先生

藤谷 郁

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恋心

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ビーチパラソルがカラフルに咲く砂浜は、大勢の海水浴客でにぎわっていた。家族連れのほか、若い男女のグループが目立つ。

久しぶりの海。はるかに広がる太平洋。

私は目を閉じて、太陽の光と、絶え間なく打ち寄せる波の音を全身で感じた。

夏に抱かれてるみたい――

反射的に、彼を思い出した。

島先生が生まれ育ったのは紀伊半島にある海辺の町だと、竹宮堂の奥さんが教えてくれた。ちょうどこの辺りが、その場所にあたる。

私は膝をつくと、さらさらとした白砂をすくい、指の間から滑らせた。


(この海も砂浜も、先生を形作る材料だったのかもしれない)


燃え盛る真夏の太陽と、穏やかに横たわる太平洋。

今すぐ彼に会いたいと思った。


「先生……ここは、先生の海なんですね」

「ここまで来て先生か」

「ひゃっ」


驚いて振り向く。

松山さんが真後ろに立ち、腰に手を当てた恰好で見下ろしていた。『先生』と、声に出したのを聞かれたのだ。

かあっと赤くなる私に、松山さんは「しょうがねえな」と言って笑う。

そのとおり、まったく私はしょうがない。ここまで来て、頭の中は『先生』でいっぱいなのだ。


「薫がぼけっとしてるから、二人には先に行ってもらったぜ」

「えっ」


松山さんが指差すほうを見ると、マスターと真琴が海に入り、楽しそうに泳いでいる。


「ごめんなさい」


みんなと来ているのを忘れ、別世界に浸っていた。松山さんがいなければ、はぐれてしまうところだ。


「行こうぜ」


松山さんは歩きだした。


(しっかりしなきゃ)


真夏の海を見て先生を連想し、とろんと蕩けそうになる気持ちを引き締めた。


「どうだったんだ、この前」

「この前?」

「先生との、初デート」


唐突に質問されて、私は激しく動揺する。


「上手くいったのか」


真琴とマスターが泳ぐ辺りまで来ると、松山さんは立ち止まった。


「それは……」


どう答えればいいのか、考えあぐねた。

黙っていると、松山さんは大きな背中を向けたまま、肩をすくめる。


「ま、いいよ。ゆっくり進めば」


私の無言を、上手くいかなかったと受け取ったみたいだ。勝手に解釈されて、複雑な気持ちになる。


「あの、松山さん。実は……」


私は言いかけるが、彼は海に入ってしまった。

マスターと真琴と合流し、振り返ると、やけに晴れた表情で私を手招きする。


「もう……!」


しかたなく、私も海へと進んだ。

先生との関係を、今すぐ話す必要はない。そう、今はマスターと真琴のために、四人での休日を楽しむのが先決だ。先生のことは忘れよう。先生とのデートも……忘れられるはずもないけれど、努力する。


「わっ、冷たい」


熱い砂浜からは想像もつかない。海水が意外なほど冷たく感じられて、膝まで入ったところで立ち竦んでしまった。


「かおる~! どうしたの、早くおいでよ」

「気持ちいいぞ。早く泳ごう!」


ビキニ姿の真琴が大きな声で呼んだ。その横で目尻を垂らすマスターも、急かすように手を振っている。

私は強張った顔で頷き、ゆっくりと進んだ。波に足をすくわれそうで、へっぴり腰になってしまう。


「温泉に入るバアチャンかお前は」


いつの間にか近くに来ていた松山さんが、ぐいっと手を引っ張った。強引な力にびっくりするが、彼は遠慮しない。


「冷たいと思うのは初めだけだ」

「で、でも……あっ」


今度は肩を抱くようにして、腰まで浸かる辺りに進んでいく。私は困惑するが、途中からペースを落としてくれたので助かった。松山さんらしい導き方だと思った。


「あ、慣れてきたかも」


海水の温度が肌に馴染んできた。松山さんは私の様子を見て、 困ったもんだと呆れる。


「慎重なのはいいけど、少し臆病すぎるぞ」

「う、うん」


何ごとにおいても私は臆病者だ。こんな場面にもそれが表れてしまう。


「ところで、何で脱がないんだ」


松山さんは肩を離すと、私のパーカーをつまんだ。


「これ、フツーのパーカーだよな。泳ぎにくいだろ。いい加減水着になったらどうだ」

「う、うん」


もっともな質問だ。海に入るというのに、これではあまりにも不自然。

襟もとに手を当て、私は用意しておいた言葉で答える。


「私、肌が弱くて。急に日焼けすると後が大変だから」


単純すぎる理由だが、松山さんは「ふうん」と言うだけで追及しなかった。キスのあとを見られずに済んで、ほっと息をつく。


(助かった……)


私はパーカーを着たまま、みんなと一緒に潜ったり泳いだりした。

水の透明度が高い。久しぶりの海水はとてもしょっぱく感じられたが、それがとても懐かしい。海へ来たのだと実感することができた。


(やっぱりちょっと、泳ぎにくいな)


ラッシュガードを着て泳ぐ人達が周囲にたくさんいる。パーカータイプもあるようで、あれにすれば良かったと後悔した。

だけど、夢中で泳ぐうちにそんなことも忘れる。大きく小さく寄せては返す波が面白くて、私は何年ぶりかの海水浴にはしゃいだ。


「波に気をつけろよ」


松山さんは、常に私を視界に入れている。暗い夜道を送ってくれた、あの時のように、見守ってくれている。

どうしてこんなに心配するのだろう――

私が余りにも頼りないから放っておけないのか。それとも……

別の理由を探ろうとした時、ざわめきと喚声が浜に沸いた。


「薫!」


松山さんの大声が聞こえたと同時に、背後から突き飛ばされた。有無を言わさぬ力だった。数回に一度の割合で、強めの波がやってくる。私はその波にまともに当たり、倒れたのだ。

直後、強い力に引きずられた。


「きゃああっ……!!」


後ろから体を抱えられ、私は波にさらわれることなく、その場に留まった。

気がつけば砂浜まで連れていかれて、びっくりして見上げると、松山さんの怖い顔がすぐ目の前にあった。


「おいおい、大丈夫か!」


マスターが走って来て、私達を覗き込む。


「あ……」


我に返り、慌てて松山さんの胸から体を離し、立ち上がった。

目が回ったみたいによろめいて、真琴に支えられなければ、倒れるところだった。


「まったく、お前は……」


松山さんは体についた砂を払いながら、ゆっくりと起き上がる。そして、私にのしのしと近付くと、点検するように全身を見回した。

私はパーカーの襟を掴んだまま。ほとんど無意識の仕草だった。

松山さんは安堵した顔になると、私の頬についた海草を取ってくれた。


「まったく……お前は危なっかしいよ」

「……ごめんなさい」


震える唇で謝り、彼から目を逸らした。

恐怖と驚きで、激しく動揺している。
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