51 / 104
惜別
5
しおりを挟む
恋愛感情は簡単に割り切れるものではない。
分かっていたはずなのに、私は松山さんを、恋愛と切り離して関われる男性だと思い込んでいた。
いや、思い込もうとしていた。
都合よく、これからも今まで通りに付き合っていけると決め付け、彼に甘えていたのだ。
――28にもなってガキみたいに頼りない
激怒されて当然だ。本当に私は、どうしようもない。
今でもよく憶えている。先生に告白して退けられ、泣いていたあの夜、松山さんに言われた言葉。
――男心がまるで分かっちゃいない。
あの頃から、何も変わっていなかったのだ。
「先に乗ってろ」
松山さんは車のキーを私に持たせると、店舗棟に行ってしまった。
すぐに運転する気分ではないのかもしれない。
私はドアを開けると乗り込み、一人でじっと待った。大人しく待つほかない。彼に対して、私にはこれくらいが精一杯。何も出来ない現実をやっと理解できた。
10分が過ぎた。
松山さんは戻ってこない。
苛立っているのだろうか。気持ちが鎮まらなくて、どうしようもないのだろうか……
30分が過ぎた頃、さすがに不安になった。
(何かあったのかな)
心配になって見に行こうとしたが、すれ違いになるといけないので電話をかけることにした。
「えっと、スマホは……あれ」
今日はずっと使わなかったから、バッグに入ったままだ。青いストラップが付いた携帯を取り出し、番号を押そうとした。
「あ……」
着信記録が一件ある。誰だろうと思いながら発信者の名前を確認し、息を呑んだ。
「島先生……知らなかった。いつ?」
着信時刻は14時51分。水族館にいる頃だ。
巨大水槽の前で松山さんといる時、携帯が鳴った気がする。彼の話を邪魔してはいけないと、着信を無視した。あの電話は先生からだったのだ。
「悪い、遅くなった」
突然ドアが開いて、松山さんが入ってきた。
私は異様に驚き、そのはずみで携帯を取り落としてしまう。
「何やってんだ」
「ごめんなさい」
ふと、ミントの香りが鼻を掠めた。
ガムでも噛んでいるのだろうかと思いつつ、彼が拾ってくれた電話を受け取ろうとする。
「えっ……」
松山さんが手を止め、青いストラップを凝視している。
「ど、どうかした?」
「いや」
私は戸惑うが、彼はすぐに返した。
「ありがとう」
受け取ると、ぎゅっと握り締めるようにして持ち、それからバッグに仕舞う。何かもう、本当に自分が情けなくて仕方なかった。
「少し飛ばすか」
デジタル時計の表示を見た松山さんは、ベルトを装着しながら呟く。
「慌てなくていいよ。あと少しだから」
「いいのか」
遅くなってもいいのか……という意味だ。
私はうんうんと頷く。松山さんは「じゃ、そうする」と素直に返事をくれて、パーキングエリアをゆっくりと出発した。
夜の高速道路は現実感が無く、何処を走っているのかよく分からない。
膝に乗せたバッグが重く感じる。先生の電話は何の用事だったのか。着信は一回きりで、留守録もされていない。
急ぎでは無いと思うけれど、膝に重さを感じる。電話に出なかった負い目だろうか。
闇の中を走りながら、漠然とした不安に襲われる。
まるで、このままどこか別の場所に行ってしまいそうな――
だけど、意外なほど早く現実の世界へと抜け出した。
周りが明るくなってきた。ひとつ手前のインターが近付いてきたのだ。あと少しで、いつもの町に着くのだと思い、ようやく緊張を解く。
だけど、松山さんがウインカーを出し、出口へのラインに入った時、はっとした。
インターを間違えたのだろうか。
そっと彼を見るが、ぴくりとも表情を変えない。
彼はゲートを抜けると国道を北へ走った。
北は反対方向だ。
「松山さ……」
「遅くなってもいいんだろ」
有無を言わせぬ強引さで、私の声に被せる。
「今だけ、俺のものだ」
国道を北上するにつれ街灯りも寂しくなっていく。
私の事をずっと守ってくれた松山さんが、今は恐ろしい怪物に見える。
だけど逃げ出す事も出来ず、徐々に暗くなる車窓を見守るしかなかった。
高速を降りて15分ほど走った頃、看板が見えてきた。
宮野川に掛かる橋への表示。松山さんはその方向へと右折した。
地元に帰るには宮野川を渡らなければならない。やはりもう帰るのだと安心したが、彼は橋の手前で堤防を下りた。
「どこに行くの」
やっとのことで発した声は、ぶざまに震えている。でも構っていられない。
「松山さん、帰りたい」
彼は何も答えず、いきなり川に向かって砂利道を走り出した。真っ暗な中、スピードを緩めず進んでいく。
私はバッグを抱きしめ、振動に耐える。
(先生……っ)
島先生の声が耳に反響した。
――危ないことはしないで。
――僕のところに戻ってくるのを、待ってる。
ブレーキがかかり、車が止まった。
バッグを抱えたまま、恐る恐る松山さんを見上げる。暗くて表情はわからない。まるで知らない男性に思える。黒い影は前を向いたままエンジンを止め、ライトも消した。
闇の中、川面がぼんやりと横たわっている。街灯りは堤防に遮られ、真っ暗で、人影もない。
狭いシートの上を、見知らぬ男から目を逸らせないまま後ずさる。
(この人は松山さんじゃない)
手探りでドアを開けると、車を飛び出した。
堤防めがけて走る。砂利を踏み、草を分ける音が背後から聞こえた。追いかけて来るのだ。
(先生! 先生!)
