先生

藤谷 郁

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遭遇

7

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松山さんは日焼けしていた。

おまけにすっきりとした表情になっており、ご機嫌なのがひと目で分かる。

私は受領印を伝票に押すと、後ろのデスクでいつになく静かに仕事する小橋さんを見やり、違和感を持った。どうも様子が変である。

彼女は今朝から元気が無い。どことなくやつれているようにも見える。その顔は、日に焼けるどころか、かえって青白いくらいだ。

吉野さんや他の女性社員がそれとなく訊いても、


「別に……ちょっと遠出して、疲れたのよ」


そう答えるばかりで、誰とどこに行ったなどひと言も話さない。いつもの彼女なら、はしゃいで報告するはずなのに。皆、彼女の様子に首を傾げた。


「荷物を倉庫に入れるので、確認をお願いします」


松山さんは丁寧な言葉遣いで私に言うと、先に階段を下りていく。


「えっ……あの?」


今日は小荷物ひとつなので、倉庫を開ける必要は無い。伝票も1枚で、1個口と書いてある。

どういうことだろう。

よく分からないが、黙々と仕事する小橋さんを横目に、私は事務所を出た。



冷房のきいた事務所とは一転、外は焼け付くような暑さだ。積乱雲が立ち上る夏空。蝉の鳴き声も激しく、盛夏を演出している。

倉庫の前で、松山さんが立ち止まる。私が駆け寄ると


「はい、受け取りお願いします」


おどけたように言い、小さな紙袋を差し出す。

受け取ると、S浜ドライブインと印刷された、土産用の小袋だった。顔を上げる私に、松山さんは嬉しそうに笑う。


「遊んで来たんだ。南の海をドライブして、一日のんびり」


どうやらこれは、私へのお土産らしい。


「楽しかったなー。晴れ晴れとして、気持ちよかったぜ」


本当に気持ち良さそうに伸びをする。どこにも曇りのない、爽やかな笑顔だ。

だけど、どうしてもおかしい。迷ったが、私はとにかく訊いてみることにした。


「誰と行って来たの?」


伸びをした格好のまま、彼は「あ?」と言う。

予期せぬ質問だったのか、へんてこな反応だ。


「誰とって?」


私を見下ろし、じろりと睨む。

お土産を持つ手に、じんわりと汗が滲みてきた。


「誰と行くんだよ」


逆に訊かれ、返事に窮した。誰とって、それは……


「一人旅だよ。気楽な一人旅」


心外な顔つきになる。私ははっとして、取り繕う言葉を探すが、うまく見つからない。

私も吉野さんも状況だけを証拠に、二人が一緒に海に行ったと決め付けたのだ。

しまったと思うが、もう遅い。素人探偵の、的外れな推理だった。


「お前なあ」


松山さんは暑いのか、帽子を取ると、ぱたぱたと首元をあおいだ。私もだらだらと、変な汗をかいている。


「バカだな、まったく。誰と行ったと思うんだ」

「……」

「ちゃんと言えよ。どうしてそんな風に思うんだ」

「だって……」


情けない。俯いて目も合わせられない私は、父親に叱られる子供だと思う。

ふうっと、ため息が聞こえた。何の言い訳も出来ない。許してもらえないかもしれない。


「薫」


優しい声が呼んだ。


「言ってみなよ。怒らないから」

「うん……」


私は観念し、小橋さんのことを言ってしまった。あなたを好きだという人が事務所にいる。その人も海に行くと言ったから疑ったと。

松山さんは「うう~ん」と唸ってから帽子を被り直した。


「ああ、あの人。小橋さんって人か」


事務所の方向へ目をやる。


「なるほどね。へっへへ」


何が可笑しいのと、私は目で訊ねた。松山さんは口の端に笑みを残し、端的に教える。


「この前、迫られたよ。倉庫の中で」

「はい……?」

「すっげえ積極的な人だよな」

「こ、小橋さんが?」


私を見下ろし、さも可笑しそうに笑う。笑える話だろうか。


「私と付き合わない? って、言われた。背中にいきなりおっぱ……いやその、胸を押し付けてきてさ」

「まさか!」


思わず叫んだ。いくらなんでもそんなこと。職場でそんなことをするなんて。

松山さんは私をからかっている。そう思ったけれど、彼は真顔になる。


「考えさせてくれって言っておいたけど、それからは何にもアプローチなし。ちょっと誘ってみただけだろ」

「でも……どうしてそんな」

「いろんな女がいるんだよ」


背中を向け、トラックのほうへと歩き始める。

私は慌てて追いかけ、とにかく疑ったことを謝ろうとした。だがその時、男性社員が通りかかったので足を止める。社員は松山さんに気が付くと「おっ」と声を上げた。


「よお、松山君、ごくろうさん!」


昨日、彼の婚約解消の話を聞いて、嬉しそうにした社員の一人だ。


「お世話になります」


松山さんは帽子を取って挨拶した。


「秋田君に聞いたよ。落ち込むなよ! 女は他にいくらでもいる」


社員は晴れやかな顔で言うと、手を振って階段を上がっていった。

私は恥ずかしさのあまり縮こまる。なんという無礼な……同じ会社の人間として情けなかった。あんな大声で、無神経すぎる。

だけど松山さんは、そんな私を見て明るく笑う。

卑屈なところが微塵もない、太陽みたいに明るい笑顔だ。


「まったくだ。女は他にもいるよな!」


颯爽とトラックに乗り込み、クラクションをひとつ鳴らしてから、猛暑の街へと走り出した。


「松山さん……」


広い広い海に旅して、彼は吹っ切ったのだ。


手の中にある、小さな袋をそっと開けた。

突き抜けるような真夏の青空、どこまでも続く青い海。それを映しこんだように煌く、宝石みたいなストラップに、私は嬉しくて頬を寄せた。 
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