東野君の特別

藤谷 郁

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深海の世界

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「こんにちは。よろしくお願いします!」
「……フン」

 月曜日のクラブの時間。私は張り切って、マネージャーの仕事に取り掛かった。
 やはり早乙女さんは素っ気無かったが、これは予測していたこと。それに、部員は早乙女さんだけではない。彼だけを気にしていては、マネージャーとしての全体的な仕事が出来なくなる、と、これは土日の休み中にずっと考えて導き出した私の方針。

 おもねるのではなく、証明すること。自分がどうしてサッカー部の一員になったのか、それを早乙女さんに知ってもらうには、私らしく頑張るしかない。要領が掴めていない今は特に、体を動かすしかない。


「佐奈、いきなり無理しないでよ。途中でエンストでもされたら、わやだからね」
飲み物を用意している私に、遼子さんが心配そうに忠告した。
「わや……ですか?」
「台無しってこと。何かあったの?」
 後から私の肩に顎を乗せて、じっと覗き込む。見透かされそうで内心焦るが、ここで悟られてはいけない。
「いえ、ただ早く仕事を覚えなくちゃと」
「あ、そ」
 勘の良い遼子さんだけに、どぎまぎしてしまう。

 早乙女さんについては、ことがハッキリするまで部の皆には言わずにおこうと、東野君と相談してあった。田内さんが言ったことも、もしかしたら誤解かもしれないし、今の時点でクラブを巻き込むのは良くないと判断したのだ。
 早乙女さんもなぜか他の部員には言わず胸のうちに収めているし、三人だけで決着が付くならそのほうがいい。

 正しくは早乙女さんと私、二人の間に決着が付くなら、だ。


 再来週の土曜日に試合があるそうで、チームはそれに向けた練習を行っている。
 私達マネージャーは、選手が練習に集中できるよう、様々な段取りを先回りして行うのだが、練習中は球拾いなども手伝うし、切り傷や打撲などの手当てもする。
 私は慣れなくて手間どってしまうが、部員の人たちは苦情も言わず、かえって励ましてくれる。最初は仕方ないよと、大目に見てくれているのだ。
 ただひとり、早乙女さんだけは厳しかったが。

「山室! ライン消えてるぞ。ラインカー持って来い!」
「はっ、はいっ」
「ビブスも足んねーぞ。さっさと用意しろよ山室!」
「ええと、ビブス、ビブスは……」
「モタモタすんな、急げっ」
「あった! 今行きます」

 ようやくクラブの時間が終わっても仕事は続く。
「ボール磨いて片しとけよ。他の1年坊主は使うなよ山室。これはマネージャーの仕事だからな」
「う……はい」
 グラウンドじゅうに散らばっているボールを見やり、さすがに返事に詰まるが、早乙女さんは容赦ない。
「出来ないのかよ」
「やります!」


 とにかく、鍛えられる。
 一瞬たりとも気が抜けない。
 そんな一週間が、矢のように過ぎた。
 初日のように緊張する間もなく、次から次へと仕事があり、こなすのが精一杯だった。
 来週の練習時間は午前中になる。後片付けでモタついたら、授業に出られなくなるかもしれない。
 だが早乙女さんはその不安を察したように、微笑んでこう言った。
「大丈夫だよ。授業には出て、そのあとの昼休みにでもゆっくり片付ければいい。グラウンドは午後までどの部も使わないからね」
 近くで聞いていた部員達が、「いくらなんでもそれは」「翔也、厳しすぎ」と庇ってくれたが、ここで甘えたら早乙女さんの思う壺である。

 私も負けずに、懸命に微笑んでみせた。
「それを聞いて安心しました。ゆっくり、片付けます」
 予期せぬ反応だったのか、早乙女さんはあからさまにムッとする。
「ぜってーにっ、手抜きすんなよ! きっちり検査してやるからなっ!」
 怒鳴るように言うと、憤然と歩み去ってしまった。

 皆、あっけに取られている。
「どうなってんの、あいつ」
 幸平さんが不思議そうに訊くけれど、今は言えない。本当は足がわなわなと震えているけれど、隠さなくては。それこそ、わやになってしまう。
 東野君は口を出さず、私も見ないようにしている。彼に頼らず解決しなければ、意味が無いのだ。


 そんな生活の中、嬉しい出来事もあった。
 本田翼さんだ。

 ランチルームで顔を合わせると、一緒に食事する仲になった。
 やはり彼女は私の巾着袋を洗濯して持ってきてくれた。しかも、アイロンが丁寧にかけてあり、その律儀さに感動してしまった。
「いやいや、こっちこそ迷惑かけたからさ」
 恥ずかしそうに頭を掻いた。その日も寝癖が付いていたが、ふわふわと心を和ませる、私の癒しだと思った。

 私は翼と呼び、彼女も佐奈と呼び捨てにした。なぜだか、はじめから違和感なくそう呼び合うことが出来た。
 彼女は友達が多く、通りかかる学生の何人かに気軽に声をかけられている。その繋がりで私も顔見知りが増えた。
 だけど不思議だった。どうしてこの子は私を見つけると嬉しそうに笑い、隣に来て一緒にご飯を食べるのだろう。他にもたくさん友達がいるはずなのに。

