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黎明
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「今日は午後からなの。でも、交代する前で良かったわ。星野さんに会えるなんて」
私の手を取り、嬉しそうにぎゅうぎゅうと握る。先生は私達の様子を見て、妙な顔をする。
「そういえば、道彦さんも彼女と親しそうだった。何かあったんですか?」
「別にイ。星野さんが買い物に来た時、ちょっと話しただけよ」
奥さんは握った手に力を込めて、合図を送ってくる。つまり内緒に、ということだ。
「……えっと、筆を選ぶアドバイスをしてもらったんです」
「そうそう、画材のこととか? 特に何でもない話よ。ね、星野さん」
「は、はい」
女二人のやり取りに、先生は不信の目を向けてくる。
「いやね、そんな目で見て。島君の悪口なんて言ってないから、安心してよ」
「まあ、いいですけどね」
先生は肩をすくめた。私は内心、ほっと息をつく。
「あっそうそう、大事なことを忘れてた。雨宮さんがいらしてるの。あなたの絵を購入してくださって、今、書類を作っているのよ」
奥さんは展示室の奥を指さす。『応接室』と、プレートが貼られたドアがあった。
「えっ、雨宮さんが」
先生が背筋をぴんとさせた。
「星野さん、悪いけど先に観ていてくれないか。大事な人が来てるんだ」
「はっ、はい」
先生が応接室に入るのを見送って、竹宮の奥さんと一緒に絵を鑑賞した。地元の画家による作品を中心に、さまざまな「海」が展示されている。
「あの、奥さん。お客様は大丈夫ですか」
付き添ってもらうのが申しわけなくて言うのだが、奥さんはにこりと笑う。
「いいの、いいの。彼のほうが作品に詳しいから」
見ると、会場には若い男性スタッフが一人いて、来廊者の質問や注文に答えている。
私は安心して、絵画に集中することにした。
いくつもの海がある。どれも完成度が高く、さすがプロの絵画だと思った。
「あ、これは先生の……」
横長のキャンバスに、朝焼けに染まる海景が描かれている。遠くに半島が浮かぶが、あとはゆったりとした海が横たわるだけ。
キャプションを見ると島秀一。やはり先生の作品だ。
「構図としては、単純すぎるくらい単純よね。題材が視界いっぱいの太平洋だもの。それでも大雑把にならないところが島君の細やかさというか、丁寧な観察眼かな」
先生の描いた風景。
それは、遠くを眺めるようで、実は近くも見るような、奥行きのある構図だ。
私達とは世界の捉え方が違うと言うのか……それを言葉にするのは難しい。
キャプションに『朝』と書かれている。
隣に並ぶ絵も先生の作品だ。同じ眺めを同じ構図で描いたもので、『夜』とあった。
一方は夜明け。もう一方は真夜中だろうか。
太陽と月が海を照らし、幻想的な雰囲気を醸している。
「雨宮さんが、この二作品を購入してくださったわ」
奥さんは、キャプションの赤いシールを指さす。売約済みの印だ。
「島君の絵を、彼が画学生のころから贔屓にして下さってる方なの。熱烈なファンであり、コレクターね」
「そうなんですか」
だから先生は、雨宮さんと聞いたとたん緊張したのだ。
「雨宮さんは、島君がスランプに陥るとタイミングよく声をかけてくれたり、お手紙を下さったりするの。島君にとってはただのお得意さんとは一線を画する、特別な存在ね」
雨宮という人物に関心が湧く。一体、どんな方なのだろう。
「リゾートホテルや旅館を経営する実業家よ。島君と同郷だから、より親しみが湧くのかも」
「島先生は、地元の人じゃないのですか」
「ああ、島君はね、中学の入学と同時に越して来たの。元々は紀伊半島の南にある、海辺の町で生まれ育ったと聞いたわ」
私はあらためて、『朝』と『夜』の海景に向き合う。
奥さんはこの海を太平洋だと言った。もしかすると、その生まれ故郷の海かもしれない。
