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黎明
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画廊を出ると、真昼の陽射しが降り注いだ。
建物から出たばかりなので、外は雪の照り返しのような明るさに感じられる。
「長い時間放っておいてごめん。その……雨宮さんに人物画のことをうっかり漏らしてしまった。モデルが誰なのか答えるまで、離してもらえなかったんだ」
先生が右手を額にかざし、まぶしそうに私を見た。
「そうだったんですか」
街路樹の木漏れ日が、先生の肩できらきら光る。まぶしくて、私も目を細めた。
「星野さん、このあとだけど」
「はい」
やはり、もう帰るのだろう。残念だけど、夕方には教室の仕事がある。先生は忙しい身なのだから仕方ない。
俯きかける私だが、先生の楽しげな口調が顔を上げさせた。
「僕の自宅近くに、美味い海鮮料理の店がある。旬の食材を使った日替わりランチが好評で……どうかな、これから食べに行こうか」
先生と一緒に食事を? 考えただけで、何も喉を通らなくなりそうだが、私は頷く。
「行きたいです。魚介類は大好きです!」
「それは良かった」
先生は上着のポケットを探り、車の鍵を取り出した。
「じゃあ、早速行こう。これ以上ここに突っ立ってたら干物になりそうだ」
ネクタイの結び目に指をかけると、煩わしそうに引き抜いた。いつもと違う少し荒っぽい仕草だけれど、違和感はない。
彼の背後に、自然豊かな海辺の情景が浮かび上がる。
竹宮の奥さんに教えてもらった、先生の生まれ故郷のイメージだ。この人は、私が思うよりもずっと、野性味のある男性なのかもしれない。
教室ではわからなかった先生の姿が、ここにある。
「あれっ! そこにいるのは星野さんじゃないか」
突然、野太い声が背中に飛んだ。聞き覚えのある声なので、驚いて振り向く。
「あっ、ナンバーエイトの……」
マスターの村上さんが手を振っている。そういえば、ここ竹宮画廊はナンバーエイトの目と鼻の先にあったのだ。
「村上さん、こんにちは」
私が挨拶すると、マスターは満面の笑みになり、すごい勢いで走ってきた。私はちょっと戸惑う。海のことで喜んでいるのかもしれないが、いささかオーバーだ。
「やあやあ驚いたね。どういう組み合わせかと思ったよ」
「え?」
マスターは私だけでなく、島先生も交互に見ながらにこにこした。
(組み合わせ?)
島先生は不思議顔で私を見下ろす。それは私も同じくで、マスターだけがこの状況に興奮していた。
「先生、マスターとお知り合いなんですか」
「君こそ。マスター……村上君と親しかったのか?」
マスターはぽんぽんと先生の肩を叩く。
「星野さん、俺と島さんはご縁があってね。まあ、長くなるから端折るけど、要するに旧知の仲ってやつだ。な、先生」
ぽかんとする私に、先生が簡潔に説明した。
「僕が学生の頃、川べりのグラウンドで練習する村上君とラグビー部のみんなを、スケッチしたんだ。それ以来の付き合いで、まあ、そうだな……旧知の仲だね」
「そういうこと。さすが、頭の良い人は違うね、要領を得た説明だあ。つまりそういうわけだよ、星野さん。島さんと俺は飲み友達でね、この人、アルコールに滅法強いんだぜ」
先生がお酒に強い。それは意外な情報だ。
それにしても今日のマスターは随分とはしゃいでいる。それとも、これが普通なのだろうか。
「私は先生の絵画教室に通ってるんです。あの、真琴から聞いてませんか」
「んっ?」
真琴の名前を出したとたん、表情が真剣になる。きりっとすると、持ち前のダンディな雰囲気だ。
「いや、あのヒトとは、まだそれほどのアレじゃないから。これからだから。はっははははは……」
「あ、あの……?」
真顔のまま笑うので少し怖い。
「マコトというのは?」
先生が私に訊ねる。
「この前、画廊の前で一緒にいた友人です」
「ああ、あの時の。ということは、そのマコトさんも村上君と知り合いなわけだね?」
私の代わりにマスターが答える。
「そうだよ。今度、彼女と海に行くんだ。なっ、星野さんも一緒に」
「え……ええ」
私は、なんとなく落ち着かなくなる。マスターは逆に、うきうきしてきた。
「海へ……三人で?」
当然の疑問だ。妙なメンバーだと思うだろう。私は、マスターが話を変えてくれるのを期待したが、駄目だった。
「俺と真琴さんと、星野さん。それと松山っていう男。四人で行くんだヨ~!」
先生の瞳が、一瞬凍りついたのが分かった。
「マスター! 仕込み始めますよ」
ナンバーエイトの店員が、店の前でマスターを呼んだ。なかなか戻ってこない店主に対し、声が尖っている。私も、今何か言えば尖った声になりそうだった。
でも、それはお門違いである。
「おう、今行くよ。それじゃあ俺はこの辺で。先生、今度また飲もうぜ。星野さん、水曜日楽しみにしてるよ。ダ・ブ・ル・デート」
マスターは駄目押しすると、店に駆けていった。
(何てこと……)
先生は腕組みをして、私をじっと見下ろす。
不満のオーラを感じるのは、私の自惚れだろうか。
どちらにせよ、今は何を言っても誤解されそうだ。なにしろ、あの松山さんと一緒に、海に行くのだから。
