先生

藤谷 郁

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出立

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訣別。別れ。

寂しい響きを耳にしながら、私はベアトリスの言葉を思い出す。

あれはきっと、その海の旅についての言葉なのに……


――ノエルと旅した思い出は、忘れられない宝物


「留学期間を終えた夏、バカンスを利用してフランスの海を巡った。ベアの車に画材を積んで、オートルートを飛ばして。僕は何だか落ち着かなかった。一介の留学生が絵を描くために車を使って、ホテルに滞在し、しかも助手を伴うなど贅沢な行為だから」


秀一さんはちらりと私を見て、気まずそうにする。スポンサー付きの画集制作の旅を、分不相応に感じたらしい。


「雨宮さんは投資したのであり、僕は創作に集中して結果を出せばいい。分かってはいるが、融通がきかなくてね。そのことで、彼女と度々言い争いになった」

「言い争い?」


秀一さんは頷き、まずは旅のあらましを聞かせてくれた。


「行く先々のホテルに滞在し、海景画を制作した。まず風景を見ながら木炭や鉛筆でいくつもスケッチして、納得できる構図を見つけるとキャンバスに下書きし、絵の具をのせていく。朝から夜までとにかく描き続けたが、自然光に照らされたモチーフは、明るさや色がどんどん変わるだろ。特に海はね、印象を捉えるのが大変だった」


いつしか夢中で話している。苦労した経験も充実となって、この人の心に残っているのだろう。


「その場で完成させた作品の他、印象をスケッチしておいて、帰宅してからじっくり仕上げたものもある。世話になってる雨宮さんに恩返しするつもりだったから、絶対に手抜きも妥協も許さなかった。そして、最後の日。あっという間に日程を消化し、作品も全てパリへ送って、後は帰るだけという夕暮れだった。ベアが僕を散歩に誘ったんだ。長い長い作業から解放されたばかりの僕は、気が抜けたのも手伝って、ベッドに寝そべり、目を閉じたまま断った。とにかくだるくて、疲れていた。だが、それをきっかけに彼女は爆発したんだ」

「爆発?」


あのクールなベアトリスが?

私は驚くが、彼は至って真面目である。


「起きようとしない僕を見下ろし、聞き取れない速さのフランス語でまくし立ててきた。そのうち彼女がnoixという単語を繰り返しているのに気づく」

「ノワ?」

「胡桃って意味だよ。堅くてなかなか割れない。ベアが僕を頑固者となじる時の言葉だ」

「そ、そうなんですか」


彼女は意外にも激しい一面を持っているのだ。秀一さんの話しぶりでは、喧嘩も珍しくない様子である。


「あんまりしつこいから、僕もつい応戦しちまった。疲れてるのに、散歩を断ったくらいでどうしてそんなに怒るんだ。腹を立てたのはその時だけじゃない。ベアとは定期的にぶつかり合ったよ。喧嘩のきっかけはいつも絵画についての考え方の違いで、その時もそうだった。だけど、いつもより険悪で、あの頃彼女は苛々してる事が多かったし、僕に対する不満が溜まっていたみたいだ」

「苛々……ですか」

「うん。やっぱり、僕の絵に対する考え方が気に入らなかったんじゃないかな」


そうだろうか――

私は別の推測をしたが、とにかく続きを聞く事にする。


「あなたはどうしてそんなに融通がきかないの! と、ベアは怒っている。僕が息抜きを一切せず、最後まで制作一辺倒なのが情けないと言ってね。息抜きと称してサボったなら怒られてもしょうがないが、その逆でどうして文句を言われるんだ。彼女の理屈では、僕は雨宮さんの期待をちっとも理解してないらしい。これからどんどん伸びる資質を持ってるくせに、ノエルは人間がみみっちいと罵倒された。雨宮さんは、あなたを見込んでいろいろな経験をして絵に生かしてほしいから大枚注ぎ込んでるのに、どうしてわからないのと。一方的に責める彼女に僕は言い返したよ。僕には僕のやり方がある。雨宮さんもよく理解してくれている。絶対に曲げないからな……ってね」


秀一さんの身体から、ポッポと湯気が出そうだった。


「あ……」


彼は私を抱き寄せて拘束した。身体が燃えるように熱い。


「それにベアは、僕の絵を売り出す話ばかりするんだ。いつか画廊を開いたら僕に専属契約を結べと言う。いくらで売れるとか、稼げるとか、そんなことばかり。その時もそうだった」


――ケチなノエルは大成しない。才能を自ら埋没させて、一生堅い殻の中で過ごせばいい。まったくあなたは胡桃だわ。それも、腐った胡桃ね!!


