崎が貸してくれた男物のシャツとスラックスに着替えた。しばしぼんやりしているとチャイムが鳴った。
 このせせこましい鳴らし方は夕子である。

「すご~い、本物の男だ!」
 夕子は部屋に上がると男性化した春花をしげしげと眺め、深いため息をついた。
「誰のせいだと思ってんのよ」
「吉川博士」
「夕子もでしょ!」
 ここまできてとぼける夕子に、春花は呆れた。

「しかし、私より真崎先生が先に来てたなんて。さすが先生、行動力あるなあ」
「感心してる場合? あんたはね、先生に尻拭いさせてるんだよ」
「うーん。まあ、そうなるかなあ」
 この呑気な態度は何なんだろう。
 もしかしたら、真崎先生のほうが日頃夕子に迷惑をかけられているのでは……
 春花はそんな気がしてきた。

「それにしても、やっぱり春花が私のリュックから封筒を抜き取ってたのね。研究室に戻ってから、落としたのかもしれないって真崎先生に言ったら、いやそれは神田春花さんだって言い当てて、急に会いに行くとか言い出してさ。びっくりするよね、先生自ら春花に興味津々で近付くなんて」
「夕子が常日頃、私のことを先生に吹き込んでたんでしょ」
「えへへ……だって春花ってば実験体としていい身体してるし、面白いもん」
「お、面白い?」

 夕子の思考回路は理解不能だ。
 もう問答するのも面倒になって、春花はベッドに仰向けに寝そべった。

 寝そべりながら夕子を何気なく見やった。
 今日は天気もよく気温が高いからか、夕子はブラ付きのタンクトップに膝丈のデニムスカートという軽装だ。

(ん……?)

 彼女の姿をしばらく眺めるうち、春花の身体の真ん中辺りに違和感があった。
 それに何だか動悸がして、下腹の奥から突き上げるような衝動を感じる。

 春花は目を剥き、がばりと起き上がった。
 全身から汗が噴き出している。

「わっ、どうしたの?」
 春花の尋常ではない様子に、さすがの夕子も動揺している。
 彼女がこちらに近付いて腕に触ろうとした時、この違和感と衝動が何なのか春花は気付いた。
「夕子、外に出て! 今すぐ部屋から出て行って!!」
 突然叫んだ春花に、夕子は困惑している。
「ど、どこか痛いの? どうしたのさ、春花」
「あとで説明するから……とにかく、早く出てって!」
 ベッドのすみに後退りする春花に夕子は頷き、転げるように部屋を飛び出した。

「はあ、はあ……落ち着け、私」
 春花は荒れた息を整えつつとトイレに駆け込むと、そっと下半身を確認する。
 男性の生理現象――
 それを初めて体感した彼女は、呆然と立ち尽くすのみであった。


 夕子を外に待たせたまま、春花は真崎に電話した。指先が小刻みに震えている。
『そうですか、大変ですねえ』
 落ち着き払った返事に拍子抜けするが、興奮は収まらない。
 春花はしかし、つとめて冷静に相談した。
 彼しか相談できる相手がいないのだ。

『朝起きた時はどうでした』
「どうってことなかったです。普通でした」
『ふ~む。では、いまいま完全に男性化したのかもしれませんね。そうですか、それは大変ですねえ』
 真崎は落ち着きすぎている。春花はもうぶち切れそうだ。
「そうですよ、大変なんです。どうすればいいんですか!!」

 春花は真崎のレクチャーを受けた。
 恥ずかしいとか、気まずいとか、そんなしおらしい感情は吹き飛んでいる。
 ただただ、必死だった。

 男性の……いやヒトの身体には、何とさまざまなプログラムがなされているのか。
 真崎の言葉をメモしながら、気が遠くなる思いだった。


 生理現象の処理を終えると、春花は身だしなみを整えてから玄関に向かった。
 何が起きるかわからない恐怖感はあったが、部屋で悶々としているよりは外の方がましである。
「一週間の我慢だ。一週間、一週間……」
 自分を励ますように、何度も繰り返した。


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