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破綻
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秀一さんを、遠くに感じている。
ただの先生と生徒だった頃よりも、はるか遠くに。
金曜日――
仕事帰りに駅前広場の噴水前を通りかかったとき、スマートフォンが鳴った。
(ついにきた……)
今日一日、ずっと怯えていた。秀一さんから、両親との食事会をキャンセルする電話があるだろうと。
噴水の縁に腰かけて、ポケットの中の電話を握りしめる。
勢いよく噴き上げる水に目をやりながら、昨夜の、この場所でのやり取りを思い出した。
あんなに恐ろしい秀一さんは初めてだった。それ以上に、そんな彼に反発して言い返す自分が信じられなかった。本当にあれは私だったのだろうか。
電話は留守番電話に切り替わったのか、ぴたりと鳴り止んだ。
「きっと、秀一さんだ……」
昨夜、家の前に突然現れた彼を心に浮かべる。
私を心配して後を追ってきた。顔も体も汗だくになって、なりふり構わず。初めて反発した私を、必死になって追いかけてきたのだ。
そして、怒るどころか私に気を使うような、遠慮した態度だった。目を合わせようとせず、なるべく私に触れないよう接していた。
一番不思議なのは、松山さんのことであんなに怒りながら、その松山さんと私が家の前で話すのを黙って見ていたことだ。
私は、わからないなりに考えた。もしかしたら、秀一さんはあきらめてしまったのではないかと。
彼に言われるまま松山さんの電話番号を消して、今後一切関わらないと約束したなら満足しただろう。
だけど私は逆らった。松山さんとの関わりを断つのを拒否したのだ。
秀一さんは私をあきらめた。
だから、松山さんと私が一緒にいるのを見ても責めなかったのではないか。
「そんな……」
スマートフォンを握る手が震えた。推測が当たっているような気がしてならない。
確かに昨夜の秀一さんは怖かった。ベアトリスとの過去も一切教えてくれないし、勝手なことばかり要求されて、悲しくて、もうお終いだと思った。
けれど、私は怯えている。
両親との顔合わせをキャンセルしてほしくない。傷つけられてもなお、彼とともに未来を歩むことを望む。
人が聞けば滑稽に思うだろう。
でもやっぱり私は彼を好きなのだ。理屈など関係なく、今、こんなに遠く感じるのが寂しくてしょうがないのだ。
私は持てる勇気を総動員して、ポケットからスマートフォンを取り出し、発信者を確かめる。
10桁の数字だった。つまり、アドレスに未登録の番号。
彼の名前ではなく数字だったことに私は冷や汗を拭う。
(固定電話の番号だ。これは、どこかで……)
スマートフォンが再び鳴りだした。先ほどと同じ数字が並んでいる。
心当たりはないが、とりあえず出ることにした。
「はい」
『おっ、繋がった!』
思わず立ち上がる。私がよく知っている声だ。
『星野さん、俺です。竹宮道彦です。突然申しわけない!』
竹宮堂に行くには教室の前を通らなければならない。
今日は夜に親子絵画教室があるのみだから、今の時間帯は無人のはずだ。私は迷ったが、思い切ってビルの前を通りすぎた。
案の定、教室の明かりは消えていた。
暗い窓を見て、ほっとすると同時に寂しい気持ちになる。だけど立ち止まらず、小走りで竹宮堂へと急いだ。
竹宮堂の三階は倉庫兼事務所だ。私は竹宮夫妻にすすめられて、応接セットに座った。
「そうか~、やっぱり喧嘩になっちゃったか」
竹宮道彦さんが大柄な体を反らせて天井を仰ぐ。奥さんは私の隣に腰かけると、慰めるように背中を擦ってくれた。
道彦さんは、ベアトリス・エーメが私に会いにきたのを知り、心配して電話をくれたのだ。
その件を彼に教えたのは、ベアトリスの秘書であるマルセル・ロベール。彼は今、英子さんとクロッキーでお茶を飲んでいるそうだ。
「今日の夕方、マルセルがふらりとやって来てね、そんなことを話しだすからびっくりした。ベアが星野さんに関心を持ってるのは知ってたけど、まさか本当に会いにいくとは……」
「身勝手で強引な人よ」
奥さんが怒った顔で口を挟むと、道彦さんはばつが悪そうに頭を掻いた。
「大体、島君の絵をあの人に転売しようとしたのが間違いなのよ」
「そんなこと今さら言ってもしょうがないだろう。第一、お前だって賛成したくせに」
「そ、それは……まあ、私も島君の絵が海外で評価されるのを期待しているから」
道彦さんはぽかんとする私に気づき、複雑な笑みを浮かべる。
「島先生の絵を、ベアトリスさんに託して海外に紹介する……ってことですか?」