先生をもっともっと深く知りたい。知ることができるかもしれない。
静かな海原を、長い間見つめた。
私の手を取り、嬉しそうにぎゅうぎゅうと握る。先生は私達の様子を見て、妙な顔をする。
「そういえば、道彦さんも彼女と親しそうだった。何かあったんですか?」
「別にイ。星野さんが買い物に来た時、ちょっと話しただけよ」
奥さんは握った手に力を込めて、合図を送ってくる。つまり内緒に、ということだ。
「……えっと、筆を選ぶアドバイスをしてもらったんです」
「そうそう、画材のこととか? 特に何でもない話よ。ね、星野さん」
「は、はい」
女二人のやり取りに、先生は不信の目を向けてくる。
「いやね、そんな目で見て。島君の悪口なんて言ってないから、安心してよ」
「まあ、いいですけどね」
先生は肩をすくめた。私は内心、ほっと息をつく。
「あっそうそう、大事なことを忘れてた。雨宮さんがいらしてるの。あなたの絵を購入してくださって、今、書類を作っているのよ」
奥さんは展示室の奥を指さす。『応接室』と、プレートが貼られたドアがあった。
「えっ、雨宮さんが」
先生が背筋をぴんとさせた。
「星野さん、悪いけど先に観ていてくれないか。大事な人が来てるんだ」
「はっ、はい」
先生が応接室に入るのを見送って、竹宮の奥さんと一緒に絵を鑑賞した。地元の画家による作品を中心に、さまざまな「海」が展示されている。
「あの、奥さん。お客様は大丈夫ですか」
付き添ってもらうのが申しわけなくて言うのだが、奥さんはにこりと笑う。
「いいの、いいの。彼のほうが作品に詳しいから」
見ると、会場には若い男性スタッフが一人いて、来廊者の質問や注文に答えている。
私は安心して、絵画に集中することにした。
いくつもの海がある。どれも完成度が高く、さすがプロの絵画だと思った。
「あ、これは先生の……」
横長のキャンバスに、朝焼けに染まる海景が描かれている。遠くに半島が浮かぶが、あとはゆったりとした海が横たわるだけ。
キャプションを見ると島秀一。やはり先生の作品だ。
「構図としては、単純すぎるくらい単純よね。題材が視界いっぱいの太平洋だもの。それでも大雑把にならないところが島君の細やかさというか、丁寧な観察眼かな」
先生の描いた風景。
それは、遠くを眺めるようで、実は近くも見るような、奥行きのある構図だ。
私達とは世界の捉え方が違うと言うのか……それを言葉にするのは難しい。
キャプションに『朝』と書かれている。
隣に並ぶ絵も先生の作品だ。同じ眺めを同じ構図で描いたもので、『夜』とあった。
一方は夜明け。もう一方は真夜中だろうか。
太陽と月が海を照らし、幻想的な雰囲気を醸している。
「雨宮さんが、この二作品を購入してくださったわ」
奥さんは、キャプションの赤いシールを指さす。売約済みの印だ。
「島君の絵を、彼が画学生のころから贔屓にして下さってる方なの。熱烈なファンであり、コレクターね」
「そうなんですか」
だから先生は、雨宮さんと聞いたとたん緊張したのだ。
「雨宮さんは、島君がスランプに陥るとタイミングよく声をかけてくれたり、お手紙を下さったりするの。島君にとってはただのお得意さんとは一線を画する、特別な存在ね」
雨宮という人物に関心が湧く。一体、どんな方なのだろう。
「リゾートホテルや旅館を経営する実業家よ。島君と同郷だから、より親しみが湧くのかも」
「島先生は、地元の人じゃないのですか」
「ああ、島君はね、中学の入学と同時に越して来たの。元々は紀伊半島の南にある、海辺の町で生まれ育ったと聞いたわ」
私はあらためて、『朝』と『夜』の海景に向き合う。
奥さんはこの海を太平洋だと言った。もしかすると、その生まれ故郷の海かもしれない。
先生をもっともっと深く知りたい。知ることができるかもしれない。
静かな海原を、長い間見つめた。
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