砂利道が途切れると足元はぬかるみ、粘っこい泥がヒールに絡み付く。
何メートルも走らないうちに私は転んだ。すぐに立ち上がり逃げようとするが、かなわなかった。
後ろから伸びた物凄い力に腕を掴まれ、そのまま引きずるように連れ戻された。
「いやっ……いやーっ!」
金切り声を上げるが暴漢の力は緩まず、私は再び車に押し込まれた。
暴漢はひと言も発さない。ただ息荒く、獣のように猛々しい乱暴さで私をシートに押し倒した。
「やめてやめてっ。お願い、やめてー!」
同じ言葉を繰り返し、力いっぱいもがくが、無力を思い知らされるだけだった。
分かっていたはずなのに、私は松山さんを、恋愛と切り離して関われる男性だと思い込んでいた。
いや、思い込もうとしていた。
都合よく、これからも今まで通りに付き合っていけると決め付け、彼に甘えていたのだ。
――28にもなってガキみたいに頼りない
激怒されて当然だ。本当に私は、どうしようもない。
今でもよく憶えている。先生に告白して退けられ、泣いていたあの夜、松山さんに言われた言葉。
――男心がまるで分かっちゃいない。
あの頃から、何も変わっていなかったのだ。
「先に乗ってろ」
松山さんは車のキーを私に持たせると、店舗棟に行ってしまった。
すぐに運転する気分ではないのかもしれない。
私はドアを開けると乗り込み、一人でじっと待った。大人しく待つほかない。彼に対して、私にはこれくらいが精一杯。何も出来ない現実をやっと理解できた。
10分が過ぎた。
松山さんは戻ってこない。
苛立っているのだろうか。気持ちが鎮まらなくて、どうしようもないのだろうか……
30分が過ぎた頃、さすがに不安になった。
(何かあったのかな)
心配になって見に行こうとしたが、すれ違いになるといけないので電話をかけることにした。
「えっと、スマホは……あれ」
今日はずっと使わなかったから、バッグに入ったままだ。青いストラップが付いた携帯を取り出し、番号を押そうとした。
「あ……」
着信記録が一件ある。誰だろうと思いながら発信者の名前を確認し、息を呑んだ。
「島先生……知らなかった。いつ?」
着信時刻は14時51分。水族館にいる頃だ。
巨大水槽の前で松山さんといる時、携帯が鳴った気がする。彼の話を邪魔してはいけないと、着信を無視した。あの電話は先生からだったのだ。
「悪い、遅くなった」
突然ドアが開いて、松山さんが入ってきた。
私は異様に驚き、そのはずみで携帯を取り落としてしまう。
「何やってんだ」
「ごめんなさい」
ふと、ミントの香りが鼻を掠めた。
ガムでも噛んでいるのだろうかと思いつつ、彼が拾ってくれた電話を受け取ろうとする。
「えっ……」
松山さんが手を止め、青いストラップを凝視している。
「ど、どうかした?」
「いや」
私は戸惑うが、彼はすぐに返した。
「ありがとう」
受け取ると、ぎゅっと握り締めるようにして持ち、それからバッグに仕舞う。何かもう、本当に自分が情けなくて仕方なかった。
「少し飛ばすか」
デジタル時計の表示を見た松山さんは、ベルトを装着しながら呟く。
「慌てなくていいよ。あと少しだから」
「いいのか」
遅くなってもいいのか……という意味だ。
私はうんうんと頷く。松山さんは「じゃ、そうする」と素直に返事をくれて、パーキングエリアをゆっくりと出発した。
夜の高速道路は現実感が無く、何処を走っているのかよく分からない。
膝に乗せたバッグが重く感じる。先生の電話は何の用事だったのか。着信は一回きりで、留守録もされていない。
急ぎでは無いと思うけれど、膝に重さを感じる。電話に出なかった負い目だろうか。
闇の中を走りながら、漠然とした不安に襲われる。
まるで、このままどこか別の場所に行ってしまいそうな――
だけど、意外なほど早く現実の世界へと抜け出した。
周りが明るくなってきた。ひとつ手前のインターが近付いてきたのだ。あと少しで、いつもの町に着くのだと思い、ようやく緊張を解く。
だけど、松山さんがウインカーを出し、出口へのラインに入った時、はっとした。
インターを間違えたのだろうか。
そっと彼を見るが、ぴくりとも表情を変えない。
彼はゲートを抜けると国道を北へ走った。
北は反対方向だ。
「松山さ……」
「遅くなってもいいんだろ」
