先生

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
103 / 104
番外編

定休日

しおりを挟む
三月末のある日――

創作ダイニングバー"ナンバーエイト"のマスターこと村上むらかみ知宏ともひろ38歳は暇だった。

このワイングラスを磨いてしまえば、特にする事もない。

一人きりの定休日である。


真琴まことさんは仕事があるからデートは出来ないし、午後は新しいメニューでも考えよっかなあ」


真鍮のハンガーにピカピカのグラスを収めると、空腹を覚える。昼食がまだだったのを思い出し、冷蔵庫にあるハムサラダでサンドイッチを作った。


松山まつやまは北海道に行っちゃったし、しまさんとかおるちゃんはハネムーンの最中だし……遊んでくれる人が誰もいないこの寂しさよ」


マスターは手製のランチをカウンターに置くと、ポットを火にかけて温める。とそこへ、店のドアを開ける者がいた。


「あれっ、鍵をかけ忘れたか?」


急いで入り口に歩き出すが、ひょこっと現れた人物に、驚きと嬉しさが混ざり合った顔になる。


「こんにちは~。わ・た・し・で~す」

「真琴さん! どうしたの、こんな時間に」


婚約者を喜んで招き入れると、スツールに座らせた。


「昼めしは済んだ? えっ、まだなの。じゃあ、一緒に食べようぜ」


お使いの帰りなんだけど、ちょこっと会いたくなって……とか言われて、彼はだらしなく表情を緩ませた。サンドイッチを追加して作ると、彼女のぶんもコーヒーを淹れて、仲良く並んで腰かける。

10も離れた年下の彼女とは、この秋に入籍し、結婚式を挙げる予定になっている。

バツイチになってはや8年。仕事ひと筋に生きてきたマスターだが、やはり寂しくもあった。


マスターっていい人だけど、ちょっと……がさつって言うかあ……


周囲の女性が彼を評する言葉である。


(フン、別に気に入ってくれなくていいもんね。どうせ俺はがさつな男ですよ)


