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藤谷 郁

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素描

8

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「何やってるんだ。早く乗りなよ」

「ひゃっ」


いつの間にか松山さんが後ろに来ていた。ユニフォームから私服に着替え、ぼさぼさだった髪もきれいに梳かしてある。

私はどうすればいいのか迷ったまま、彼に鍵を渡そうとした。金属製のホルダーがカチカチと音を立てる。私の指先は震えていた。

受け取る松山さんの手が、ふと止まった。


「星野さん」


真面目な声に、そっと顔を上げた。

彼の眼差しが直線的に、私の隠しようのない不安を捉えてきた。


「俺、女に不自由してないから」

「……」


真面目な口ぶりと顔つきに、私は何も言えず、ただひたすらに恥ずかしく、松山さんが運転するセダンの後部席で大人しくした。

彼を疑ったこと。そして、彼に襲われるのではないかという自惚れた不安を、見透かされたのだ。

無言で走る車内で、私は固まる。



「着いたよ」

「ど、どうもありがとう」


配送センターから自宅まで、あっという間だ。

私は車を降りるとドアを閉め、運転席の松山さんを覗き込む。上手く伝えられそうにないが、言い訳したい気持ちでいっぱいだ。

そして、謝りたかった。

松山さんは窓を下げると、何も言えずうろうろするばかりの私をちらりと見上げる。


「無事、送り届けました」

「あ……」


冗談めかした言い方に、緊張が緩む。不器用な私に気を使わせないよう、自らおどけたのだ。


「松山さん」


彼は前を向いたまま、いつも通りの笑顔になった。温かな微笑みと大らかな心に、私は今夜も癒される。


「土曜日、楽しみにしてる」

「わ、私も!」


松山さんは頷くと、片手を上げてから走り去った。

車が角を曲がるまで見送った後、私は門扉に手をかけてから、もう一度振り返る。

そこには、静かな夜と住宅街があるのみ。

なのに、どうして振り返ったのか、自分でも分からなかった。






金曜日。

松山さんが貨物の配達に現れた。


「受け取りお願いします」


彼の声に、私はパソコンの前から立ちかけたが、横から伸びた手がそれを制す。小橋さんだった。


「え、あの」

「いいから、任せて」


戸惑う私に早口で言うと、さっさと受領印を片手にカウンターに向かった。受領印はいつも課長の引き出しに入れてあるはずだが、彼女は前もって用意しておいたらしい。

私は首を傾げつつも椅子に座り、入力作業を続けた。


「こんにちは、松山さん。お疲れ様です~」

「どうも」

「今日は倉庫ですね。今、鍵を開けますからね~」


松山さんに応対する小橋さんの声が、どうしてか耳に絡みついた。

重量を感じさせる足音と、軽やかなパンプスの足音。ふたつの音がまざり合いながら、ドアの外に消えていく。

パソコンの画面に意識を集中させて、データ入力の作業を繰り返した。

小橋さんが私を止めたのはつまり、松山さんに関わっては駄目だという、同僚を守るための親切心だろう。そもそも誤解なのだが、それはありがたいと思わなきゃいけない。

でも……

集中が途切れ、キーをタッチする手を止めた。

何だか妙な気分だった。まるで、小橋さんに役割を取られてしまったような?


「まさかそんな、バカげてる」


子供じみた考えを打ち消し、仕事に意識を戻した。



「小橋さんはどこ!」


男性社員の大きな声が頭の上で響いた。

私の斜め後ろに小橋さんのデスクがある。これから外回りに出かける営業マンがその前に立ち、私や他の事務員を見回している。


「今、倉庫ですよぉ。さっき荷物が来たから、鍵を開けに行ったはずです」


他の事務員が眠たそうに教えた。そういえば、小橋さんがまだ戻っていない。カウンターで受け取りをしてから、既に20分は過ぎている。


「何やってんだよ。見積りと資料揃えておいてって言ったのに」


時計を見ながらいらいらした様子の社員は、事務所の出入り口へと大股に歩いた。

すると、ドアを開けようとしたところに小橋さんが戻って来る。


「あっ、スミマセ~ン」


鉢合わせた営業マンの顔を見て、すぐに仕事を思い出したようだ。彼女は急いでデスクに戻ると、資料のプリントアウトを始めた。

私は背中でプリンター音を聞きながら、どうしてこんなに入庫作業が遅かったのかと疑問に思った。たくさんの荷物だったとしても、松山さんなら10分ていどで終わらせるはずだ。


「はい、お待たせしました」

「もう、遅刻なんてしたら相手の心証悪くするんだから、気をつけてくれよ。早め早めに用意してくれないと」

「はあい」


ブツブツ言いながら出て行く営業マンを横目で見送り、小橋さんが肩をすくめる。その様子を何となく見ていた私は、こちらを向いた彼女と目が合ってしまった。


「どうかした?」

「えっ、いえ……別になんでも」

「そう」


彼女は唇の端を上げ、私にくるりと背を向けてすぐに仕事を始める。

私もパソコンの画面に顔を戻した。微かな違和感があった。もう一度、彼女の横顔をそっと窺う。

ぽってりとした唇が、長い髪の隙間からのぞいている。いつもより紅く、グロスもたっぷりと塗られていることに初めて気付いた。

この営業所は、貸しビルの二つのフロア、そして一階倉庫の一部を借りている。

男性は10名、女性は5名。社員は計15名。

最年長の女性社員は32歳の吉野さんで、次が29歳の小橋さん、そして次が28歳の私。

吉野さんは、小橋さんと一緒に松山さんのスケッチを冷やかした人だ。彼女は今年の秋に結婚が決まっている。結婚と同時に退職するとのことで「やっと重荷から解放される!」と、晴れ晴れと語っていた。

重荷と言うのは最年長者としての責任という意味だろう。吉野さんはリーダーとして、男女問わず皆から頼りにされている。残される私達としては、寂しい限りなのだが。

その吉野さんに、「お茶に付き合って」と、誘われた。ロッカールームで着替える私に、こっそりと耳打ちしたのだ。

彼女が私を誘うのは珍しい。特に週末の夜は、小橋さんと食事に行くのが彼女の恒例行事のはず。

私に特別な話でもあるのかなと、ちょっと緊張した。


吉野さんに連れられて、駅裏の小さな喫茶店に入った。お客もまばらな、地味で静かな店だ。


「奥に行こうか」


吉野さんは店内をきょろきょろと見回してから、隅のほうの席に私を誘導する。

人目をはばかるような態度は、いつもの彼女らしくない。


(何だか、密会してるみたい)


私は妙な心地になりながらも、吉野さんと向き合って座った。

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