東野君の特別

藤谷 郁

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恋の花々

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 その夜、東野君に電話をした。久し振りの連絡だった。
 食事も風呂も早めに済ませ、自分の部屋で正座をして、彼の携帯番号を押した。
「なんて言おうか」
 昼間の、サッカー部の話である。あれからずっと考えているのだが、まだ決められないでいる。
 マネージャーという仕事をよく知らないし、自分自身は、自分で運動したいと望んでいるから、多分出来ないかも……

 だけど、一度東野君に相談したかった。

「はい」
 飛び上がりそうだった。東野君の携帯にかけて、彼が出たのに驚く私って……
「もしもし、佐奈です」
「こんばんは、久し振りだね」
 いつものように明るくて優しい東野君の声に、心がたちまち解れ、ほっとする。やっぱりこの人には、甘えてしまいそうになる。
 電話機を、握りなおした。

「聞いたよ、クラブのこと」
「えっ、あの」
 話そうとする前に、いきなり切り出されて戸惑う。聞いたというのは、遼子さんからだろうか。
「その話だろ」
「う、うん。実は」
 どう話そうかと頭の中で組み立てていたのだが、それならばもう安心だ。東野君はすべてわかっている。

「緑の推薦なら間違いないって、メンバーも異存ないみたいだし、佐奈さえよければ部としては歓迎ムードだよ」
「……」
 驚いてしまった。もうそんな話がされているのかと。
「もしもし?」
「あっ、はい」
 速い展開について行けずぼんやりする私に気付いたのだろう。彼は補足をした。

「いや、緑もゆっくり考えてほしいみたいだ。何せ、新しく入った1年女子に一週間もしないうちにやめられちゃってるから」
「えっ、一週間」
 東野君が入学式の日に勧誘した1年生だろうか。
「ああ。だから、きちんと決心を固めてから入部してほしいそうだ」
 なるほどと、納得する。それにしても一週間もしないうちにというのは、一体どうして。
 少し不安になり、理由を訊いてみることにした。

「う~ん。それがさ」
 東野君は困ったように唸ると、言い難そうにだが話してくれた。
「馬鹿馬鹿しいことにね……」

 つまり、こういうことだった。
 A大学サッカー部に、有名な選手が在籍しているという。
 2年生の選手で、名前は早乙女さおとめ翔也しょうや。中学時代に全国大会での準優勝を経験しているとのこと。
 ただ、有名なのはその経歴ではなかった。

 中学3年の冬に、レギュラーを中心にテレビ番組の取材を受け、その一人として何度か画面に出て、一言二言インタビューで発言した。
 それ以来、ファンが付いたというのだ。
 早乙女翔也は、とても目立つタイプのイケメンだった。

「たったあれだけのことで、しかも四年も経ってるのに未だにしつこくされちゃって~なんて、本人はぼやいてるよ」
 東野君は同情の声になる。早乙女という人が、それほど困っているということだ。
「そんなことって、あるんだね」
「ああ、驚くよな」
 テレビの影響って凄いんだなと思った。

「翔也は高校進学と同時にサッカーをやめている。そもそも中学時代も殆ど控えの選手だったらしくて、全国大会でも目立って活躍したわけではないらしい」
「そうなんですか」
「でも、やっぱりサッカーは好きだから、大学に入って再開したんだ」
 話し方から、東野君がその早乙女さんに好意的であるのがわかる。きっと、いい人に違いない。

「それで、入部したマネージャー志望の1年が二人いたんだけど、二人ともその翔也目当てでね、あいつに彼女がいるって知ったら、あっさりやめちゃった」
「まさか、そんな」
 いくらなんでもそれはあんまりではと、がっかりした調子で言う東野君が気の毒になってしまったし、サッカーを愛する一人として、きわめて不実な行為に思えた。

「その上、田内たうちも退部して……」
「田内?」
 遼子さんが言っていた、急にやめてしまったというマネージャーのことだろうか。
「もうひとりの、マネージャーだった人ですか?」
「そう、同じ3年のね。ずっと一緒に頑張ってきたのに、勉強に専念したいからって、突然退部すると言い出して。それも、1年生二人がやめたのを見ていながら、緑が一人になっちまって、困ることがわかってるのに」
 悔しそうな、寂しそうな響きがあった。
 しかし私は何も言葉が出ず、ただ電話越しに、彼の気持ちに寄り添うしかできない。

 沈黙に気まずくなったのか、東野君は取り成すように言った。
「ああ、いやその、人それぞれ事情があるから仕方ないんだけどね……それにしても、緑が一人で大変 そうでね、うん。佐奈が入ってくれたら助かるかなあと、思うんだよ」
「東野君」
 気の利いたことも言えず、上手く励ますこともできず、かえって彼に気を遣わせる自分が歯痒かった。

「とにかくそんなわけで、前向きに考えてくれると俺も嬉しい。だけど、一番優先すべきは佐奈の意思 だからね。こっちのことは気にせず、冷静に決めてくれ」
「わかりました」
 そういう事情があったのかと、昼間の遼子さんの話と照らし合わせ、私はもう一度考えてみることにした。

「そういえば、佐奈」
 急に陽気な声になり、東野君は話を変えた。
「はい」
「もうすぐだな」
「えっ?」
 何のことかと聞き返す私に、彼は呆れたように教えた。
「う・み、だよ。約束しただろう」

 うみ 海――

 そうか海だ!

 うっかりしていた自分が信じられない。初めてのデートの話である。
「おいおい、まさか忘れたのか」
「違う違う、そうじゃなくって」
 忘れるはずがない。でも本当に、うっかりだった。言いわけのしようがない。
「ふうん。じゃあ確認するぞ。日にちと時間と待ち合わせ場所は?」
 疑うような声音に、私は焦った。

「はい、えっと、5月3日の憲法記念日に、東野珈琲店で、午前9時に待ち合わせです」
 よどみなく答えられた。もう何度も繰り返し確認していることである。私だって、すごく楽しみにしているのだ。
「よ~し、その通り。まあ、いいだろ。許してやるよ」
「よ、良かったです」
 心からほっとする。かなりかなり、焦ってしまった。

「佐奈」
 もう疑っていない、優しい呼びかけが聞こえる。本当に、許してくれたみたいだ。
「はい」
「あのさ」
「うん」
「……」
 どうしたのか、黙り込んでしまった。
 やっぱり怒っているのだろうか。私は動揺し、きちんと正座しなおす。電話は顔が見えなくて、不安が募ってしまう。

「あの、東野君?」
「好きだよ」
「……」
 今度は私が、黙り込んでしまう。

 静かな夜の中、彼の気配が耳もとに伝わってくるようで、すぐ傍にいるようで、頬が火照ってしまう。顔が見えなくて、やっぱりよかった。
「返事は?」
 真面目な声での、催促だった。
 私はぎゅっと目を閉じて、どきどきしながら呟く。
「私も……好き」

 大学のことも、マネージャーのことも、あっという間に全部忘れる。
 ただ彼のことだけ。
 頭も心も、身体じゅうが熱くのぼせるのを、どうしようもなかった。


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