有無を言わせぬ強引さで、私の声に被せる。
「今だけ、俺のものだ」
国道を北上するにつれ街灯りも寂しくなっていく。
私の事をずっと守ってくれた松山さんが、今は恐ろしい怪物に見える。
だけど逃げ出す事も出来ず、徐々に暗くなる車窓を見守るしかなかった。
高速を降りて15分ほど走った頃、看板が見えてきた。
宮野川に掛かる橋への表示。松山さんはその方向へと右折した。
地元に帰るには宮野川を渡らなければならない。やはりもう帰るのだと安心したが、彼は橋の手前で堤防を下りた。
「どこに行くの」
やっとのことで発した声は、ぶざまに震えている。でも構っていられない。
「松山さん、帰りたい」
彼は何も答えず、いきなり川に向かって砂利道を走り出した。真っ暗な中、スピードを緩めず進んでいく。
私はバッグを抱きしめ、振動に耐える。
(先生……っ)
島先生の声が耳に反響した。
――危ないことはしないで。
――僕のところに戻ってくるのを、待ってる。
ブレーキがかかり、車が止まった。
バッグを抱えたまま、恐る恐る松山さんを見上げる。暗くて表情はわからない。まるで知らない男性に思える。黒い影は前を向いたままエンジンを止め、ライトも消した。
闇の中、川面がぼんやりと横たわっている。街灯りは堤防に遮られ、真っ暗で、人影もない。
狭いシートの上を、見知らぬ男から目を逸らせないまま後ずさる。
(この人は松山さんじゃない)
手探りでドアを開けると、車を飛び出した。
堤防めがけて走る。砂利を踏み、草を分ける音が背後から聞こえた。追いかけて来るのだ。
(先生! 先生!)
砂利道が途切れると足元はぬかるみ、粘っこい泥がヒールに絡み付く。
何メートルも走らないうちに私は転んだ。すぐに立ち上がり逃げようとするが、かなわなかった。
後ろから伸びた物凄い力に腕を掴まれ、そのまま引きずるように連れ戻された。
「いやっ……いやーっ!」
金切り声を上げるが暴漢の力は緩まず、私は再び車に押し込まれた。
暴漢はひと言も発さない。ただ息荒く、獣のように猛々しい乱暴さで私をシートに押し倒した。
「やめてやめてっ。お願い、やめてー!」
同じ言葉を繰り返し、力いっぱいもがくが、無力を思い知らされるだけだった。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
イケメン御曹司、地味子へのストーカー始めました 〜マイナス余命1日〜
和泉杏咲
恋愛
表紙イラストは「帳カオル」様に描いていただきました……!眼福です(´ω`)
https://twitter.com/tobari_kaoru
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は間も無く死ぬ。だから、彼に別れを告げたいのだ。それなのに……
なぜ、私だけがこんな目に遭うのか。
なぜ、私だけにこんなに執着するのか。
私は間も無く死んでしまう。
どうか、私のことは忘れて……。
だから私は、あえて言うの。
バイバイって。
死を覚悟した少女と、彼女を一途(?)に追いかけた少年の追いかけっこの終わりの始まりのお話。
<登場人物>
矢部雪穂:ガリ勉してエリート中学校に入学した努力少女。小説家志望
悠木 清:雪穂のクラスメイト。金持ち&ギフテッドと呼ばれるほどの天才奇人イケメン御曹司
山田:清に仕えるスーパー執事
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
溺愛彼氏は消防士!?
すずなり。
恋愛
彼氏から突然言われた言葉。
「別れよう。」
その言葉はちゃんと受け取ったけど、飲み込むことができない私は友達を呼び出してやけ酒を飲んだ。
飲み過ぎた帰り、イケメン消防士さんに助けられて・・・新しい恋が始まっていく。
「男ならキスの先をは期待させないとな。」
「俺とこの先・・・してみない?」
「もっと・・・甘い声を聞かせて・・?」
私の身は持つの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界と何ら関係はありません。
※コメントや乾燥を受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる