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嘘
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名古屋駅に着いたのは19時43分
コンコースを行き交う人の流れも多く、ざわざわとしたいつもの駅の賑やかさに、日常に帰ってきたという実感を持つ。
大袈裟だろうか。
でも、今の今まで、私は非日常の、夢の中にいた気がする。真夏の海のきらめき、眩しさ、砂浜の熱さ。すべてが、この世にはない、二度と戻っては行けないような幻想の世界に感じる。
「大丈夫? 寝ぼけてないか、佐奈」
ぼんやりする私を覗き込んできた東野君に、どきっとする。
そうだった。私は電車の中で、眠ってしまったのだ。だから、夢の中にいた気がするのかもしれない。全部、現実にあったことなのに。
そう、東野君の告白も……
「腹が減ったな。どこかに寄るか、それとも早く帰って家で食べるか」
「そ、そうだね。どうしようかな」
今更ながら、うろたえている。
座席で眠った私は、ずっと東野君の肩にもたれていたらしく、もうすぐ駅に着くぞと起こされ、目を覚ましたときには、ほとんど抱えられる恰好になっていた。
東野君は苦笑していた。
俺を信じ過ぎないように。
そう言われたばかりなのに、全面的に、全身預け切って、思い切り甘えていた。無防備に、眠ってしまった。
あの告白に、今更ながらうろたえている。
『俺は、求めてる。突っ走ってしまいそうなくらいに、性急に、君を求めてる』
『でも、大事にして、絶対に守ってあげたいのも俺なんだ』
『欲しい。でも、守りたい。ジレンマに苦しんで、大変だった』
求めてる。
欲しい。
ほしい。
ほしいと言ったのだ。
よく考えてみると、それはつまりその、私を、私の……
「佐奈?」
「はいっ!」
驚きのあまり、荷物を足元に落としてしまった。
「どうしたんだ」
彼が拾ってくれたそれを、私は慌てて、それでいて妙に恭しく受け取った。指先が彼に触れないよう、意識してしまう。
「やっぱり帰るか。相当疲れてるみたいだ」
「……」
そして私は彼に応えたのだ。
全部、受け容れられると。
真昼のように明るいコンコースで、いつもの日常のなかで、あらためてそれを思い出した私は、恥ずかしさで心中激しく身悶えした。
いっそ走って逃げ出したいほど!
東野君なら、私はすべて許して受け容れる。それは嘘偽りのない本音で、いつも心のどこかで願っている望みですらある。
でも、実際にそれを彼に知られてしまった今、どうすればいいのか分からなくなった。どんな顔で彼と向き合えば良いのか、分からない。
「しょうがないな」
私から荷物を取り上げると、自分の荷物も一緒に肩に背負って、東野君は駅の出口へと歩き出した。
「あっ、いいのに」
ハッとして追う私に、彼は笑う。
「いいよ、また落っことしそうだから。通りの店で何か買って、家に帰ろう」
ゆっくりとした歩調で進んでくれる、優しい、いつもの東野君。
心の本音は本音として、普段は表に出さないだけ。これまでも、そうだったのですね。本当は、私なんかよりもずっと、切実に葛藤しているはずなのに。
甘えちゃ駄目だと、自分に言い聞かせた。動揺して、そのまま態度に出てしまう私は甘えている。落ち着いて、気をつけて、大人にならなきゃ。
彼にとっての私は子供ではないと知ったのだから。
東野君は駅前通りのベーカリーショップで、惣菜パンとサンドイッチを買ってくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
昼にお握りをご馳走になったからと言って美味しそうな匂いのする紙袋を私に手渡すと、自転車を押して再び歩き始めた。
「東野君はいいの?」
彼は自分のぶんは何も買わなかった。
「うん。冷蔵庫に食材があったのを思い出した。早く使わないと傷むし、簡単に作って食べるよ」
そういえば東野君は料理が出来るのだ。いつだったか美味しいオムライスを手作りして食べさせてくれた。度々お店の手伝いをしているようだし、マスターであるお父さんから調理を教えてもらうのかなと、想像する。