 だけどそれは訊けなかった。
 ごく自然に接し、肩肘張らず楽しくお喋りができる関係を大切にしたい。彼女に余計な気を遣わせて、ぎくしゃくするのは嫌だった。

 だけどある日、食事を終えてお喋りをして、ふと会話が途切れた時、彼女のほうからその疑問にぽつりと答えてくれた。
「佐奈といると、なんかこう……落ち着く。どうしてかな」
「え」
 何気ないひと言だった。

「知り合って数日なのに、ずっと前から知ってるみたいだ」
「翼」
 それは私も感じていたことだ。口には出せなかったけれど。
 巾着袋を握りしめた。
「迷惑じゃない? こうしてその、私が寄ってきても」
 ざわざわとしたランチルームから音が消え、耳が塞がれた状態になった。それはまるで、貝殻を耳にあてがったときの、あんな感じで――
 そう、潮騒に包まれているような。

 涙が、奥から湧いてきていた。

「そんなわけない。私だって、翼といると癒されるもの」
 早口で言った。こんなことで泣くなんて、絶対変に思われる。
「ほんと?」
 頷いて、時計を見る。
 特に用事も無いのに意味不明な仕草だが、翼の前にそれ以上留まるのは、私にはどうしようもなく優しすぎ、柔らかすぎ、我慢できなかった。特に、今の私には。

「じゃあ、もう行かなくちゃ」
「あ、佐奈」
「ん」
 俯き加減で返事して、彼女を少しだけ目の端に映す。
 男の子のように、照れくさそうな仕種で弁当箱の蓋を開けたり閉めたりしている。やがて意を決したようにきっちりと閉じると、小さく言った。
「じゃあまた、来週な」

 うんと頷いた。
 不思議な関係。
 小さかった頃、たまたま公園で出会った見知らぬ子と意気投合して遊んだ、あの感覚に似ている。気負いもなく、物言わずとも分かり合えるような。
「また来週ね」
 私も小さく言う。聞こえただろうか。きっと、聞こえている。
 ランチルームを出る間際に振り向くと、彼女は元気に、手を振っていた。




 今日は日曜日。
 私は東野珈琲店のカウンター席で、モーニングを前に座っている。
 目の前には東野君。今日もお店を手伝っていたらしく、ピークを過ぎたからと私を呼んでくれたのだ。久しぶりに、ほっとする時間を過ごしている。

 だが東野君が呼んだのは、報告があったからだ。元マネージャーの、田内さんについて。
 私は緊張して、身構えた。あの話は本当だったのだろうか。
「それが、全然掴まらないんだ」
「掴まらない?」
「ああ。携帯も繋がらないし、学部を見に行ってもいなくてさ」
「そう……」

 田内さんは教養学部の国際学科に在籍しているそうだ。早乙女さんも秋には同じ学舎に通うとのこと。二人は同じ学科の学生だった。
「そんなこともあって、あの二人は結構仲がいいんだ」
 だから、田内さんの言うことを全面的に信用しているのかもしれない。それは初めて聞くことだった。

「来週はしっかり捜して、必ず話をする。だから佐奈、もう少し待っててくれ」
 済まなそうに言う彼に、私は慌てないでと伝えた。
 田内さんが本当は何と言ったのか気にはなるが、それはそれとして、私はマネージャーの仕事をしっかりとこなすことに集中しなければ。
 東野君の報告に期待していると、つい甘えてしまいそうだから。

「ところで、クラブ以外の生活はどうしてる。何か変わったことでもあった?」
 気分を変えるように訊く東野君に、私も気持ちを切り替え、翼のことを話した。
「へえ、良かったじゃないか。いい友達になれそうだね」
「うん」
 本当にその通りであり、心から頷いた。

「ソフトボールか。うちの女子ソフト部は結構歴史があるはずだぞ。インカレで優勝したこともあるんじゃないか」
「そうなの?」
「練習厳しいって言ってるだろ」
 そういえばそうだった。初めて会った日に翼が話してくれたのを思い出した。
「スポーツ女子か……そういう子も面白いな」
「うん」

 私は少し心が動いた。翼がちょぴり、羨ましくて。彼女は自ら汗を流し、練習に試合に、全力で頑張っているのだ。毎日、懸命に。
「佐奈」
「えっ」
 東野君は黙ったまま笑うと、新しいカップを用意して、私の前に二杯目のコーヒーを差し出した。
「あの?」
「頑張ってるから、サービスだよ」
「あ……」

 そうでした。
 私……私も頑張ってたんだ。頑張ってるんだ。毎日、懸命に。
「ありがと」
 語尾が震えて、誤魔化すように温かい励ましを含んだ。この頃涙もろいのだろうか。
(来週も、頑張ろう)
 目を閉じて、零れそうなしずくを一緒に飲み込んだ。

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