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「そういえば原田さん、空手道場には行っていますか」
彩子はふいに思い付き、原田に訊ねた。
「道場?」
原田はカップをトレーに置くと、
「う~ん、それがなかなかね。稽古の時間に間に合わなくて」
「そうなんですか」
「どうしたんです、急に」
面白そうに訊き返す彼に、彩子はもじもじした。
「えっと……また、空手着を着たところが見たいなあと」
「へえ、よっぽど気に入ってるね。そんなに似合ってるかな、俺」
「どんな格好より、一番カッコいいです」
「そ、そう?」
彩子自身、なぜ急に空手の話題を出したのか分からない。
だけど、心からそう思っている。どうしてか、あの男らしい原田を今すぐ見たくてたまらない気持ちだった。
「それじゃ、式場には空手着で行きますか」
「絶対ですよ」
「うっ。困ったな……ったく、いつも彩子さんには」
原田は椅子を立つと、少し迷ってからベッドの端に腰かけ、真顔で彩子と向き合う。
「原田さ……?」
「彩子には一本取られる」
彼は彩子をそっと抱き寄せ、腕の中に包んだ。
原田は彩子を見舞ったあと、真っすぐ帰る気にならず、コーヒースタンドに立ち寄った。
夜の9時過ぎだが、客が結構入っている。
皆、静かにコーヒーを飲んだり、携帯をいじったり、窓の外をぼんやり見たりしている。中にはノートパソコンを開いて作業する者もあった。
原田は彼女を思った。
彩子は普段も薄化粧だが、今日はまったくの素顔だった。それが妙に艶かしくて、ついあんなことをしてしまったのだ。
彼女を抱きしめると、薄いパジャマの上から柔らかな肌が感じられた。
まだ熱のある体は火照っているようで、それが女の匂いを、いっそう際立たせたのかもしれない。
彼女の家でなくどこか二人きりの空間だったら……
間違いなく、あれ以上の行為に及んだだろう。
原田は何とか自制した。
そして、早々に引き揚げたのだ。
原田は腕の中で大人しくする彩子を思った。
(彩子……)
彼女と話し、顔を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
そんな存在にこの世で初めて出会った。
もし、失うことになったら?
そんな世界はもう考えられない。
いつの間にかこんなにも深く、彼女を愛している。
原田は自分の気持ちを確かめると、席を立った。
日曜日。
彩子はベッドに横たわり、ぼんやりしている。
微熱があるのは、風邪のせいばかりではない。昨夜のできごとを思い出すと、体が熱くなるのだ。
原田に抱きしめられ、『彩子』と呼び捨てにされたこと。
(原田さん……)
ほんの10秒ほど、彼は彩子を腕の中に収め、さっと離れた。初めての親密な触れ合い。あれは間違いなく、男女の愛情だった。
目を閉じて、自分の中に芽生えた感情に向き合う。
(束縛されたいと思うのは、異常な感覚だろうか)
枕元に置いたスマートフォンが鳴り、ビクッと震える。もしかしてと緊張するが、発信者は雪村だった。
「びっくりした」
体を起こして窓を見ると、ちらちらと小雪が舞っている。カーディガンを羽織りながら電話に出た。
『彩子、おはよう』
雪村の低い声が耳に響く。
「雪村、おはよう」
『何だその声は。風邪か?』
「うん。ちょっとね、こじらせちゃって」
『ふうん、この頃流行ってるみたいだからな。じゃあ、手短に話すよ』
雪村はやや早口になった。
『あのさ、ずっと前に言ったことなんだけど』
「うん?」
『カラダの相性の話』
「あ……」
いきなり持ち出された話題に彩子は戸惑う。昨夜の原田をまた思い出し、一人で焦った。
『あれ、取り消す』
「えっ?」
どういうことだろう。彩子は耳を澄ました。
『私はさ、そんなこと思ってないんだ』
「そ……そうなの」
雪村の言わんとすることが分からず、上手く返事ができない。
『お前が可愛いから、からかっただけ』
「……」
雪村はまったくふざけていない。それどころか、いつになく真面目な口調である。
『私達……私と美那子はね、性的欲求が希薄。つまりプラトニックなんだ』
反応できない彩子に構わず、雪村は続けた。
『少なくとも、今のところは。美那子も、たぶん同じだと思う』
甲斐美那子――
33歳とは思えない若々しさ。肌理の細かな白い肌。
雪村も肌の美しさでは負けていない。また、整った顔立ちは少年のように凛々しく、中性的な魅力がある。
二人が並ぶなら、たとえようもなく高雅な絵になるだろうと彩子は想像する。
『彩子。私は美那子を本気で愛してる。それだけは神に誓えるよ』
雪村は念を押すように言う。
こんなに真剣な雪村は初めてだ。 彩子は胸がドキドキしてきた。
『それで、もう一度訊くけど、原田さんとは寝てないんだな』
「う、うん。まだ……」
『だったら、カラダの相性の話は忘れて、安心して抱かれてくれ』
彩子は何と返したらいいのかわからず、ただ頬を染める。
『それだけ気になったから電話した。まさか本当に原田さんと婚約までいくとは思わなかったからね』
雪村はそこで言葉を止めると、ため息をついた。
『それにしても、随分と展開が速いんだなあ、見合いってのは』
「うん。私達は特に順調だって、伯母さんが言ってた」
『やっぱりね。ま、いいや。彩子は芯がしっかりしてるから、速かろうが遅かろうが間違いないだろ』
ぶっきらぼうな言い方だが、雪村に合格点をもらったみたいで、彩子は嬉しかった。
『あ、美那子が来た。じゃあ、もう切るけど、あとひとつだけ』
雪村は内緒話をするように声をひそめた。