でも本当に松山さんは、ただの友達なのに――
建物から出たばかりなので、外は雪の照り返しのような明るさに感じられる。
「長い時間放っておいてごめん。その……雨宮さんに人物画のことをうっかり漏らしてしまった。モデルが誰なのか答えるまで、離してもらえなかったんだ」
先生が右手を額にかざし、まぶしそうに私を見た。
「そうだったんですか」
街路樹の木漏れ日が、先生の肩できらきら光る。まぶしくて、私も目を細めた。
「星野さん、このあとだけど」
「はい」
やはり、もう帰るのだろう。残念だけど、夕方には教室の仕事がある。先生は忙しい身なのだから仕方ない。
俯きかける私だが、先生の楽しげな口調が顔を上げさせた。
「僕の自宅近くに、美味い海鮮料理の店がある。旬の食材を使った日替わりランチが好評で……どうかな、これから食べに行こうか」
先生と一緒に食事を? 考えただけで、何も喉を通らなくなりそうだが、私は頷く。
「行きたいです。魚介類は大好きです!」
「それは良かった」
先生は上着のポケットを探り、車の鍵を取り出した。
「じゃあ、早速行こう。これ以上ここに突っ立ってたら干物になりそうだ」
ネクタイの結び目に指をかけると、煩わしそうに引き抜いた。いつもと違う少し荒っぽい仕草だけれど、違和感はない。
彼の背後に、自然豊かな海辺の情景が浮かび上がる。
竹宮の奥さんに教えてもらった、先生の生まれ故郷のイメージだ。この人は、私が思うよりもずっと、野性味のある男性なのかもしれない。
教室ではわからなかった先生の姿が、ここにある。
「あれっ! そこにいるのは星野さんじゃないか」
突然、野太い声が背中に飛んだ。聞き覚えのある声なので、驚いて振り向く。
「あっ、ナンバーエイトの……」
マスターの村上さんが手を振っている。そういえば、ここ竹宮画廊はナンバーエイトの目と鼻の先にあったのだ。
「村上さん、こんにちは」
私が挨拶すると、マスターは満面の笑みになり、すごい勢いで走ってきた。私はちょっと戸惑う。海のことで喜んでいるのかもしれないが、いささかオーバーだ。
「やあやあ驚いたね。どういう組み合わせかと思ったよ」
「え?」
マスターは私だけでなく、島先生も交互に見ながらにこにこした。
(組み合わせ?)
島先生は不思議顔で私を見下ろす。それは私も同じくで、マスターだけがこの状況に興奮していた。
「先生、マスターとお知り合いなんですか」
「君こそ。マスター……村上君と親しかったのか?」
マスターはぽんぽんと先生の肩を叩く。
「星野さん、俺と島さんはご縁があってね。まあ、長くなるから端折るけど、要するに旧知の仲ってやつだ。な、先生」
ぽかんとする私に、先生が簡潔に説明した。
「僕が学生の頃、川べりのグラウンドで練習する村上君とラグビー部のみんなを、スケッチしたんだ。それ以来の付き合いで、まあ、そうだな……旧知の仲だね」
「そういうこと。さすが、頭の良い人は違うね、要領を得た説明だあ。つまりそういうわけだよ、星野さん。島さんと俺は飲み友達でね、この人、アルコールに滅法強いんだぜ」
先生がお酒に強い。それは意外な情報だ。
それにしても今日のマスターは随分とはしゃいでいる。それとも、これが普通なのだろうか。
「私は先生の絵画教室に通ってるんです。あの、真琴から聞いてませんか」
「んっ?」
真琴の名前を出したとたん、表情が真剣になる。きりっとすると、持ち前のダンディな雰囲気だ。
「いや、あのヒトとは、まだそれほどのアレじゃないから。これからだから。はっははははは……」
「あ、あの……?」
真顔のまま笑うので少し怖い。
「マコトというのは?」
先生が私に訊ねる。
「この前、画廊の前で一緒にいた友人です」
「ああ、あの時の。ということは、そのマコトさんも村上君と知り合いなわけだね?」
私の代わりにマスターが答える。
「そうだよ。今度、彼女と海に行くんだ。なっ、星野さんも一緒に」
「え……ええ」
私は、なんとなく落ち着かなくなる。マスターは逆に、うきうきしてきた。
「海へ……三人で?」
当然の疑問だ。妙なメンバーだと思うだろう。私は、マスターが話を変えてくれるのを期待したが、駄目だった。
「俺と真琴さんと、星野さん。それと松山っていう男。四人で行くんだヨ~!」
先生の瞳が、一瞬凍りついたのが分かった。
「マスター! 仕込み始めますよ」
ナンバーエイトの店員が、店の前でマスターを呼んだ。なかなか戻ってこない店主に対し、声が尖っている。私も、今何か言えば尖った声になりそうだった。
でも、それはお門違いである。
「おう、今行くよ。それじゃあ俺はこの辺で。先生、今度また飲もうぜ。星野さん、水曜日楽しみにしてるよ。ダ・ブ・ル・デート」
マスターは駄目押しすると、店に駆けていった。
(何てこと……)
先生は腕組みをして、私をじっと見下ろす。
不満のオーラを感じるのは、私の自惚れだろうか。
どちらにせよ、今は何を言っても誤解されそうだ。なにしろ、あの松山さんと一緒に、海に行くのだから。
でも本当に松山さんは、ただの友達なのに――
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