先生

藤谷 郁

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恋心

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海から上がると、私達はホテルに戻って洋服に着替えた。

私はブルーのワンピースを着て、その上にカーディガンを重ねる。胸元が隠されると、ほっと息をついた。


「それにしても、松山君って心配性よねえ」


化粧を完璧に仕上げた真琴が、ドレッサーの鏡越しに話し掛ける。シルクのドレスを纏う彼女は、水着姿に負けないくらいの色香を漂わせていた。


「まるで、薫のボディーガードだわ」


真琴は私の髪を結い上げながら、松山さんについて話す。


(ボディーガード……か)


私が波に倒された時、松山さんは強い力で捕まえて胸に抱いた。頼もしくて大きな体は、島先生とはまた違う男性らしさだった。


「私がそそっかしくて頼りないからだよ。松山さん、面倒見のいい人だから」

「それだけかな」


真琴は飾りピンを刺して仕上げたあと、私を探るように見つめる。


「それだけって……?」

「私さ、薫から松山君の話を聞いて、本当にただの友達だと思った。でも、三人で飲んだ夜……今日も、こうして近くで見ると、違ってたかなって」


彼女の紅い唇を見つめ、私は身構える。一体、何を言うつもりなのか。


「今朝のサービスエリアでも、感じたことよ。あんたが波にさらわれそうになった時の、あの慌てぶり。松山君は、薫を友達以上に思ってる。ううん、そんな軽い感情じゃない。誰よりもあんたを大切に思い、守ってるのよ」

「まさか……違うよ」


私は弱々しく否定した。


「そうじゃないと、はっきり言える?」

「……」


確かに松山さんは、私を不思議なくらい心配して守ろうとする。

でもそれは、やっぱり私が頼りないから。友達だから……ただそれだけで。

私は強く頭を振った。そんなの困る。困ってしまう。


「ねえ、薫」


真琴はあらたまったように、私に忠告した。


「絶対に、ぶれちゃ駄目よ。松山君に期待させては駄目。私も村上さんも、松山君に辛い思いをしてほしくない。薫だってそうでしょ」


松山さんの本当の気持ちが分からないまま、私は頷く。彼を友人として大事に思う気持ちは、皆と同じだから。


(松山さんが私を本当に好きだとしたら、どうすればいい? 期待させるって、具体的にどういう行為を指すの。今までと変わらず振る舞えば良いの?)


