東野君の特別

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
46 / 80

しおりを挟む
 壁際に押しやった布団にもたれ、楽な姿勢で東野君の言葉を待った。昨日の今日なのに電話してくるなんて、何かあったのだろうか。
 それとも、もしかしたら心配して……
 何を言われても自然に受け答えができるよう、全神経を耳に集中させる。
 心配させちゃいけない、絶対に。

「ひょっとしたら、まだ寝てるかな……と、思ったんだけど」
 遠慮がちに言われて、私はひとり顔を振る。
「7時半ごろ起きたの。雷が鳴ってたから、目が覚めちゃって」
 瞼を開いて、窓の外を見上げた。快晴の空は昨日と同じように、青く爽やかに広がっている。本当に、今朝方の雷雨が嘘みたいだ。
「そうだな、すごい音だった」
「うん」
「えっと……」

 東野君の後ろからは、何も聞こえない。彼にも、こちらの音は聞こえないだろう。自分達だけの静かな部屋にいるみたいに、二人きりの世界だと思った。
 話し方も穏やかで、いつもどおりの東野君。
 だけど、こうして耳を澄ましていると、静かすぎる気配から微かな緊張感が伝わってくる。
 やはり、彼も意識しているのだろうか。
「あのさ」
「えっ」
「4日の水曜日なんだけど」
「よっかの、すいようび?」
「うん」

(何かあったかな?)
 起き上がり、カレンダーで4日を確認したが空欄になっている。
 今日は2日だから、明後日の話である。
 少し間を空けたあと、東野君は続けた。
「県立図書館に資料を探しに行くから、佐奈も見学がてらどうかなと思って」
「資料……あ、勉強の?」
 電話の用件が明らかになり、すっと緊張が解けた。一体何を心配して身構えたのか、自分でもよく分からない脱力だった。

「そう、勉強。大学の図書館とは蔵書も違うし、行ってみないか」
 県立図書館は未だ行ったことがない。
 大学の図書館には暇を見つけてはせっせと通い、文学の棚を中心にチェックしているが、借りたい本が見つからない時もある。そんな場合は公立の図書館を利用してみようかと考えていた。
 以前、東野君にもそう話した気がするので、憶えていてくれたのだ。

「どうかな」
「う……ん」
 東野君の誘いを耳に受けながら、カレンダーの空白をじっと見つめる。
 何も予定は無い。
 行きたいと、頭では答えが出ている。
 4日の水曜日――
 5日木曜日は真里ちゃんが帰ってくると、メモがしてある。真里ちゃんが帰る日は、出かけずにいるつもりだ。

「佐奈?」
「あっ、はい」
 いつの間にか考え込んでしまった。
「用事があるなら無理しなくてもいい。図書館くらい、いつでも行けるんだから」
 ずきりと、胸が痛んだ。
 無理だなんて。
 無理じゃないのに、そう取られても仕方のない反応をする自分に、まるで昨夜の続きじゃないのと、唇を噛みしめる。

 窓から明るい光が差し込み、立ち竦む私の足元を白く照らし始めた。
 あの空のように、嘘みたいにカラッと快晴になれたなら。

「誰かと約束してる?」
 思わぬ質問が投げかけられた一瞬、ある不安を認めた。
 行くのか行かないのか、迷う理由を明らかにしようとする具体的な質問だから、そうなったのかもしれない。
 自分が迷っているのはなぜなのか。

 誰とも約束なんてしていない。
 用事なんて無い。
 だったら、どうして迷うの?
 
