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嘘
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壁際に押しやった布団にもたれ、楽な姿勢で東野君の言葉を待った。昨日の今日なのに電話してくるなんて、何かあったのだろうか。
それとも、もしかしたら心配して……
何を言われても自然に受け答えができるよう、全神経を耳に集中させる。
心配させちゃいけない、絶対に。
「ひょっとしたら、まだ寝てるかな……と、思ったんだけど」
遠慮がちに言われて、私はひとり顔を振る。
「7時半ごろ起きたの。雷が鳴ってたから、目が覚めちゃって」
瞼を開いて、窓の外を見上げた。快晴の空は昨日と同じように、青く爽やかに広がっている。本当に、今朝方の雷雨が嘘みたいだ。
「そうだな、すごい音だった」
「うん」
「えっと……」
東野君の後ろからは、何も聞こえない。彼にも、こちらの音は聞こえないだろう。自分達だけの静かな部屋にいるみたいに、二人きりの世界だと思った。
話し方も穏やかで、いつもどおりの東野君。
だけど、こうして耳を澄ましていると、静かすぎる気配から微かな緊張感が伝わってくる。
やはり、彼も意識しているのだろうか。
「あのさ」
「えっ」
「4日の水曜日なんだけど」
「よっかの、すいようび?」
「うん」
(何かあったかな?)
起き上がり、カレンダーで4日を確認したが空欄になっている。
今日は2日だから、明後日の話である。
少し間を空けたあと、東野君は続けた。
「県立図書館に資料を探しに行くから、佐奈も見学がてらどうかなと思って」
「資料……あ、勉強の?」
電話の用件が明らかになり、すっと緊張が解けた。一体何を心配して身構えたのか、自分でもよく分からない脱力だった。
「そう、勉強。大学の図書館とは蔵書も違うし、行ってみないか」
県立図書館は未だ行ったことがない。
大学の図書館には暇を見つけてはせっせと通い、文学の棚を中心にチェックしているが、借りたい本が見つからない時もある。そんな場合は公立の図書館を利用してみようかと考えていた。
以前、東野君にもそう話した気がするので、憶えていてくれたのだ。
「どうかな」
「う……ん」
東野君の誘いを耳に受けながら、カレンダーの空白をじっと見つめる。
何も予定は無い。
行きたいと、頭では答えが出ている。
4日の水曜日――
5日木曜日は真里ちゃんが帰ってくると、メモがしてある。真里ちゃんが帰る日は、出かけずにいるつもりだ。
「佐奈?」
「あっ、はい」
いつの間にか考え込んでしまった。
「用事があるなら無理しなくてもいい。図書館くらい、いつでも行けるんだから」
ずきりと、胸が痛んだ。
無理だなんて。
無理じゃないのに、そう取られても仕方のない反応をする自分に、まるで昨夜の続きじゃないのと、唇を噛みしめる。
窓から明るい光が差し込み、立ち竦む私の足元を白く照らし始めた。
あの空のように、嘘みたいにカラッと快晴になれたなら。
「誰かと約束してる?」
思わぬ質問が投げかけられた一瞬、ある不安を認めた。
行くのか行かないのか、迷う理由を明らかにしようとする具体的な質問だから、そうなったのかもしれない。
自分が迷っているのはなぜなのか。
誰とも約束なんてしていない。
用事なんて無い。
だったら、どうして迷うの?