「よし! それじゃ、行きましょ」


混乱する私の心を知らず、真琴は部屋のドアを開けた。

答えは見つからず、でも、旅を続けるほかないのだ。




ホテルのロビーに行くと、マスターと松山さんが椅子から立ち上がった。二人ともきちんとした格好をしている。


「おお! いいねえ」


マスターは私と真琴を交互に見て、感嘆の声を上げた。


「やっぱり女性は華やかでいいね。野郎ばかりだとこうはいかない。う~ん、最高だ」


賛辞を送るマスターの横で、松山さんは黙っている。いつにも増して怖い顔は、怒っているかのよう。


「どうした松山。薫ちゃんが綺麗すぎて言葉もないのか」


マスターがからかう横で、真琴が複雑な笑みを浮かる。

松山さんは我に返ったみたいに反応した。


「いや、うん。いつもと違うから……」

「照れるなよ。女性がお洒落してキレイになった時は、素直に褒めるもんだ」

「……」


マスターに追い撃ちをかけられ、横を向いてしまう。こんな松山さんを初めて見た気がする。


「あの~村上さん、お腹すいちゃいました。早くランチに行きましょうよ」

「おお、そうだった。ごめんね、真琴さん」


真琴がさりげなく腕をとると、マスターはたちまち彼女に意識を集中させた。

私は胸を撫で下ろす。松山さんも同じなのか、私と目を合わせて苦笑を浮かべる。それはいつもどおりの、二人の呼吸だった。



カーペットの敷かれた広い廊下を歩いた。ガラス張りの窓から見渡す海は雄大で、どこまでも明るい。景観を生かした設計の、素晴らしいリゾートホテルだ。

レストランまで、私と松山さんは並んで歩いた。近寄りすぎず、離れすぎず、それこそ友達同士の距離感で。それが私には、やはり心地がいい。

ジャケットを窮屈そうに羽織る松山さんだけど、案外似合っている。


「飯を食うのに着替えるなんて時間の無駄だ。効率が悪いぜ」


彼らしくぼやいてみせるが、声は朗らかだった。



レストランの入り口が見えてきた。

テレビやネットでたびたび紹介される、全国的に有名な欧風料理の店だ。


「マナーにうるさいとこじゃないだろうな」


本気で心配する松山さんに、私は可笑しくなった。


「大丈夫だよ。ディナーじゃなくてランチだし」

「そうだけどさ。苦手なんだよ、気取った店は」

「マスターと真琴、それに私もついてるよ」


松山さんは口を結んだ。何か変なこと言ったかなと心配するが、彼はふっと目元を和ませる。


「そうだな。お前と一緒なら、大丈夫か」


心から安堵した様子に、やはりこの人は年下なのだと思った。
 



席に着いてしばらくすると、ランチコースの前菜が運ばれてきた。


「それにしても楽しかったなあ」


マスターがとろんとした目つきで、窓の海を眺める。さっきまで遊んでいたビーチだ。


「二人きりならもっとよかったんじゃないすか」


松山さんが笑って冷やかした。


「何言ってるんだ。くどいようだが、このメンバーだから楽しいんだよ。なっ、真琴さん」

「うんうん。ホントに、こんなに楽しいのは久しぶり。リフレッシュできた~って感じ」


(来てよかったね、真琴)


マスターに微笑みかける彼女は、魅力にあふれている。恋がこんなにも女性を美しく、そして幸せにするのだ。

次の料理が運ばれて来た。魚介の自家製ソースパスタが、真っ白な大皿に盛られている。


「美味そうだなあ」


マスターが料理人の顔付きになった。赤いソースはちょっぴり辛そうだが、食欲をそそる色だ。


「ビールが欲しくなるな」


物足りない様子の松山さんに「運転、代わろうか」と言うと、


「保険きかねえからダ~メ。と言うより命が惜しい」


即座に返すので、皆笑った。


「へえ、いい呼吸じゃないの、キミタチ」


マスターは私と松山さんを意味ありげに見回す。真琴がその隣で、緊張するのが分かった。


「やっぱり俺は、島さんより松山だと思うけどねえ」


笑顔のマスターだが、声は真面目だ。

私はヒヤヒヤしながら松山さんを窺うが、彼は反応せず、黙々とパスタを食べている。

朝のサービスエリアでの、突き放すような言葉を思い出した。


――薫は俺の好みじゃない。女とは思ってないです。


否定したり無視したり、頑なな態度を取られると、かえって逆の意味に感じられてしまう。

もっと軽く受け流してくれたらいいのに。

それとも、真琴が言うように、やっぱり松山さんは……

マスターは気まずい空気を読み取ったのか、肩をすくめて、話題を変えた。


「さて、これからなんだけどね、帰りのルートに大きな水族館があるんだが、寄ってみないか」

「えっ?」


松山さんが、ぱっと顔を上げた。その素早い反応に、皆が注目する。


「どうした」

「い、いや、別に……」


松山さんは少し困惑した様子で、空になった小皿に目を落とした。


「薫ちゃんはどうかな。イルカショーやペンギン広場もあるぞお」


マスターの言い方に真琴が吹き出す。マスターはどうしても私を子ども扱いしたいようだ。いや、もしかしたら真面目に言っているのかもしれない。

松山さんも可笑しかったのか、私の方を向いていつものように笑う。口の端に赤いソースがついている。


「もちろん、私も賛成です」


このまま帰るのはもったいない気がして、私は提案に乗った。


「よーし決まりだ! ちょいと慌ただしいが、食事が済んだらすぐ出発な」


はしゃいだ声で言うマスターも、私に負けず劣らず子どものようだ。

そんな彼を、真琴が嬉しそうに見守る。年の差なんて感じさせない、相性の良さだ。


「村上さん、自分が一番乗り気だよな」


ぶつぶつ言う松山さんに頷きながら、彼の口元のソースをナフキンで拭ってあげた。

気になったからそうした。

ただそれだけの、無意識の仕草だった。

だけど、松山さんは信じられないという顔になり、私からサッと身を引く。


「失礼いたします」


ウエイターが空いた皿を下げて、デザートを並べ始める。花の形にカッティングされたメロンやスイカに、マスターと真琴は喜びの声を上げた。

私と松山さんの間には気まずい空気が流れて、それどころではない。

もう、認めざるを得ない。

松山さんにとって私は、女なのだ。
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