 急いで認めざるを得なかった。

 図書館で勉強をして、それから、きっと二人はどこかで食事をして、それで終わりになるわけもなく、どこかに誘われるかもしれない。そうしたら、私は必ずついて行くだろう。
 大好きな東野君だから、嫌われたくないから、導かれるままに……

 まるで膨らみすぎた妄想であるその予測は、今の私には現実的な不安だった。
「ごめんなさい、私」
 声が小さく、暗くなった。後ろめたくて、そして不安だから。
「その日は、従姉妹の真里ちゃんが東京から帰ってくるから、家にいなくちゃ」
 5日の予定を見つめながら、自分を責めながら、それでもそんなことを口にしていた。頭と心と体が、一致しないままに。

「真里……って、ああ、香川さんの娘さん」
「うん」
「そうか、東京の大学に行ってるんだっけ」
 東野君は、なぜか明るい口調になって納得していた。
「そうか、なんだ、早く言えばいいのに」
「ごめんなさい」
 急に陽気になった彼に、なおさら縮こまる。信じてくれる彼に、罪悪感でいたたまれなくなる。

「謝ることないだろ。そうか、真里さんなら知ってるよ。学区は違うけど同じ学年だし、子供の頃は近所の公園で遊んだりしたなあ」
「そうなの」
 そういえば真里ちゃんも大学3年生で、東野君と同じ年齢だった。叔母とともに東野珈琲店の常連として、顔見知りでもあったのだ。
「わかった、それなら仕方ないね。いいよ、図書館は今回は一人で行ってくる」

 温度が上がってきた部屋の中で、私の背中には生ぬるい汗が伝っている。雨上がりの空みたいに明るく爽快な東野君に比べて、私はいつまでもじめじめと湿ったまま。

 嘘です。今のは、意気地なしの私の、つまらない嘘なんです。
 一緒に行きたいんです、図書館に。
 東野君と一緒に。

 喉元まで出かかる告白を塞いだのは、他の誰でもない彼だった。
「真里さんが帰ってきたら、香川さんと三人で店に来なよ。週末のモーニングはたいてい手伝ってるから」
「う、うん」
 嬉しそうな彼の、心からの思いやり。温かい優しさに、何も言えなくなってしまった。
 どうして不安になんてなるのだろう、この人に。

 それから東野君は、今日は大学で公開講座の手伝いをすることや、午後からはアルバイトの面接に出かけることも教えてくれた。
 いつもと変わらぬ調子でスケジュールを聞かせてくれる彼の気配には、微かに感じた緊張などどこにも見当たらず、すっかりリラックスしている。
 私は前言を撤回するタイミングを掴めず、ご機嫌な彼の話にひたすら相槌を打っていた。


「おっ、そろそろ出ないと。じゃあ、もう切るから」
「あ、うん」
 大学に出かける準備をしているのかガサゴソと音がしている。ぎりぎりまで私と話してくれたのだと分かり、嬉しくて、そのぶん落ち込んだ。

「そうだ、佐奈。一応確認するけど、7日は大丈夫だよな」
 カレンダーを見るまでもなく頭に入っている。一緒に立てた夏休みの計画が楽しみで、わくわくしていたあの日の私。
「7日は、映画と買い物です」
「よし、OK」
 すぐに答えることが出来た私に満足そうな声になり、笑った。

 いつだって東野君は優しくて、私のことを想ってくれる。そのたびに温かくなる私の心、この心を信じればいいはずだった。
 それなのに……

 布団にもたれ、通話の切れた携帯電話を未練がましく握りしめる。

 この海峡を、あなたと越えたい。どんなに難しくても、ここを越えなければ、大人にはなれない。でも、無理をされたら、どうなってしまうのだろう。
「もう少し、時間をください」
 情けなく意気地なく、呟くしかなかった。
 

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~

tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!! 壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは??? 一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

初めてなら、本気で喘がせてあげる

ヘロディア
恋愛
美しい彼女の初めてを奪うことになった主人公。 初めての体験に喘いでいく彼女をみて興奮が抑えられず…

壁の薄いアパートで、隣の部屋から喘ぎ声がする

サドラ
恋愛
最近付き合い始めた彼女とアパートにいる主人公。しかし、隣の部屋からの喘ぎ声が壁が薄いせいで聞こえてくる。そのせいで欲情が刺激された両者はー

JC💋フェラ

山葵あいす
恋愛
森野 稚菜(もりの わかな)は、中学2年生になる14歳の女の子だ。家では姉夫婦が一緒に暮らしており、稚菜に甘い義兄の真雄(まさお)は、いつも彼女におねだりされるままお小遣いを渡していたのだが……

処理中です...