先生

藤谷 郁

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告白

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松山さんは配送センターの前を通り過ぎ、私の家の横まで来てトラックをつけてくれた。


「あ、ありがとう」


ハンカチで鼻を押さえながら、私はお礼を言った。重かった心が少し救われたような気がして、彼の横顔を見上げた。

エンジンを切った松山さんは、眉をひょいと上げると、前を向いたまま「いや」と応えた。さっきかずっとぶっきら棒だが、冷たさは無く、かえって気を使っているように感じられる。

バッグを肩にトラックを降りようとすると、不意に腕を掴まれた。


「あっ」


思いがけない行為に私は驚き、声を上げてしまった。街灯に浮かび上がるシルエットは、大きな熊のようだ。


「これ、絵の具?」

「えっ」


彼の視線は、掴んだ腕の部分に落ちている。


「この赤いの。俺、最初血かと思ってびっくりしたけど、それにしては明るい赤だからさ」


私の白いブラウスについた染みのことを言っているのだ。ぎこちなく頷くと、彼は納得したようで、ぱっと腕を放した。


「ふうん……なるほどね」


シートに体を預け、じろじろと私を見回してきた。画材の入ったバッグにもチラリと目を当てる。


「あの人か」


口元に笑みを浮かべた。


「さっき、最後の荷物を届けた場所、SHIMAアートスクールってとこだった」


私はビクッとした。松山さんの言わんとしていることを悟り、体を強張らせた。


「この前の寝言の相手、あの人だったのか」

「な……」


全身が、かっと熱くなった。同時に、今それを言う松山さんを、無神経で、いやらしい、酷い男だと軽蔑し、ここまで送ってもらった恩も忘れ、思わず睨みつけていた。

だが彼は、どうってこともないように私の怒りを無視し、さらに続けた。


「いい男だよな。だいぶ年上みたいだけど」

「……」


私は顔を背け、ドアを開けようとした。惨め過ぎて、これ以上何も言われたくなかった。一刻も早く、家の中に駆け込みたい。


「元気なかったぜ、あの人」


早口で継がれた言葉に、ノブにかけた手を止める。

でも、振り向くこともできず、私はそのまま固まっている。

それは、どういう意味なのか。

松山さんの落ち着いた口調が教えてくれた。


「あの人、荷物受け取る時はいつも明るく対応してくれるんだ。それがさっきは、どっか具合でも悪いみたいに、元気がなかった」


私はゆっくりと振り向き、松山さんを見た。口元の笑みは消して、真面目な眼差しになっていた。


「好きな女を泣かせちまった時、あんな顔するよな、男って」


彼は車を降りると、助手席側にまわりこんでドアを開けた。


「どうぞ」


呆けている私の手を取ると、半ば引っ張るようにして地面に降ろした。体がふわりと浮いた感覚になり、改めてすごい力だと思った。


「星野さんって、俺より二つ上みたいだけど、どうしてもそうは思えねえ」


ドアを閉めて、彼は笑った。


「男心がまるで分かっちゃいない」


私を見下ろす目には、仕事上の相手に対する遠慮は無く、個人同士の、もっと言えば、男が女を見るような率直さがあった。口の利き方もぞんざいで、いつもの彼ではなかった。

私は視線を逸らした。何もかも、見透かされているような気がする。

松山さんはクスッと笑うと、私の頭を軽く撫ぜた。まるで年下扱いである。

我ながら情けなかったが、大きくて温かな手の平に、守られたような安心感を抱いた。本当に、自分が二つも年上とは思えない。彼のほうがずっと大人に感じられて、ずっと頼もしい。熊のように大きな体に凭れたくなってしまう。そんな頼もしさが……