急いで認めざるを得なかった。
図書館で勉強をして、それから、きっと二人はどこかで食事をして、それで終わりになるわけもなく、どこかに誘われるかもしれない。そうしたら、私は必ずついて行くだろう。
大好きな東野君だから、嫌われたくないから、導かれるままに……
まるで膨らみすぎた妄想であるその予測は、今の私には現実的な不安だった。
「ごめんなさい、私」
声が小さく、暗くなった。後ろめたくて、そして不安だから。
「その日は、従姉妹の真里ちゃんが東京から帰ってくるから、家にいなくちゃ」
5日の予定を見つめながら、自分を責めながら、それでもそんなことを口にしていた。頭と心と体が、一致しないままに。
「真里……って、ああ、香川さんの娘さん」
「うん」
「そうか、東京の大学に行ってるんだっけ」
東野君は、なぜか明るい口調になって納得していた。
「そうか、なんだ、早く言えばいいのに」
「ごめんなさい」
急に陽気になった彼に、なおさら縮こまる。信じてくれる彼に、罪悪感でいたたまれなくなる。
「謝ることないだろ。そうか、真里さんなら知ってるよ。学区は違うけど同じ学年だし、子供の頃は近所の公園で遊んだりしたなあ」
「そうなの」
そういえば真里ちゃんも大学3年生で、東野君と同じ年齢だった。叔母とともに東野珈琲店の常連として、顔見知りでもあったのだ。
「わかった、それなら仕方ないね。いいよ、図書館は今回は一人で行ってくる」
温度が上がってきた部屋の中で、私の背中には生ぬるい汗が伝っている。雨上がりの空みたいに明るく爽快な東野君に比べて、私はいつまでもじめじめと湿ったまま。
嘘です。今のは、意気地なしの私の、つまらない嘘なんです。
一緒に行きたいんです、図書館に。
東野君と一緒に。
喉元まで出かかる告白を塞いだのは、他の誰でもない彼だった。
「真里さんが帰ってきたら、香川さんと三人で店に来なよ。週末のモーニングはたいてい手伝ってるから」
「う、うん」
嬉しそうな彼の、心からの思いやり。温かい優しさに、何も言えなくなってしまった。
どうして不安になんてなるのだろう、この人に。
それから東野君は、今日は大学で公開講座の手伝いをすることや、午後からはアルバイトの面接に出かけることも教えてくれた。
いつもと変わらぬ調子でスケジュールを聞かせてくれる彼の気配には、微かに感じた緊張などどこにも見当たらず、すっかりリラックスしている。
私は前言を撤回するタイミングを掴めず、ご機嫌な彼の話にひたすら相槌を打っていた。
「おっ、そろそろ出ないと。じゃあ、もう切るから」
「あ、うん」
大学に出かける準備をしているのかガサゴソと音がしている。ぎりぎりまで私と話してくれたのだと分かり、嬉しくて、そのぶん落ち込んだ。
「そうだ、佐奈。一応確認するけど、7日は大丈夫だよな」
カレンダーを見るまでもなく頭に入っている。一緒に立てた夏休みの計画が楽しみで、わくわくしていたあの日の私。
「7日は、映画と買い物です」
「よし、OK」
すぐに答えることが出来た私に満足そうな声になり、笑った。
いつだって東野君は優しくて、私のことを想ってくれる。そのたびに温かくなる私の心、この心を信じればいいはずだった。
それなのに……
布団にもたれ、通話の切れた携帯電話を未練がましく握りしめる。
この海峡を、あなたと越えたい。どんなに難しくても、ここを越えなければ、大人にはなれない。でも、無理をされたら、どうなってしまうのだろう。
「もう少し、時間をください」
情けなく意気地なく、呟くしかなかった。
それとも、もしかしたら心配して……
何を言われても自然に受け答えができるよう、全神経を耳に集中させる。
心配させちゃいけない、絶対に。
「ひょっとしたら、まだ寝てるかな……と、思ったんだけど」
遠慮がちに言われて、私はひとり顔を振る。
「7時半ごろ起きたの。雷が鳴ってたから、目が覚めちゃって」
瞼を開いて、窓の外を見上げた。快晴の空は昨日と同じように、青く爽やかに広がっている。本当に、今朝方の雷雨が嘘みたいだ。
「そうだな、すごい音だった」
「うん」
「えっと……」
東野君の後ろからは、何も聞こえない。彼にも、こちらの音は聞こえないだろう。自分達だけの静かな部屋にいるみたいに、二人きりの世界だと思った。
話し方も穏やかで、いつもどおりの東野君。
だけど、こうして耳を澄ましていると、静かすぎる気配から微かな緊張感が伝わってくる。
やはり、彼も意識しているのだろうか。
「あのさ」
「えっ」
「4日の水曜日なんだけど」
「よっかの、すいようび?」
「うん」
(何かあったかな?)
起き上がり、カレンダーで4日を確認したが空欄になっている。
今日は2日だから、明後日の話である。
少し間を空けたあと、東野君は続けた。
「県立図書館に資料を探しに行くから、佐奈も見学がてらどうかなと思って」
「資料……あ、勉強の?」
電話の用件が明らかになり、すっと緊張が解けた。一体何を心配して身構えたのか、自分でもよく分からない脱力だった。
「そう、勉強。大学の図書館とは蔵書も違うし、行ってみないか」
県立図書館は未だ行ったことがない。
大学の図書館には暇を見つけてはせっせと通い、文学の棚を中心にチェックしているが、借りたい本が見つからない時もある。そんな場合は公立の図書館を利用してみようかと考えていた。
以前、東野君にもそう話した気がするので、憶えていてくれたのだ。
「どうかな」
「う……ん」
東野君の誘いを耳に受けながら、カレンダーの空白をじっと見つめる。
何も予定は無い。
行きたいと、頭では答えが出ている。
4日の水曜日――
5日木曜日は真里ちゃんが帰ってくると、メモがしてある。真里ちゃんが帰る日は、出かけずにいるつもりだ。
「佐奈?」
「あっ、はい」
いつの間にか考え込んでしまった。
「用事があるなら無理しなくてもいい。図書館くらい、いつでも行けるんだから」
ずきりと、胸が痛んだ。
無理だなんて。
無理じゃないのに、そう取られても仕方のない反応をする自分に、まるで昨夜の続きじゃないのと、唇を噛みしめる。
窓から明るい光が差し込み、立ち竦む私の足元を白く照らし始めた。
あの空のように、嘘みたいにカラッと快晴になれたなら。
「誰かと約束してる?」
思わぬ質問が投げかけられた一瞬、ある不安を認めた。
行くのか行かないのか、迷う理由を明らかにしようとする具体的な質問だから、そうなったのかもしれない。
自分が迷っているのはなぜなのか。
誰とも約束なんてしていない。
用事なんて無い。
だったら、どうして迷うの?
