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告白
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教室が終了した。
私はいつものように先生に見送られ、ビルの外に出た。アーケードの商店街はほとんどシャッターが閉められており、もう30分もすれば、静かな通りになる。
そう、30分後には、どうなっているのだろう。
私は萎えかけている告白の決意を、何とか励ましながら、ビルの脇にある自動販売機に隠れて立っている。次々に帰っていく教室の人達に見つからないよう、息を潜めて。
勘の良い市田さんが出てきた時は少し緊張した。どきどきして、眩暈がしそうだった。
もう、帰ってしまいたい。
私は何度も挫けそうになり、すぐにまた思い直す。帰るのは、諦めるのは簡単だ。
でも、もう嫌だ。このままずっと、何もせずにあの人を見ているだけなんて。
私は自分でブラウスの肩に手をやる。いつも着ている白のブラウス。袖に絵の具がついている。水彩の練習をしている時に付いた、鮮やかな赤い絵の具。
私はバッグからポーチを出すと、小さな鏡を取り、唇を確かめた。もう少し濃い口紅にすればよかった。薄いピンクが野暮に見えて、私は心だけではなく、体の準備も出来ていないのだと気付き、またしても挫けそうになる。
最後の一人が出て行った。絵画教室の生徒をこれで全て見送った。間違いなく、先生は今、教室に一人でいる。
一人きりでいる。
私はもう、何も考えなかった。唇の色も忘れ、もう一度出てきたビルに入り直し、階段を上がった。
SHIMAアートスクールのドアの前に立った。
どうしよう どうしよう。
頭のどこかでそんな言葉が渦を巻いているが、手はドアの取っ手を掴み、引っ張っていた。
告白するんだ。
ガタンと音がして、私は抵抗にあった。鍵がかかっている。
「あっ」
反射的に、ぱっと手を離した。
ふっと、緊張の糸が緩んだその時、内側で開錠する音が聞こえ、ドアが大きく開いた。
溢れる光とともに、島先生が現れた。
「あれ、どうしました」
作業着を脱ぎ、綿シャツ姿になっている先生が一瞬別の人に見えて、私は言葉がすぐに出てこなかった。
「忘れ物ですか?」
にこっと笑うと、教室に入るよう体を寄せてくれた。
「え、えっと……」
「どうぞどうぞ。めずらしいですね、忘れ物なんて」
忘れ物。そうだ、忘れ物といえば忘れ物かもしれない。言い忘れていること。もう、ずっと、3ヶ月の間。
先生は教室に私を入れると、そのまま湯沸し室に移動した。コーヒーの香りが漂っている。
「星野さんもいかがです」
思わぬ声が聞こえた。
「あ、いえ、私は……」
「急ぎますか? 折角ですから、一杯どうぞ」
私は、コーヒーを飲みながら告白できるだろうかと一瞬考えたが、考えがまとまらずに、「すみません、いただきます」と、答えていた。
先生の淹れたコーヒーを飲むのは二回目だった。最初は見学に来たあの日。ひと目で好きになった、あの日。
「インスタントですが、頑張った後の一杯は美味しいですよ」
私はこくこくと頷き、カップに唇を寄せた。ひと口含んだ。緊張して乾いた喉に温かな味わいが心地良く、本当に、美味しいと思った。
先生はにこやかに私を見ている。どうしてこんなに嬉しそうに微笑むのだろう。
胸が苦しくなってきた。期待が膨らみすぎて、破裂しそうになっている。
私はとにかく全部飲み終えてからと思い、自分を抑えた。
「どうですか、教室は」
先生が足を組んでリラックスした体勢で、私に訊ねる。こんなくつろいだ姿は普段は見られない。どきどきしながら私は答えた。
「はい、とても楽しいです」
心からそう思っている。
「それは何より」
もっと嬉しそうな顔になった。思わず目を細めそうになるくらいの、眩しい笑顔。
グリーンチェックの綿シャツにデニムパンツ。今日は随分と若々しい恰好で、実際に若く見えた。意外に体格もしっかりしているのだと私は観察し、胸や腰の辺りに目線を往復させていた。
我ながら恥ずかしく、スケベだと思った。
「ところで、星野さん」
空のカップをトレーにのせると、先生はあらたまった調子で私に訊いた。
「前に言っていた迷ってること……解決しそうですか」
赤ワインの瓶をデッサンした時の話だ。憶えていてくれたのかと、私は頬が熱くなる。
「いえ……」
これから解決しようと、ここに来ました――
胸のうちで呟いた。
「僕ではやはり、無理ですか」
私は顔を上げた。先生は真っ直ぐにこちらを見ている。きれいな瞳で、真面目な顔で、大好きな先生が。
「私……」
「うん」
「私、好きな人がいるんです」
「……」
刹那、先生の瞳が揺らいだ気がした。
しかし、すぐにそれは消え、彼は何度か瞬きをしてから、窓のほうへ視線を逸らした。アーケードの照明がまだ点いており、先生の目にはそれらが星のように映っている。
「恋の悩み……か」