「自炊できるなんて、すごいね」
「はは、そうかな」
私の兄などは実家で母親の手料理を毎日食べるのが当然で、お米も研いだことがないはずだ。若い男の人が料理をするという概念は、これまで無かったと言ってもいい。
「料理は好きなほう?」
「まあ、子供の頃から見よう見真似でやってるし、抵抗はないよ」
嬉しそうな顔で言う。やはり好きなんだなと伝わってくる明るさだった。
「東野君は、お店の後を継がないの?」
なんとなく訊いてみた。
東野君は3年生で、秋からは会社説明会やセミナーなどに参加し、本格的に就職活動を始めるという話なので、企業に就職するのかなと思ってはいるけれど。
「う~ん」
自転車を押すのをやめて、ピタリと立ち止まった。
東野珈琲店の前に出る二つ前の辻まで来ていた。どうしたのかなと見上げると、彼はふっと息をついて複雑な顔になる。
「俺はひとり息子だし、本当は継ぐのが正解なんだろうけど」
私は、立ち入ったことを訊いてしまったと後悔し、かき消すように両手を振った。
「いいの、なんとなく訊いただけだから」
「え?」
東野君はしかし、複雑な様子のままだった。
「なんとなく?」
街明かりを背にする彼の表情は分かりにくいが、ふと、眉を寄せたように見えた。
「あ、うん。ただ、なんとな……く」
「……」
やはり、眉を寄せている? 何か気に障ったのだろうか。
東野君は、黙ったまま私を見据えている。
「佐奈」
「はい」
「ちょっと、いいか」
自転車の方向を右に向けた。
「東野君?」
「近道しよう。こっちのほうが、静かに話せる」
不機嫌でもなく、怒ってもいない、落ち着いた声だった。
いや、落ち着いたというよりは、沈んだ声?
硬い背中に、私はやっと気が付いた。
今の私の質問は、彼にとっては将来に係る大事な問題だったこと。
そして、それをまるで他人ごとの言い方をしてしまった私に失望を覚えたことに。
街の雑多な音と光から離れ彼が誘ったのは、二人きりの帰り道だった。
コンコースを行き交う人の流れも多く、ざわざわとしたいつもの駅の賑やかさに、日常に帰ってきたという実感を持つ。
大袈裟だろうか。
でも、今の今まで、私は非日常の、夢の中にいた気がする。真夏の海のきらめき、眩しさ、砂浜の熱さ。すべてが、この世にはない、二度と戻っては行けないような幻想の世界に感じる。
「大丈夫? 寝ぼけてないか、佐奈」
ぼんやりする私を覗き込んできた東野君に、どきっとする。
そうだった。私は電車の中で、眠ってしまったのだ。だから、夢の中にいた気がするのかもしれない。全部、現実にあったことなのに。
そう、東野君の告白も……
「腹が減ったな。どこかに寄るか、それとも早く帰って家で食べるか」
「そ、そうだね。どうしようかな」
今更ながら、うろたえている。
座席で眠った私は、ずっと東野君の肩にもたれていたらしく、もうすぐ駅に着くぞと起こされ、目を覚ましたときには、ほとんど抱えられる恰好になっていた。
東野君は苦笑していた。
俺を信じ過ぎないように。
そう言われたばかりなのに、全面的に、全身預け切って、思い切り甘えていた。無防備に、眠ってしまった。
あの告白に、今更ながらうろたえている。
『俺は、求めてる。突っ走ってしまいそうなくらいに、性急に、君を求めてる』
『でも、大事にして、絶対に守ってあげたいのも俺なんだ』
『欲しい。でも、守りたい。ジレンマに苦しんで、大変だった』
求めてる。
欲しい。
ほしい。
ほしいと言ったのだ。
よく考えてみると、それはつまりその、私を、私の……
「佐奈?」
「はいっ!」
驚きのあまり、荷物を足元に落としてしまった。
「どうしたんだ」
彼が拾ってくれたそれを、私は慌てて、それでいて妙に恭しく受け取った。指先が彼に触れないよう、意識してしまう。
「やっぱり帰るか。相当疲れてるみたいだ」
「……」
そして私は彼に応えたのだ。
全部、受け容れられると。
真昼のように明るいコンコースで、いつもの日常のなかで、あらためてそれを思い出した私は、恥ずかしさで心中激しく身悶えした。
いっそ走って逃げ出したいほど!