「腐った……胡桃……?」

「ああ……」


秀一さんは口をつぐんだ。私は慰める言葉もなく、ただそっと彼の腕をさすった。


「自分にとってベアは芸術の先生でもある。尊敬する彼女から俗物めいた説教をされるのが堪らなかった。彼女は芸術を愛すると同時に根っからの商売人で、道彦さんなんかはそんな彼女を理解できるが、僕は駄目だ。彼女が始終口にする世界的な成功という言葉に反発し、金や名誉が何だと突っぱねた。だから今でも僕は日本を出ようとしないし、作品全てに転売禁止の条件を付けている」

「そうだったんですか……」


あなたらしくて良い。そんなところが好きなのだと思う。

きっと、彼女も本当は……


「彼女とは旅から帰って以来、顔を合わせていない。僕も避けていたが、ベアも一切連絡を寄越さなかった。二カ月かけて絵の仕上げをした後、アパルトマンを引き払い、僕はパリを離れた。あっけない別れだったよ」

「別れ……」


それは違う。ベアトリスには終わっていない。

あの人は、今も秀一さんを――


「画集は意地でも完成させたが、やはりどうしても我慢できず、僕は手元に残さなかった。雨宮さんも知ってるはずだ」


ようやく腕から力を抜くと、私を解放した。


「ベアには商才があり、運も味方に付けている。その頃、かつて価値の低かった印象派画家らの作品やスケッチ類を店の倉庫で大量に発見するという奇跡が起きた。僕が帰国した直後だったらしい。鑑定すると、驚いたことに皆本物で、状態の良いものには信じられないような値が付いた。彼女はそれを元手にエトワール画廊を開業したんだ。運もいい、経営手腕に長けている。殻を破り、大きく羽ばたいたのさ。だけど今のあの人は、僕が憧れて、優しくて、いつも応援してくれたベアトリス・エーメではない」


ノワ――フランス語で胡桃。なかなか割れない、頑固者。

マルセルの顔を思い出す。君にしか出来ないことだと、私に託してくれた彼の瞳が懸命に訴えている。私なら、割ることが出来るだろうか。


「あの、秀一さん」

「ん?」


今聞いた話のうち、気付いたことを言おう。この人は怒るかもしれないけれど。でも、マルセルと約束したのだ。自分のためにも言わなければ。


「散歩を断っただけで彼女が怒ったのは、きっと理由があります。その頃彼女が苛々していたのは、おそらく……」


秀一さんは、きょとんとする。


「おそらく?」

「あなたの留学期間が終わり、帰国する日が迫っていたからでは無いでしょうか」

「えっ……?」

「つまり、物足りないというか」

「物足りない?」


言葉が悪かったのか、秀一さんが心外な表情を浮かべる。でも、たぶんその通りだと私は思うのだ。


「女性として、もっと秀一さんに、恋人として接してほしかったのだと感じます。もうすぐ帰国してしまう恋人と一緒に旅をして、放っておかれたら悲しいです。苛々して、当たってしまうと思います。散歩にすら付き合ってくれないの……と」

「薫……」

「ごめんなさい、勝手な解釈をして。だけど、あなたを大好きな気持ちは彼女と同じだから、理解できるんです」


秀一さんと出かけた海の旅を、忘れられない宝物だとベアトリスは言った。秀一さんには画集制作の旅でも、彼女にはそれだけじゃない。世界が輝きに溢れる、愛の旅だったのだ。


「だけど薫、ベアはひと言もそんな気持ちを言わなかった。画家としての在り方に終始して、僕に融通が利かないと怒って、最後は腐った胡桃とまで」

「あの人は怖かったんです。素直に言って、もし、拒絶されたら」


ベアは、島に拒絶されるのを、何よりも恐れている――と、いつだったか道彦さんが教えてくれた。いまや世界中を飛び回る辣腕社長である彼女が、秀一さんに接触する勇気を十五年も持てないでいると。


「しかし、ベアは……」


秀一さんは混乱している。私の発言をどう受け止めたらいいのかわからないのだ。


「ベアトリスには、まだ終わっていません。絵画についての関係は、あの旅で訣別したかもしれない。でも、男と女の関係は、彼女の中でまだ終わっていないんです」


目を上げて彼を見つめる。

殻は、割れるのだろうか。

秀一さんはテーブルに手を伸ばすと、焼き菓子を一つ摘まんだ。

私は希望を抱くとともに緊張した。彼女が作る菓子とは出来栄えが違うだろう。だけど、彼の堅く閉ざされた殻が、この鍵で開くかもしれない。

いや、必ず開くだろう。そんな予感がする。

秀一さんは摘まんだ菓子を、じっと見つめてから口に入れた。

サクサク、ほろりとした食感がするだろう。口中に神経を集中し、彼は一心に味わっている。

やがて咀嚼は止まり、焼き菓子は彼の喉へと降りていった。

唇を閉ざしたままの彼を私は見守る。

そして反応を待つ。


「胡桃だ……」


搾り出すような、ひと言。感情の昂りが声を震えさせている。


「ベアに言ったんだ。アーモンドはもちろん、木の実が……特に胡桃の菓子が好きだと。そうしたら、僕の誕生日に、胡桃をたくさん入れて焼いてくれた。これと同じ菓子を」


音が聞こえる。堅く閉ざされた殻が少しずつ割れていく音だ。


「僕のために、ベアが作ってくれたのを……思い出した」


十五年前の、彼女と過ごした煌く時間が胸に蘇ったのだろう。

秀一さんは泣きそうになりながら、優しい微笑みを浮かべる。


「胡桃が好きだと、言ってくれた」
 

彼女のレシピで、私が再現した思い出の焼き菓子。

ベアトリスの彼を想う気持ちが、心に直接届いたのだ。
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