そう言いながら、こちらに向き直った。私はひと息に告げた。
「私、先生が好きです」
私はいつものように先生に見送られ、ビルの外に出た。アーケードの商店街はほとんどシャッターが閉められており、もう30分もすれば、静かな通りになる。
そう、30分後には、どうなっているのだろう。
私は萎えかけている告白の決意を、何とか励ましながら、ビルの脇にある自動販売機に隠れて立っている。次々に帰っていく教室の人達に見つからないよう、息を潜めて。
勘の良い市田さんが出てきた時は少し緊張した。どきどきして、眩暈がしそうだった。
もう、帰ってしまいたい。
私は何度も挫けそうになり、すぐにまた思い直す。帰るのは、諦めるのは簡単だ。
でも、もう嫌だ。このままずっと、何もせずにあの人を見ているだけなんて。
私は自分でブラウスの肩に手をやる。いつも着ている白のブラウス。袖に絵の具がついている。水彩の練習をしている時に付いた、鮮やかな赤い絵の具。
私はバッグからポーチを出すと、小さな鏡を取り、唇を確かめた。もう少し濃い口紅にすればよかった。薄いピンクが野暮に見えて、私は心だけではなく、体の準備も出来ていないのだと気付き、またしても挫けそうになる。
最後の一人が出て行った。絵画教室の生徒をこれで全て見送った。間違いなく、先生は今、教室に一人でいる。
一人きりでいる。
私はもう、何も考えなかった。唇の色も忘れ、もう一度出てきたビルに入り直し、階段を上がった。
SHIMAアートスクールのドアの前に立った。
どうしよう どうしよう。
頭のどこかでそんな言葉が渦を巻いているが、手はドアの取っ手を掴み、引っ張っていた。
告白するんだ。
ガタンと音がして、私は抵抗にあった。鍵がかかっている。
「あっ」
反射的に、ぱっと手を離した。
ふっと、緊張の糸が緩んだその時、内側で開錠する音が聞こえ、ドアが大きく開いた。
溢れる光とともに、島先生が現れた。
「あれ、どうしました」
作業着を脱ぎ、綿シャツ姿になっている先生が一瞬別の人に見えて、私は言葉がすぐに出てこなかった。
「忘れ物ですか?」
にこっと笑うと、教室に入るよう体を寄せてくれた。
「え、えっと……」
「どうぞどうぞ。めずらしいですね、忘れ物なんて」
忘れ物。そうだ、忘れ物といえば忘れ物かもしれない。言い忘れていること。もう、ずっと、3ヶ月の間。
先生は教室に私を入れると、そのまま湯沸し室に移動した。コーヒーの香りが漂っている。
「星野さんもいかがです」
思わぬ声が聞こえた。
「あ、いえ、私は……」
「急ぎますか? 折角ですから、一杯どうぞ」
私は、コーヒーを飲みながら告白できるだろうかと一瞬考えたが、考えがまとまらずに、「すみません、いただきます」と、答えていた。
先生の淹れたコーヒーを飲むのは二回目だった。最初は見学に来たあの日。ひと目で好きになった、あの日。
「インスタントですが、頑張った後の一杯は美味しいですよ」
私はこくこくと頷き、カップに唇を寄せた。ひと口含んだ。緊張して乾いた喉に温かな味わいが心地良く、本当に、美味しいと思った。
先生はにこやかに私を見ている。どうしてこんなに嬉しそうに微笑むのだろう。
胸が苦しくなってきた。期待が膨らみすぎて、破裂しそうになっている。
私はとにかく全部飲み終えてからと思い、自分を抑えた。
「どうですか、教室は」
先生が足を組んでリラックスした体勢で、私に訊ねる。こんなくつろいだ姿は普段は見られない。どきどきしながら私は答えた。
「はい、とても楽しいです」
心からそう思っている。
「それは何より」
もっと嬉しそうな顔になった。思わず目を細めそうになるくらいの、眩しい笑顔。
グリーンチェックの綿シャツにデニムパンツ。今日は随分と若々しい恰好で、実際に若く見えた。意外に体格もしっかりしているのだと私は観察し、胸や腰の辺りに目線を往復させていた。
我ながら恥ずかしく、スケベだと思った。
「ところで、星野さん」
空のカップをトレーにのせると、先生はあらたまった調子で私に訊いた。
「前に言っていた迷ってること……解決しそうですか」
赤ワインの瓶をデッサンした時の話だ。憶えていてくれたのかと、私は頬が熱くなる。
「いえ……」
これから解決しようと、ここに来ました――
胸のうちで呟いた。
「僕ではやはり、無理ですか」
私は顔を上げた。先生は真っ直ぐにこちらを見ている。きれいな瞳で、真面目な顔で、大好きな先生が。
「私……」
「うん」
「私、好きな人がいるんです」
「……」
刹那、先生の瞳が揺らいだ気がした。
しかし、すぐにそれは消え、彼は何度か瞬きをしてから、窓のほうへ視線を逸らした。アーケードの照明がまだ点いており、先生の目にはそれらが星のように映っている。
「恋の悩み……か」
そう言いながら、こちらに向き直った。私はひと息に告げた。
「私、先生が好きです」
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