夫のつとめ

藤谷 郁

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彼女の正体

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「はあ、でも……」

 女が迷うそぶりをすると、幸一が苛立った様子でベッドを飛び降り、彼女に詰めよった。

「貴様には関係のないことだ。通路を戻って、さっさと帰るんだな。まったく、男か女かわからんようなデカブツめ!」
「は……? 今、何とおっしゃいました」

 女は札束を無視し、幸一を睨み下ろす。
 幸一よりも女のほうが背が高く、全体的にがっしりとして迫力がある。
 確かに、どちらが男か女かわからない構図だ。

「な、何だよ。アルバイトのくせに、生意気だぞ」 
「デカブツだなんて、レディに対して失礼なセリフね。ムカついちゃうわ。それに何よ、そこのオッサンも。そんなはした金で、私が言うこときくと思ってんの? バイトだからって舐めんじゃないわよ。悔しいッ!!」
「ぎゃああっ」

 女は幸一の襟首をつかむと、目にもとまらぬスピードで投げ、床に叩きつけた。
 柔道の背負い投げか。
 ものすごいパワーだ。

「わ、わわわ……」

 床に伸びた息子を見て、友光は顔面蒼白。自分に向き直った女から、あとずさりした。

「ちょ、ちょっと待ちなさい。穏便に話し合おう……な、君」
「いやよ。あんたのような男、私は大っ嫌いなの。問答無用よ」
「ひいっ、助けてー」

 友光は足をもつれさせながら、通路と反対側のドアへと逃げた。ガチャガチャと鍵を解き、外に飛び出す。

「コラーッ。どこへ行くのよ!」

 ドアの外は廊下だ。女は友光を追いかけようとして、はたと立ち止まる。希美と麗子に振り向き、通路から脱出しなさいと、ジェスチャーで示した。

「お母様、早く」
「え、ええ?」

 わけがわからないといった母を促し、希美は通路の出入り口に走った。
 麗子を先に進ませてから、

「助かったわ。ありがとう」

 希美が礼を言うと、女は親指を立てて応えた。まるで計画どおり実行したかのような、あうんの呼吸である。

「の、希美、あの人は一体?」
「アルバイトの女の子よ。こんなところ、さっさと出ましょう」

 真っ暗な通路を手探りで進み、鏡のドアからトイレに戻った。
 パウダールームで中年女性が二人、化粧直しをしていたが、お喋りに夢中のようでこちらに気づかない。

「待って、希美。こんな格好を見せたら、お父さんが心配する」

 よほど怖かったのだろう、麗子の声は震えていた。それでも、利希のことを思って着物を整える姿に、希美は胸を打たれる。

 母は父を、間違いなく愛している。わかりにくく、めんどくさい男女の愛情だが、やっと理解できた。

  パーティー会場では、マジックショーが続いていた。
 もといたテーブルに行くと、スマートフォンを手にした利希が飛び上がり、二人を交互に見回す。

「お前達、どこに行ってたんだ。電話にも出ないし、何かあったのか」
「お父様……」

 希美が話そうとするのを、麗子が制す。本当のことを言って、血圧の高い彼を激昂させてはいけない。夫の体を心配しているのだ。

「あなた、何でもありません。化粧直しが手間取ってしまって……それより、もう帰りましょう」
「なんだって?」

 気丈に振舞う麗子だが、顔色は正直だ。希美が話すまでもなく、何があったのか利希は察したようで、みるみる真っ赤になる。

「あの野郎……」

 血管がぶちきれそうな様子に、希美は慌てた。

「大丈夫よ、お父様。私達は無事に脱出できたの。壮二のおかげで」
「え?」

 娘の言葉に、父母が同時に声を上げる。

「壮二って……やっぱりあいつ、会場に来てたのか」
「どういうこと、希美。だって、私達が助かったのはアルバイトの女の子が……」

 しばし考えたあと、麗子は大きく目を見開く。ようやく、"彼女"の正体に気付いたようだ。

「ええっ? まさか、あの子が壮二さん?」
「お前達、一体何の話をしているんだ。壮二がどこにいるって?」

 希美はシイッと指を立て、玄関ロビーへと両親を促す。この不愉快な空間から、一刻も早く立ち去りたかった。
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