縁遠いのは、半分意地になったせいでもある。これから先の人生、愛する誰かとともに暮らすなど絶対あり得ないと、自分でも思っていた。

真琴はそんな彼にとって、大切な女神様である。


『ちょっと下品? 違うわ。ワイルドなのよ。男の鑑なの、あなたは』


全面的に高評価をくれる彼女に、もうメロメロなのだ。


「あ~、美味しかった。やっぱり知宏さんって、好い男」


美味しいのと好い男がどう繋がるのか定かではないが、とりあえず褒めてくれたようだ。マスターはご満悦である。

真琴は二杯目のコーヒーを淹れてもらうと、嬉しそうに受け取った。


「ところで、島先生と薫っていつ帰るんだっけ?」


彼女に訊かれて、マスターはカレンダーを眺めた。


「ええと……先週の火曜日に発ったのだから、ん? 何だ、今日帰ってくるよ」

「えっ、そうだった?」

「飛行機の時間は聞いてないけど、そうか、今日だったのか」


口ひげを撫でながら、マスターはニヤニヤし始める。


「知宏さん、随分嬉しそうだね」

「そりゃあもう、遊び相手がいなくて寂しかったもんね!」


島秀一は彼に遊び相手と認識されていた。


「私もそう。薫が海の向こうにいると思うと、なんとなく寂しくって」


だから彼女も、こうして婚約者を訪ねてきたのかもしれない。


「でもさ、他にはどこにも寄らずパリだけってのが、いかにも島さんらしいよな。拘りがあるんだろうなあ」

「留学してた辺りを案内するんですって。土地に慣れてるし、フランス語も出来るんでしょ。素敵よね~」


真琴はうっとりとした口調で先生を褒めた。マスターは少しばかり面白くないが、まあ、事実であるからしょうがない。

しかし、その後がいけなかった。


「先生ってイケメンだし、若々しいし、才能はあるし、背も高いし、優しくて紳士で……」

「ウォッホン!」


自分の婚約者が他の男を手放しで褒めるのを見逃すほど、彼は寛容ではない。


「あのねえ。知ってるだろ、真琴さんも」

「え?」

「頑固で、我が儘で、融通が利かない四十男ですよ、島さんは」


しじゅうおとこと強調するマスターも同世代なのだが、彼にはこの際どうでもよかった。


「まあ、そうかもしれないけど……」

「それにね、真琴さん。あの人のスカした口調、耐えられる? 俺が女だったらうわ~って顔を覆いたくなるようなセリフを吐くぜ、あの人は」

「えっと……知宏さん?」


マスターは拳を握り、力説する。真琴は聞き手になるほかなかった。


「たとえば、新婚旅行先のホテルとかでも」

「ホテル?」


ごほんと咳払いすると、きりっと眉を上げ、前髪をかき上げた。島先生がよくやる仕草である。

マスターは物まねモードに突入したのだと真琴は悟った。


「こう、じっと薫ちゃんを見つめてさ」

「うんうん」

「『薫、疲れただろう。今日はあちこち引っぱり回して、悪かったね』」


真琴は思わず噴き出した。

いつ聞いてもそっくりな声と口調。それに、いかにも先生らしいセリフである。


「そこで薫ちゃんは、はにかんじゃって」

「えっ、薫まで真似るの?」


可笑しさに耐えられるか心配になり、真琴は腹筋を押さえて身構えた。


「『そんな、嬉しかったです。秀一さんの思い出の場所を見ることができて』」

「あっははは。いやだあ、そっくり!」


裏声ではあるが、薫の特徴をよく捉えている。

マスターは初めての物まねがこれほど受けるとは思わず、調子に乗った。日頃は封印しているおふざけ精神を発揮してしまう。


「そうそう、あの二人はね、夜もこんな風なの」

「よ、夜ですって」


涙を拭きながらも、真琴はマスターの物まねを止めなかった。彼女もなかなかのおふざけ者である。


「『薫、そろそろ寝ようか』」

「うぷっ……」

「島さんが後ろからこう、薫ちゃんを抱き寄せる。結構、あの人は強引な男だからねえ、力強く!」


ぐいっと抱き寄せるジェスチャーをするマスター。顔には微笑を湛えている。

実にスケベそうな顔つきだ。


「あっ」

「そう、そこで薫ちゃんが、『あっ』と叫ぶ。色っぽくするつもりもないのに漏れてしまう声が、また色っぽい」

「あの、知宏さん……」

「ちょっとまあ聞いて。いいかい? これからが本番だ。島さんはベッドに彼女をそおっと寝かせて、器用に脱がせちゃう。あっという間の早業だ。彼はそういう男なんだ」


個人的見解をあたかも真実のように語りながら彼は続ける。


「『きれいだよ、薫。この身体も、心も、全部僕のものだ』」

「知宏さんっ」


真琴がなぜか両手をばたばたさせるが、マスターは芸を完成させたくて精神集中する。いよいよ佳境に入った物まねを、誰も止められない。


「『いいね……』」

「いいわけないでしょう」

「そう、いいわけない」


今、自分が発しているのと同じ声が背後から聞こえ、マスターは戦慄する。

この声は――


「本当に、君って人は」


恐る恐る振り向くと、その人がいた。本物の彼が、こちらを睨みつけている。

その後ろで赤くなって俯くのは、彼の新妻だ。おずおずと、手にしたナイロンバッグを差し出しつつ、訪ねてきたわけを教えた。


「あの、今パリから帰ってきました。通り道だから、マスターにお土産を渡していこうかって……」


呆然とするマスターの代わりに、真琴が慌てて受け取った。


「あ、ありがとう。ほら、知宏さん、お土産いただいたのよ」


だが彼は蛇に睨まれたまま動けない。

真琴もフォローのしようがなく、苦笑するのみ。

さあ、マスターはどうするのか。


「ええっと」

「……」


ええい、こうなりゃ開き直りだ。と思ったかどうか定かではないが、彼は髪を勢いよくかき上げると、


「『やあ、見られちゃったかな!』」



その後、マスターにどんなお仕置きが待っていたのかは……

ご想像にお任せします。







<終>
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

運命の歯車が壊れるとき

和泉鷹央
恋愛
 戦争に行くから、君とは結婚できない。  恋人にそう告げられた時、子爵令嬢ジゼルは運命の歯車が傾いで壊れていく音を、耳にした。    他の投稿サイトでも掲載しております。

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

【完結】後妻に入ったら、夫のむすめが……でした

仲村 嘉高
恋愛
「むすめの世話をして欲しい」  夫からの求婚の言葉は、愛の言葉では無かったけれど、幼い娘を大切にする誠実な人だと思い、受け入れる事にした。  結婚前の顔合わせを「疲れて出かけたくないと言われた」や「今日はベッドから起きられないようだ」と、何度も反故にされた。  それでも、本当に申し訳なさそうに謝るので、「体が弱いならしょうがないわよ」と許してしまった。  結婚式は、お互いの親戚のみ。  なぜならお互い再婚だから。  そして、結婚式が終わり、新居へ……?  一緒に馬車に乗ったその方は誰ですか?

~前世の知識を持つ少女、サーラの料理譚~

あおいろ
ファンタジー
 その少女の名前はサーラ。前世の記憶を持っている。    今から百年近くも昔の事だ。家族の様に親しい使用人達や子供達との、楽しい日々と美味しい料理の思い出だった。  月日は遥か遠く流れて過ぎさり、ー  現代も果てない困難が待ち受けるものの、ー  彼らの思い出の続きは、人知れずに紡がれていく。

【完結】小麦姫は熊隊長に毎日プロポーズする[スピラリニ王国3]

宇水涼麻
恋愛
ビアータに毎朝プロポーズされるアルフレードは、プロポーズされることに違和感があり戸惑っている。 しかし、そんなことも三月も続けば、戸惑いはなくとも、疑問は残る。 ビアータは本気でプロポーズしているのか? アルフレードは悩みながらも強くは拒否できないでいた。 そして、夏休みを迎える。 中世ヨーロッパ風学園ラブストーリーです。 『虐げられたご令嬢はお隣さんと幸せになる』と同時代同学園でのお話になります。 でも、ほぼ被りませんので、そちらを読んでいないことは問題ありません。 毎日午前中に更新予定です。

卸商が異世界で密貿易をしています。

ITSUKI
ファンタジー
主人公、真崎隼人。 平凡ながらも上等なレールを進んできた彼。仕事思う所が出てきたところだったが転機が訪れ実家の卸商を継ぐことに。 その際、ふと異世界への扉を見つけ、異世界と現代両方での商売を考え始める。

処理中です...