『私の初恋はお前だよ、彩子』
彩子はふいに思い付き、原田に訊ねた。
「道場?」
原田はカップをトレーに置くと、
「う~ん、それがなかなかね。稽古の時間に間に合わなくて」
「そうなんですか」
「どうしたんです、急に」
面白そうに訊き返す彼に、彩子はもじもじした。
「えっと……また、空手着を着たところが見たいなあと」
「へえ、よっぽど気に入ってるね。そんなに似合ってるかな、俺」
「どんな格好より、一番カッコいいです」
「そ、そう?」
彩子自身、なぜ急に空手の話題を出したのか分からない。
だけど、心からそう思っている。どうしてか、あの男らしい原田を今すぐ見たくてたまらない気持ちだった。
「それじゃ、式場には空手着で行きますか」
「絶対ですよ」
「うっ。困ったな……ったく、いつも彩子さんには」
原田は椅子を立つと、少し迷ってからベッドの端に腰かけ、真顔で彩子と向き合う。
「原田さ……?」
「彩子には一本取られる」
彼は彩子をそっと抱き寄せ、腕の中に包んだ。
原田は彩子を見舞ったあと、真っすぐ帰る気にならず、コーヒースタンドに立ち寄った。
夜の9時過ぎだが、客が結構入っている。
皆、静かにコーヒーを飲んだり、携帯をいじったり、窓の外をぼんやり見たりしている。中にはノートパソコンを開いて作業する者もあった。
原田は彼女を思った。
彩子は普段も薄化粧だが、今日はまったくの素顔だった。それが妙に艶かしくて、ついあんなことをしてしまったのだ。
彼女を抱きしめると、薄いパジャマの上から柔らかな肌が感じられた。
まだ熱のある体は火照っているようで、それが女の匂いを、いっそう際立たせたのかもしれない。
彼女の家でなくどこか二人きりの空間だったら……
間違いなく、あれ以上の行為に及んだだろう。
原田は何とか自制した。
そして、早々に引き揚げたのだ。
原田は腕の中で大人しくする彩子を思った。
(彩子……)
彼女と話し、顔を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
そんな存在にこの世で初めて出会った。
もし、失うことになったら?
そんな世界はもう考えられない。
いつの間にかこんなにも深く、彼女を愛している。
原田は自分の気持ちを確かめると、席を立った。
日曜日。
彩子はベッドに横たわり、ぼんやりしている。
微熱があるのは、風邪のせいばかりではない。昨夜のできごとを思い出すと、体が熱くなるのだ。
原田に抱きしめられ、『彩子』と呼び捨てにされたこと。
(原田さん……)
ほんの10秒ほど、彼は彩子を腕の中に収め、さっと離れた。初めての親密な触れ合い。あれは間違いなく、男女の愛情だった。
目を閉じて、自分の中に芽生えた感情に向き合う。
(束縛されたいと思うのは、異常な感覚だろうか)
枕元に置いたスマートフォンが鳴り、ビクッと震える。もしかしてと緊張するが、発信者は雪村だった。
「びっくりした」
体を起こして窓を見ると、ちらちらと小雪が舞っている。カーディガンを羽織りながら電話に出た。
『彩子、おはよう』
雪村の低い声が耳に響く。
「雪村、おはよう」
『何だその声は。風邪か?』
「うん。ちょっとね、こじらせちゃって」
『ふうん、この頃流行ってるみたいだからな。じゃあ、手短に話すよ』
雪村はやや早口になった。
『あのさ、ずっと前に言ったことなんだけど』
「うん?」
『カラダの相性の話』
「あ……」
いきなり持ち出された話題に彩子は戸惑う。昨夜の原田をまた思い出し、一人で焦った。
『あれ、取り消す』
「えっ?」
どういうことだろう。彩子は耳を澄ました。
『私はさ、そんなこと思ってないんだ』
「そ……そうなの」
雪村の言わんとすることが分からず、上手く返事ができない。
『お前が可愛いから、からかっただけ』
「……」
雪村はまったくふざけていない。それどころか、いつになく真面目な口調である。
『私達……私と美那子はね、性的欲求が希薄。つまりプラトニックなんだ』
反応できない彩子に構わず、雪村は続けた。
『少なくとも、今のところは。美那子も、たぶん同じだと思う』
甲斐美那子――
33歳とは思えない若々しさ。肌理の細かな白い肌。
雪村も肌の美しさでは負けていない。また、整った顔立ちは少年のように凛々しく、中性的な魅力がある。
二人が並ぶなら、たとえようもなく高雅な絵になるだろうと彩子は想像する。
『彩子。私は美那子を本気で愛してる。それだけは神に誓えるよ』
雪村は念を押すように言う。
こんなに真剣な雪村は初めてだ。 彩子は胸がドキドキしてきた。
『それで、もう一度訊くけど、原田さんとは寝てないんだな』
「う、うん。まだ……」
『だったら、カラダの相性の話は忘れて、安心して抱かれてくれ』
彩子は何と返したらいいのかわからず、ただ頬を染める。
『それだけ気になったから電話した。まさか本当に原田さんと婚約までいくとは思わなかったからね』
雪村はそこで言葉を止めると、ため息をついた。
『それにしても、随分と展開が速いんだなあ、見合いってのは』
「うん。私達は特に順調だって、伯母さんが言ってた」
『やっぱりね。ま、いいや。彩子は芯がしっかりしてるから、速かろうが遅かろうが間違いないだろ』
ぶっきらぼうな言い方だが、雪村に合格点をもらったみたいで、彩子は嬉しかった。
『あ、美那子が来た。じゃあ、もう切るけど、あとひとつだけ』
雪村は内緒話をするように声をひそめた。
『私の初恋はお前だよ、彩子』
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