フローライト

藤谷 郁

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プロポーズ

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翌日――

まだ薄暗い冬の早朝、原田良樹は『コレー』の前に立ち、懐かしさに目を細めた。

8年ぶりに訪れたその建物は、確かに古くなっている。だが歳月のぶん、レンガ塀がより深い趣を見せて彼を迎えてくれた。


「先生……ただいま」


『コレー』のオーナーが文治から娘の美那子に代わったのは知っている。それでも、原田にとっては未だオーナーは文治であり、唯一の石の師だった。


甲斐家の居宅は店の裏手の畑を横切り、しばらく歩くと見えてくる。

原田はインターホンのボタンを押した。


「はい」


女性の声が応答した。美那子である。


「朝早くから失礼します。私、原田良樹と申します。文治先生は……」


言いかけると、通話がプツリと切れる。

そしてバタバタと廊下を走る音が聞こえて、すぐに玄関ドアが開いた。


「良樹君……」


美那子は8年ぶりに訪れた原田に目を見張った。


「お久しぶりです、美那子さん」

「……」


ひと回り大きくなった身体と、落ち着いた眼差し。

彼女の名を呼ぶ低い声。

目の前にいる青年は、美那子の記憶にある良樹ではなかった。


「あ、あの、父は工房で作業しています。呼んできますね」


美那子は見知らぬ男性客に対するように、原田と接した。その戸惑いを知ってか知らずか、原田は黙って頷く。


「おお、原田君」


文治が小さな紙袋を手に提げ、玄関先に現れた。その後ろから美那子がそっと顔を覗かせ、原田をまぶしげに見守っている。


「出来上がったよ。間に合ってよかった」

「無理言ってすみませんでした」


原田はすまなそうに、ぺこりと頭を下げる。


「いやいや。それより、アメシストはあらかじめカットされた石の中から、一番いいものを選んでおいた。きれいな紫だ」

「ありがとうございます」

「それにしても……おお…本当に大人になったなあ。学生の頃より背が伸びたんじゃないかね」


文治が大げさに、見上げるようにした。原田は照れくさそうに笑い、首を横に振る。


「背はそれほど変ってません。体重は増えましたが」


原田が財布を出そうとすると、文治はその手を掴んで止めた。


「これは私からのお祝いだ。受け取ってくれ」

「駄目ですよ。それじゃ俺からのプレゼントになりませんから」

「あ、そうか。言われてみれば……」


二人のやり取りを、美那子は黙って聞いている。視線を原田に注いだまま、微動だにしない。

原田は代金を払うと丁寧に礼を言い、帰ろうとした。


「あのっ、お茶を淹れますので……」


美那子がふいに呼び止めた。

原田は振り向くと、


「ありがとうございます。でも今日は急ぎますので、これで。また寄らせていただきます」


あらためて頭を下げ、背中を向けると真っすぐに歩いていく。

原田の姿が見えなくなるまで、父娘は長いことその場に立って見送った。


「8年ぶりだなあ、美那子」

「ええ、本当に。驚いた……」

「大人になって、男っぷりが上がって、逞しくなった。本当に良かった」


夜明け前の冷えた空気が、公園の林から流れてくる。美那子は少し震えた声で、父親に訊ねた。


「今のはアクセサリーね。お祝いって、何を頼まれたの?」

「良い人ができたらしい。その女性への贈り物を頼まれた。なあ、美那子。お前も安心したろう」

「ええ、そうね。あの頃は本当に迷惑をかけたから。ずっと、気になってた……」


玄関に入る前、美那子はもう一度後ろを向き、原田が去った方向を見つめる。

懐かしさとともに、こみ上げてくるものが何なのか、彼女自身わからない。ただ愁いを帯びた目で、彼を追っていた――



原田は車に乗り込み、手提げ袋の中の小箱をそっと開けてみた。


「きれいだ……」


美しい葡萄色の宝石に見入る。彩子の驚く顔が目に浮かび、気分が高揚してきた。

小箱の蓋を閉じると、手提げ袋にもとどおり大事に仕舞う。車のエンジンをかけ、満たされた気持ちでアクセルを踏み込んだ。


『コレー』は後ろに遠ざかり、いつしかバックミラーから消え去る。

原田の心は今、山辺彩子という一人の女性に占められ、他の何にも捕われることはなかった。

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