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プロポーズ
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原田はモヤモヤとした感情を抱えている。
後藤が彩子に無遠慮に接近したためであろうかと考えるが、どうも違う。
いやそれも原因には違いないが、大本の理由ではない気がする。
喫茶店を出ると、辺りは薄暗くなっていた。考えごとをしていた原田は、はっと我に返る。
「しまった。遅くなりすぎたか」
「そんなに遅くないですよ。まだ4時前です」
彩子は腕時計を見て言った。
「曇ってきたから暗く感じるのかも」
足元から冷気が這い上がる。
店に入る前に比べて、息もはっきりと白くなっていた。
「雪になりそうですね」
彩子が空を見上げ、嬉しそうにつぶやく。
「雪が好き?」
「そうなんです。雪って滅多に降らないから、嬉しくって」
冷気のためか、彩子の肌が青白く透きとおって見える。背伸びして空を見上げる姿は、原田にはひどく無防備に映った。
原田は分かった。
後藤が彩子に接近した。そして気の合う男女のように会話を交わした。彼女が別の男とやり取りしたすべてが、自分を無性にいら立たせたのだ。
彼女はもう俺のものだと、いつの間にかそう決めていた。
だが、それはあまりにもあやふやで何の根拠もない思い込みだ。男の傲慢でもある。
彼女は誰のものでもない。
いつどこに飛んで行ってしまってもおかしくない、意思の翼を持つ自由な鳥なのだ。
急激に昂る心を抑えきれず、それでもその心に正直に向き合う。
俺はこの子が好きだ。どこにも行ってほしくない。
自分の傍に居て欲しい。
他の誰にも、渡したくない――
初めての感情に戸惑いながらも、原田は率直に告げた。
「彩子さん、結婚しよう」
いつの間にか遊歩道を抜けて、グラウンドが見渡せる場所に来ていた。
彩子は全身に電気が走ったように動けない。
時間が止まるとはこういう現象なのかと、意識のどこかで感じている。
ひとひら、ふたひらと、雪が舞いおりる。
グラウンドにも、遊歩道にも、雪は次々に白い世界を創ってゆく。
二人のほかに誰もいない。
「は……はい」
震える声で、やっとの思いで応えた。
やがて声だけではなく、手も足も、全身が小刻みに震えだす。
彩子はふいに手を伸ばした原田に引き寄せられ、腕のなかにすっぽりと抱え込まれた。
そして、確かめるような眼差しで瞳の奥を覗かれ、優しく唇を重ねられる。
素直に受け入れた。
原田の体温を感じ、力の強さを感じる。
彩子はもう、このまま雪になって消えてもいいとさえ思った。
◇ ◇ ◇
原田啓子と魚津木綿子は仲の良い幼馴染み。
大人になってからも、何かあるたび互いに相談相手になるなど、付き合いが続いている。
子ども好きの木綿子は、啓子のひとり息子である良樹よしきの面倒をよく見た。啓子はその間に諸々の用事を済ませるなど、何かと助かっていた。
木綿子は良樹に、姪っ子の話をよくした。同じ子どもだから、関心を持つと思ったのだろう。
『おばちゃんの姪っ子はね、彩子っていう名前なんだけど、面白い子でね~』
といった調子で、彩子が幼稚園のかけっこでがんばったことや、お遊戯会で失敗したことなど、さまざまなエピソードを話して聞かせた。
良樹は子どもなりに耳を傾け、いつしか会ったこともない彩子という女の子を、身近に感じていた。
小学校の高学年になると、良樹は友達と遊ぶことが多くなり、そんな時間も持てなくなったが、その後も相変わらず木綿子は啓子のところに遊びに来ていた。
それは、良樹が高校生の頃。
学校から家に帰ると、木綿子が居間で留守番をしていた。
『あれ、お袋は?』
『買い物に出かけてるわ。もうそろそろ帰る頃よ。……それにしても、ほんとに背が伸びたわねえ、良樹君』
良樹は照れくさそうに頷くと、重そうな手提げ袋を床に置いた。学校帰りに採集してきた石が入っている。
『相変わらず石が好きなのね』
良樹が石ころを拾ってくるので置き場に困ると、啓子が愚痴っていた。
『うん』
楽しげにひとつひとつ取り出してみせる。どれも同じように見えるそれらを、良樹は宝石でも眺めるように、ためつすがめつした。
『野球はやめちゃったって聞いたわ』
『そのかわり、今は地学部に入ってる。石ころ集めが存分にできるんで』
『そうだってね~。文化部に入るとは意外だったわ。私の姪っ子は今、中学でソフトボール部よ』
良樹は石から木綿子に視線を移した。
『山辺の……彩子さん?』
『そうそう。がんばってるわよ~。毎日傷だらけになって。でも、この間の試合ではね……』
木綿子はその時、久しぶりに彩子の話をした。
良樹は興味のあるようなないような、ちょっとぎこちない反応だった。小学生の頃とはまた違う感受性で耳を傾けている。
ソフトボールが好きで、本が好きで、我慢強くて、人前で泣かない……そんな少女の話。
その夜、良樹は鉱物図鑑をめくり、蛍石のページに目を留めた。
透明感のある淡いグリーン。
よくある色だが、ほんのりと明るくて優しい薄緑を、彼は気に入っている。
心に少女が浮かんだ。顔も姿も、知らないはずなのに。