「星野さんには迷惑をかけたね。不愉快な思いをさせたことを、ベア……ベアトリスに代わってお詫びしたい。この通り、済まなかった!」
ただの先生と生徒だった頃よりも、はるか遠くに。
金曜日――
仕事帰りに駅前広場の噴水前を通りかかったとき、スマートフォンが鳴った。
(ついにきた……)
今日一日、ずっと怯えていた。秀一さんから、両親との食事会をキャンセルする電話があるだろうと。
噴水の縁に腰かけて、ポケットの中の電話を握りしめる。
勢いよく噴き上げる水に目をやりながら、昨夜の、この場所でのやり取りを思い出した。
あんなに恐ろしい秀一さんは初めてだった。それ以上に、そんな彼に反発して言い返す自分が信じられなかった。本当にあれは私だったのだろうか。
電話は留守番電話に切り替わったのか、ぴたりと鳴り止んだ。
「きっと、秀一さんだ……」
昨夜、家の前に突然現れた彼を心に浮かべる。
私を心配して後を追ってきた。顔も体も汗だくになって、なりふり構わず。初めて反発した私を、必死になって追いかけてきたのだ。
そして、怒るどころか私に気を使うような、遠慮した態度だった。目を合わせようとせず、なるべく私に触れないよう接していた。
一番不思議なのは、松山さんのことであんなに怒りながら、その松山さんと私が家の前で話すのを黙って見ていたことだ。
私は、わからないなりに考えた。もしかしたら、秀一さんはあきらめてしまったのではないかと。
彼に言われるまま松山さんの電話番号を消して、今後一切関わらないと約束したなら満足しただろう。
だけど私は逆らった。松山さんとの関わりを断つのを拒否したのだ。
秀一さんは私をあきらめた。
だから、松山さんと私が一緒にいるのを見ても責めなかったのではないか。
「そんな……」
スマートフォンを握る手が震えた。推測が当たっているような気がしてならない。
確かに昨夜の秀一さんは怖かった。ベアトリスとの過去も一切教えてくれないし、勝手なことばかり要求されて、悲しくて、もうお終いだと思った。
けれど、私は怯えている。
両親との顔合わせをキャンセルしてほしくない。傷つけられてもなお、彼とともに未来を歩むことを望む。
人が聞けば滑稽に思うだろう。
でもやっぱり私は彼を好きなのだ。理屈など関係なく、今、こんなに遠く感じるのが寂しくてしょうがないのだ。
私は持てる勇気を総動員して、ポケットからスマートフォンを取り出し、発信者を確かめる。
10桁の数字だった。つまり、アドレスに未登録の番号。
彼の名前ではなく数字だったことに私は冷や汗を拭う。
(固定電話の番号だ。これは、どこかで……)
スマートフォンが再び鳴りだした。先ほどと同じ数字が並んでいる。
心当たりはないが、とりあえず出ることにした。
「はい」
『おっ、繋がった!』
思わず立ち上がる。私がよく知っている声だ。
『星野さん、俺です。竹宮道彦です。突然申しわけない!』
竹宮堂に行くには教室の前を通らなければならない。
今日は夜に親子絵画教室があるのみだから、今の時間帯は無人のはずだ。私は迷ったが、思い切ってビルの前を通りすぎた。
案の定、教室の明かりは消えていた。
暗い窓を見て、ほっとすると同時に寂しい気持ちになる。だけど立ち止まらず、小走りで竹宮堂へと急いだ。
竹宮堂の三階は倉庫兼事務所だ。私は竹宮夫妻にすすめられて、応接セットに座った。
「そうか~、やっぱり喧嘩になっちゃったか」
竹宮道彦さんが大柄な体を反らせて天井を仰ぐ。奥さんは私の隣に腰かけると、慰めるように背中を擦ってくれた。
道彦さんは、ベアトリス・エーメが私に会いにきたのを知り、心配して電話をくれたのだ。
その件を彼に教えたのは、ベアトリスの秘書であるマルセル・ロベール。彼は今、英子さんとクロッキーでお茶を飲んでいるそうだ。
「今日の夕方、マルセルがふらりとやって来てね、そんなことを話しだすからびっくりした。ベアが星野さんに関心を持ってるのは知ってたけど、まさか本当に会いにいくとは……」
「身勝手で強引な人よ」
奥さんが怒った顔で口を挟むと、道彦さんはばつが悪そうに頭を掻いた。
「大体、島君の絵をあの人に転売しようとしたのが間違いなのよ」
「そんなこと今さら言ってもしょうがないだろう。第一、お前だって賛成したくせに」
「そ、それは……まあ、私も島君の絵が海外で評価されるのを期待しているから」
道彦さんはぽかんとする私に気づき、複雑な笑みを浮かべる。
「島先生の絵を、ベアトリスさんに託して海外に紹介する……ってことですか?」
「星野さんには迷惑をかけたね。不愉快な思いをさせたことを、ベア……ベアトリスに代わってお詫びしたい。この通り、済まなかった!」
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