私の体は無意識に揺れた。きっと揺れたのだろう。

松山さんはその揺れを察したように、ズボンのポケットに両手を突っ込むとさっと離れた。

そして、まるでいたずらっ子のように、からかうような調子でこう言ったのだ。


「あんな色っぽい声、俺だけが聞きたかったんだけど、しょうがねえな!」


私は顔を上げた。

年下の、26歳らしくなった松山さんが、スケベ面で笑っていた。


「もう!」


また寝言の話を持ち出され、私はゲンコツを振り上げたが、ひらりとかわされた。松山さんはトラックの向こうに回ると、運転席に素早く乗り込んだ。

エンジンをかけると窓を開け、同じように回り込んで窓下に立った私を悠々と見下ろす。


「男はさ、いろいろあるんだよ。それに、追いかける生きもんだからな。知らん顔してりゃいい。それである時ぱっと見てみろよ。目が合うから」

「……?」

「おやすみ」


謎掛けのような言葉を残し、松山さんのトラックは住宅街を去って行った。

後に残った静けさが少し寂しくて、それでも私の涙はすっかり乾き、男らしい優しさに慰められ、心はほんわりと温もっていた。

私は上を向いて、家に入ることができた。 



築20年になる二階建て住宅で、私は両親と同居している。

父親は隣町にある菓子メーカーの工場に勤め、母親は近くのスーパーでパートで働いている。

年子の妹が一人いるのだが、彼女は高校を出たあと東京の大学に進学し、そのまま向こうで就職した。今では長期の休みに帰って来る時、顔を合わせるのみ。姉妹仲は悪くないので、時折メール交換などで連絡を取り、近況を報告し合っている。

妹のほうが勉強でもスポーツでも、何においても優秀で、性格もしっかりしている。どちらが姉だか分からないと周囲から言われたりする。

ただ、国語と美術の成績だけは、こちらが上回ることが度々あり、またその二科目だけは特に勉強しなくてもある程度結果を出せる、内申のお助け科目だった。


「いいじゃないの。それぞれいいとこあるから」


母親は慰め半分だろうが、常にそう言っては私に微笑みかけた。父親のほうは、のん気が過ぎると時々説教をくれたが、それでもあまりくどくは言わなかった。

口答えもせず、ただ頷いている私に、何を言っても無駄だと諦めたのかもしれない。



「ただいま」

今夜は居間に顔を出さず、ドアの前を通り過ぎようとした。

しかし、玄関を上がってすぐ横にある居間へのドアは開け放されて、テレビのニュース番組の音が大きく聞こえている。中を覗くと、父母が風呂上りのお茶を飲んでいるところだった。


「おかえり。遅かったね」


母親がテレビの画面に目を当てたまま、普通に声を返した。

私は涙も乾き、声も震えていなかったので、何も気取られずに済んだ。28歳の大の大人とはいえ、娘が涙声だったら、いろいろと心配するだろう。

自室に荷物を置いて部屋着に着替え、台所で夕飯を温めて食べてから、風呂に入った。

高校を出て就職してから何も変わらない私の生活パターン。

25歳の頃、ふと家を出ようかと考え両親に言ってみたが、即座に反対された。


『アパート代がもったいない』

『お前のようなタイプは同居のほうがいい』


後者についてはどういう意味か分からなかったが、それでその話は終わった。

体を洗いながら、松山さんに言われたことを思い出す。年上とは思えないというあの言葉だ。

確かにそうかもしれない。先生のことも……

タイルに貼り付けてある鏡を眺めた。大人の顔、大人の体をしている私。

だけど、あまりに幼い告白だったかもしれないと、今思う。自分勝手に、都合よく先生の言動を解釈して、気持ちをぶつけてしまった。


――いろいろあるんだよ。


松山さんが言っていた。

そうだ、先生は『先生』だった。絵画教室の先生という立場がある。私は教室の受講生なのだ。


――絵に集中しましょう。


それは、先生の師としての分別と、誠実さそのものの言葉だった。そんな先生だから、私は尊敬をし、好きになりもしたのだ。

シャンプーの泡をシャワーで流しながら、私は考えた。

だけど、やはり失った色彩が涙となり零れてゆく。先生に受け止めてもらいたかった。私を見つめて、優しく抱いてほしかった。

タオルで強く顔を拭き、もう一度鏡を見た。松山さんに乾かしてもらったはずの涙が、シャワーに誘い水されたように溢れている。


「甘ったれの、駄目人間」


私はひとり呟き、しばらく風呂から出ることが出来なかった。
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