東野君の特別

藤谷 郁

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スペシャルブレンド

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 信じられない。
 でも、彼がこんな冗談を言う人だとは思えない。何よりも、さっきまでの余裕ない仕草、そして真剣な眼差しが物語っている。この人は、真面目に、とても真面目に……
「佐奈?」
 返事をしない私に、微かに眉を曇らす。目の前に立つ東野君を眺めているだけで精一杯だけれど、そんな場合ではない。早く、答えなければ。

 両手でぱちんと頬を挟むと、そのまま「はい」と頷いた。
「えっ」
 彼は上半身を屈めて、頷く姿勢の私を覗き込む。信じられないみたいだけど、それは私も同じである。
「つまり、それって」
「……」
 声が出ない。
 好きな人に好きになったと言われた経験なんて初めてであり、頭も口も回らない。その上膝ががくがくして、全身にそれが伝わって、今にも倒れそうで。

 小心な私とは対照的に、東野君はすっかり落ち着いている。落ち着いて見えるだけだろうか。
 でも、だけど、私は。
「佐奈」
 混乱して体がぐらりと揺れ、だけど東野君がさっと腕を回し、強い力で支えてくれた。
「OKってことだね」
 びっくりして見上げると、すぐそこに眼差しがあった。

 ますます明るい眼差しに、私はもう一度頷いてみせる。
「やった……」
 彼は空に向かってガッツポーズを作り、あらためて私を見詰めてきた。
 きらきらと、太陽を取り込んだように、希望に満ちた表情。男の人の力強さと勢いと、思わぬ激しさに呑み込まれる。とても嬉しいけれど、ちょっぴり怖い。そんな感覚だった。


 東野君はフェンス沿いに歩き始めた。興奮した足取りは速くて、私は慌ててついて行く。
 背の高い後姿は、本当に東野君なのだろうか。いや、やっぱりこれは夢で、しかもかなり都合の良い夢なんじゃないかと疑いながら。

 だけど、数メートル進んだあと急に立ち止まって振り向いたのは、確かに東野君だった。彼は同じように立ち止まる私に近付くと、少し迷ってから手を伸ばし、指先をそっと握った。
「……!」
 遠慮がちな触れ方なのに、私には強烈すぎる行為だった。

 異性と手を繋ぐなんて幼稚園の遠足以来だろうか。
 あ、運動会のフォークダンスもあったっけ。
 そんなことをぐるぐると考えるが、それらとは比べ物にならないほどの衝撃に襲われる。東野君の手は、私の知っている『男の子』の感触とは全然違う。

 私の歩調に合わせながら東野君はゆっくりと進み、ひとつひとつ、丁寧に話してくれた。手は握ったまま。まるで風船が空に飛ばないように軽く、でもちゃんと確保している。

「佐奈と初めて出会ったあの日、お袋が風邪で寝てるからって親父にたたき起こされて、店の手伝いをやらされてた」
 2月のことだ。叔母に連れられて行った東野珈琲店。彼は調理場でモーニングセットを拵(こしら)えていた。

「調理場の窓から、香川さんと一緒に歩いて来る女の子をひと目見た瞬間、俺は予感がした。きっと自分は、あの子を好きになるって」
「あ……」
 あまりにもストレートな表現に、思わず声を漏らす。
 そんな初めから。
 一番、初めから?

 東野君は林の途切れた先に立つ背の高いケヤキの前で止まると、梢を見上げた。春の風に揺らされて、さわさわと葉のこすれる音がしている。

「見事に当たった。店に入ってきた君を間近で見て、好きだなと思った」
 彼は手を握りなおし、今度は包み込むようにした。
 皮膚の厚さと、伝わる温もりに動揺する。かろうじて平静を装うが、心の内ではあたふたと狼狽して、逃げないから放してほしいとすら思い、そんな自分が情けなくもある。
「それからは、早く春にならないかと毎日願ってた。ずっと待ち遠しかったな」
「そう、なんですか」

 再びの告白に心拍数が増している。
 彼は、平気なんだろうか。
 待ち遠しかったのは私も同じで、こうして会いたかった人に会えて、こんなことになって、現実が掴み切れずにふわふわして……ああ、もうわけがわからない。

 ちらりと横顔を窺った。
 爽やかな風情で緑を愛でる東野君。やはりこの人は、いまやすっかり落ち着いている。気持ちが無事に伝わったから?

 彼の気持ち――

 私は急に不安になった。
 好きになったと言ってくれた。これ以上ないくらい嬉しいけれど、本当によくわからないから。

 東野君は視線に気付いて私に向き直ると、梢を愛でる優しさをそのままに、じっと見つめる。
 そしてさらりと、不安を汲み取ったみたいなすごいタイミングで答えてくれた。
「君は俺の、スペシャルブレンドなんだ」
 手の温もりと柔らかな声に、どうにかなってしまいそうだ。
 スペシャルブレンドって、スペシャルブレンドって、つまりそれは。

『今日から、俺の特別になってほしい』

 東野珈琲店の東野君らしいたとえに感じ入りながらも、ぼーっとする。
 無反応な私に、彼は少し困ったように笑う。
「ええと、つまりね」
 前髪をかき上げると、さすがに照れくさいのかちょっとだけ口ごもり、だけどわかりやすく伝えてくれた。
「好きだなって思う要素が絶妙にブレンドされて、俺好みの逸品に仕上がってるってこと」

(い、いっぴん)

 恥ずかしくて、睫を伏せた。

 入学式の日、三面鏡に映した自分の姿を思い出す。
 髪も肌も、体型も、肝心の心だってまだまだ子供であることを自覚して、恥ずかしくなった。
 その時の気持ちが蘇り、いたたまれなくなる。

 クスッと彼が笑う。
 馬鹿にしたんじゃないってわかっているけど、頬が熱くなる。
「そんなところが、好きなんだよ」
 彼はさり気なく引き寄せると、耳のそばで囁いた。心を読まれているのだろうか。

 東野君――

 急激に湧き上がってくる感情に戸惑いながらも、素直に認めて睫をひらいた。
 ああ、私は本当にこの人を……

「東野君、あの、わたし」
「うん?」
 まだまだ子供でも、伝えなければ。
 今はまだ、追いつけなくても。
「私も、ひと目惚れしました。初めて会った日、あなたを、好きになりました」

 春風が吹きぬけ、スカートを揺らす。
 この人のために、お洒落した。髪も伸ばした、女らしく見られたくて。
 こんなふうに変わるのだろうか。
 恋をして、女性へと変身するのだろうか。

 今日から俺の特別に――

 繋がれた手をぎゅっと握り返し、ようやく心から彼に応えた。


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