急いで認めざるを得なかった。
図書館で勉強をして、それから、きっと二人はどこかで食事をして、それで終わりになるわけもなく、どこかに誘われるかもしれない。そうしたら、私は必ずついて行くだろう。
大好きな東野君だから、嫌われたくないから、導かれるままに……
まるで膨らみすぎた妄想であるその予測は、今の私には現実的な不安だった。
「ごめんなさい、私」
声が小さく、暗くなった。後ろめたくて、そして不安だから。
「その日は、従姉妹の真里ちゃんが東京から帰ってくるから、家にいなくちゃ」
5日の予定を見つめながら、自分を責めながら、それでもそんなことを口にしていた。頭と心と体が、一致しないままに。
「真里……って、ああ、香川さんの娘さん」
「うん」
「そうか、東京の大学に行ってるんだっけ」
東野君は、なぜか明るい口調になって納得していた。
「そうか、なんだ、早く言えばいいのに」
「ごめんなさい」
急に陽気になった彼に、なおさら縮こまる。信じてくれる彼に、罪悪感でいたたまれなくなる。
「謝ることないだろ。そうか、真里さんなら知ってるよ。学区は違うけど同じ学年だし、子供の頃は近所の公園で遊んだりしたなあ」
「そうなの」
そういえば真里ちゃんも大学3年生で、東野君と同じ年齢だった。叔母とともに東野珈琲店の常連として、顔見知りでもあったのだ。
「わかった、それなら仕方ないね。いいよ、図書館は今回は一人で行ってくる」
温度が上がってきた部屋の中で、私の背中には生ぬるい汗が伝っている。雨上がりの空みたいに明るく爽快な東野君に比べて、私はいつまでもじめじめと湿ったまま。
嘘です。今のは、意気地なしの私の、つまらない嘘なんです。
一緒に行きたいんです、図書館に。
東野君と一緒に。
喉元まで出かかる告白を塞いだのは、他の誰でもない彼だった。
「真里さんが帰ってきたら、香川さんと三人で店に来なよ。週末のモーニングはたいてい手伝ってるから」
「う、うん」
嬉しそうな彼の、心からの思いやり。温かい優しさに、何も言えなくなってしまった。
どうして不安になんてなるのだろう、この人に。
それから東野君は、今日は大学で公開講座の手伝いをすることや、午後からはアルバイトの面接に出かけることも教えてくれた。
いつもと変わらぬ調子でスケジュールを聞かせてくれる彼の気配には、微かに感じた緊張などどこにも見当たらず、すっかりリラックスしている。
私は前言を撤回するタイミングを掴めず、ご機嫌な彼の話にひたすら相槌を打っていた。
「おっ、そろそろ出ないと。じゃあ、もう切るから」
「あ、うん」
大学に出かける準備をしているのかガサゴソと音がしている。ぎりぎりまで私と話してくれたのだと分かり、嬉しくて、そのぶん落ち込んだ。
「そうだ、佐奈。一応確認するけど、7日は大丈夫だよな」
カレンダーを見るまでもなく頭に入っている。一緒に立てた夏休みの計画が楽しみで、わくわくしていたあの日の私。
「7日は、映画と買い物です」
「よし、OK」
すぐに答えることが出来た私に満足そうな声になり、笑った。
いつだって東野君は優しくて、私のことを想ってくれる。そのたびに温かくなる私の心、この心を信じればいいはずだった。
それなのに……
布団にもたれ、通話の切れた携帯電話を未練がましく握りしめる。
この海峡を、あなたと越えたい。どんなに難しくても、ここを越えなければ、大人にはなれない。でも、無理をされたら、どうなってしまうのだろう。
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