『山辺彩子さん……か』
彼女のイメージは蛍石だと、なぜか思った。
後藤が彩子に無遠慮に接近したためであろうかと考えるが、どうも違う。
いやそれも原因には違いないが、大本の理由ではない気がする。
喫茶店を出ると、辺りは薄暗くなっていた。考えごとをしていた原田は、はっと我に返る。
「しまった。遅くなりすぎたか」
「そんなに遅くないですよ。まだ4時前です」
彩子は腕時計を見て言った。
「曇ってきたから暗く感じるのかも」
足元から冷気が這い上がる。
店に入る前に比べて、息もはっきりと白くなっていた。
「雪になりそうですね」
彩子が空を見上げ、嬉しそうにつぶやく。
「雪が好き?」
「そうなんです。雪って滅多に降らないから、嬉しくって」
冷気のためか、彩子の肌が青白く透きとおって見える。背伸びして空を見上げる姿は、原田にはひどく無防備に映った。
原田は分かった。
後藤が彩子に接近した。そして気の合う男女のように会話を交わした。彼女が別の男とやり取りしたすべてが、自分を無性にいら立たせたのだ。
彼女はもう俺のものだと、いつの間にかそう決めていた。
だが、それはあまりにもあやふやで何の根拠もない思い込みだ。男の傲慢でもある。
彼女は誰のものでもない。
いつどこに飛んで行ってしまってもおかしくない、意思の翼を持つ自由な鳥なのだ。
急激に昂る心を抑えきれず、それでもその心に正直に向き合う。
俺はこの子が好きだ。どこにも行ってほしくない。
自分の傍に居て欲しい。
他の誰にも、渡したくない――
初めての感情に戸惑いながらも、原田は率直に告げた。
「彩子さん、結婚しよう」
いつの間にか遊歩道を抜けて、グラウンドが見渡せる場所に来ていた。
彩子は全身に電気が走ったように動けない。
時間が止まるとはこういう現象なのかと、意識のどこかで感じている。
ひとひら、ふたひらと、雪が舞いおりる。
グラウンドにも、遊歩道にも、雪は次々に白い世界を創ってゆく。
二人のほかに誰もいない。
「は……はい」
震える声で、やっとの思いで応えた。
やがて声だけではなく、手も足も、全身が小刻みに震えだす。
彩子はふいに手を伸ばした原田に引き寄せられ、腕のなかにすっぽりと抱え込まれた。
そして、確かめるような眼差しで瞳の奥を覗かれ、優しく唇を重ねられる。
素直に受け入れた。
原田の体温を感じ、力の強さを感じる。
彩子はもう、このまま雪になって消えてもいいとさえ思った。
◇ ◇ ◇
原田啓子と魚津木綿子は仲の良い幼馴染み。
大人になってからも、何かあるたび互いに相談相手になるなど、付き合いが続いている。
子ども好きの木綿子は、啓子のひとり息子である良樹よしきの面倒をよく見た。啓子はその間に諸々の用事を済ませるなど、何かと助かっていた。
木綿子は良樹に、姪っ子の話をよくした。同じ子どもだから、関心を持つと思ったのだろう。
『おばちゃんの姪っ子はね、彩子っていう名前なんだけど、面白い子でね~』
といった調子で、彩子が幼稚園のかけっこでがんばったことや、お遊戯会で失敗したことなど、さまざまなエピソードを話して聞かせた。
良樹は子どもなりに耳を傾け、いつしか会ったこともない彩子という女の子を、身近に感じていた。
小学校の高学年になると、良樹は友達と遊ぶことが多くなり、そんな時間も持てなくなったが、その後も相変わらず木綿子は啓子のところに遊びに来ていた。
それは、良樹が高校生の頃。
学校から家に帰ると、木綿子が居間で留守番をしていた。
『あれ、お袋は?』
『買い物に出かけてるわ。もうそろそろ帰る頃よ。……それにしても、ほんとに背が伸びたわねえ、良樹君』
良樹は照れくさそうに頷くと、重そうな手提げ袋を床に置いた。学校帰りに採集してきた石が入っている。
『相変わらず石が好きなのね』
良樹が石ころを拾ってくるので置き場に困ると、啓子が愚痴っていた。
『うん』
楽しげにひとつひとつ取り出してみせる。どれも同じように見えるそれらを、良樹は宝石でも眺めるように、ためつすがめつした。
『野球はやめちゃったって聞いたわ』
『そのかわり、今は地学部に入ってる。石ころ集めが存分にできるんで』
『そうだってね~。文化部に入るとは意外だったわ。私の姪っ子は今、中学でソフトボール部よ』
良樹は石から木綿子に視線を移した。
『山辺の……彩子さん?』
『そうそう。がんばってるわよ~。毎日傷だらけになって。でも、この間の試合ではね……』
木綿子はその時、久しぶりに彩子の話をした。
良樹は興味のあるようなないような、ちょっとぎこちない反応だった。小学生の頃とはまた違う感受性で耳を傾けている。
ソフトボールが好きで、本が好きで、我慢強くて、人前で泣かない……そんな少女の話。
その夜、良樹は鉱物図鑑をめくり、蛍石のページに目を留めた。
透明感のある淡いグリーン。
よくある色だが、ほんのりと明るくて優しい薄緑を、彼は気に入っている。
心に少女が浮かんだ。顔も姿も、知らないはずなのに。
『山辺彩子さん……か』
彼女のイメージは蛍石だと、なぜか思った。
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