東野君なら、私はすべて許して受け容れる。それは嘘偽りのない本音で、いつも心のどこかで願っている望みですらある。
でも、実際にそれを彼に知られてしまった今、どうすればいいのか分からなくなった。どんな顔で彼と向き合えば良いのか、分からない。
「しょうがないな」
私から荷物を取り上げると、自分の荷物も一緒に肩に背負って、東野君は駅の出口へと歩き出した。
「あっ、いいのに」
ハッとして追う私に、彼は笑う。
「いいよ、また落っことしそうだから。通りの店で何か買って、家に帰ろう」
ゆっくりとした歩調で進んでくれる、優しい、いつもの東野君。
心の本音は本音として、普段は表に出さないだけ。これまでも、そうだったのですね。本当は、私なんかよりもずっと、切実に葛藤しているはずなのに。
甘えちゃ駄目だと、自分に言い聞かせた。動揺して、そのまま態度に出てしまう私は甘えている。落ち着いて、気をつけて、大人にならなきゃ。
彼にとっての私は子供ではないと知ったのだから。
東野君は駅前通りのベーカリーショップで、惣菜パンとサンドイッチを買ってくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
昼にお握りをご馳走になったからと言って美味しそうな匂いのする紙袋を私に手渡すと、自転車を押して再び歩き始めた。
「東野君はいいの?」
彼は自分のぶんは何も買わなかった。
「うん。冷蔵庫に食材があったのを思い出した。早く使わないと傷むし、簡単に作って食べるよ」
そういえば東野君は料理が出来るのだ。いつだったか美味しいオムライスを手作りして食べさせてくれた。度々お店の手伝いをしているようだし、マスターであるお父さんから調理を教えてもらうのかなと、想像する。
「自炊できるなんて、すごいね」
「はは、そうかな」
私の兄などは実家で母親の手料理を毎日食べるのが当然で、お米も研いだことがないはずだ。若い男の人が料理をするという概念は、これまで無かったと言ってもいい。
「料理は好きなほう?」
「まあ、子供の頃から見よう見真似でやってるし、抵抗はないよ」
嬉しそうな顔で言う。やはり好きなんだなと伝わってくる明るさだった。
「東野君は、お店の後を継がないの?」
なんとなく訊いてみた。
東野君は3年生で、秋からは会社説明会やセミナーなどに参加し、本格的に就職活動を始めるという話なので、企業に就職するのかなと思ってはいるけれど。
「う~ん」
自転車を押すのをやめて、ピタリと立ち止まった。
東野珈琲店の前に出る二つ前の辻まで来ていた。どうしたのかなと見上げると、彼はふっと息をついて複雑な顔になる。
「俺はひとり息子だし、本当は継ぐのが正解なんだろうけど」
私は、立ち入ったことを訊いてしまったと後悔し、かき消すように両手を振った。
「いいの、なんとなく訊いただけだから」
「え?」
東野君はしかし、複雑な様子のままだった。
「なんとなく?」
街明かりを背にする彼の表情は分かりにくいが、ふと、眉を寄せたように見えた。
「あ、うん。ただ、なんとな……く」
「……」
やはり、眉を寄せている? 何か気に障ったのだろうか。
東野君は、黙ったまま私を見据えている。
「佐奈」
「はい」
「ちょっと、いいか」
自転車の方向を右に向けた。
「東野君?」
「近道しよう。こっちのほうが、静かに話せる」
不機嫌でもなく、怒ってもいない、落ち着いた声だった。
いや、落ち着いたというよりは、沈んだ声?
硬い背中に、私はやっと気が付いた。
今の私の質問は、彼にとっては将来に係る大事な問題だったこと。
そして、それをまるで他人ごとの言い方をしてしまった私に失望を覚えたことに。
街の雑多な音と光から離れ彼が誘ったのは、二人きりの帰り道だった。
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