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5. 惑溺の低気圧 ④
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唇が離れた。思わずため息がもれる。目を開けると、薄っすらと笑みを浮かべながら榛瑠が私を見下ろしていた。
なんでこの男は、こんなにも美しくて、そして残酷なんだろう。
目をあけていられない。
また、キスされる。唇に、首筋に、鎖骨に…。
あつい。なんだかもう、なにもかもわからない。
涙がにじむ。
……榛瑠……。
その時、ザンッというような強い音が耳に入った。ビクッとして目を開ける。理由を探して視線がさまよう。その音は強風のために窓に雨が叩きつけられた音だった。
急に、かたまりで理性が戻ってきた。
「ちょっと、待って、榛瑠ダメ、どいて」
彼が動きを止める。でも、どいてくれない。
「ねえ、どいてってば、聞こえてる?」
榛瑠は黙ってそのまま私を抱きしめた。
押し返そうと腕に力を入れるがびくともしない。そういえば、この人って……。
「榛瑠お願いだから、どいて」
「……やだ」
彼は私を抱きしめたまま言った。
ちょっと、やだってなによ、ああ、忘れてたけど、この人!
「榛瑠!調子悪い時に女の子に触れたがる癖やめなさいって、前も言った!早くどきなさい!」
「……くせに」
榛瑠が何か呟きながら体をずらした。私は慌ててすり抜けてベットから降りる。
服の乱れをなるべく手早く直す。死ぬほど恥ずかしい、と思う。
榛瑠の悪癖忘れてた。何で今だになおってないのよ。でも、よりによって、私に手を出すなんて!
ちらっと彼をみると、ふてくされたように布団に包まっている。
なによ!ふてくされたいのは私の方よ!
私は彼に背を向けてドアへ向かった。早くここを出よう。ほんとにもう、なんでこんなことに……。
「お嬢様」
後ろから呼ぶ声がした。でも、知らない。無視。
だいたいお嬢様に手を出すなんて時代が時代なら切腹よ!切腹!
「一花」
そりゃあね、私だって拒まなかった……じゃなくて、うんと、流された、えっと、けど、でもでも……
しょうがないじゃない、免疫ゼロなんだもん!
「一花っ」
「なによっ」
榛瑠が小さく叫ぶように名前を呼ぶ声に、思わず反応して振り返ってしまった。
彼はベットの上で下を向いたまま手をついて上体を起こしていた。頭の半分まで被っている布団で表情がよくわからない。
「お嬢様、その、」
榛瑠らしくなくボソボソっと言う。
「ごめん、なさい」
「……大人しく寝てなさい!」
私はわざと大きな音を立てて戸を閉めた。そのまま真っ直ぐ前を向いて廊下を進む。
「……」
考えない、考えない、忘れよう、今すぐ、うん。ぜんぶ。
うん……ムリ、だ。
私はその場で廊下の壁に手をついた。
なんなの、あれ?なんなの?なんであんなに心細げな声で謝るの?わざと?なに?
あんな風に言われたら怒れないじゃない!
なんで私が一瞬でも、かわいそうかもとか思わないといけないのよ!
いろいろ思い出すと、顔がほてってドキドキする。
「だめ、頭冷やそう」
私は二階のテラスに出た。外は嵐のようで、雨の量は思ったほどでなかったが風が強かった。そこは直接雨は当たらないようになっていたが、時折強い風が運んできた飛沫が顔を濡らす。
冷たくて気持ちがいい。火照った顔を冷やしてくれる。
深呼吸する。冷えた空気が肺に入る。
風で庭の木々が大きく揺れていた。木々の揺れる音が、風が吹き抜けていく音が、する。
この音だ、と思う。
風の音を聞くと、思い出すことがある。
そう、それこそ婚約者と別れた日のことだ。
あの日、今思うと彼の誠実さの形であったのだろう。彼が私に会いにきた。
数日前に正式に破談になっていた。向こうからの一方的な申し入れだった。父は言いたいこともあっただろうが、何しろ私がまだ若い、父にとってはまだ子供といってもいい歳だったせいもあってか、あまり揉めずに受け入れた。
私は悲しいというより、戸惑った。7つも年上の幼い時からの婚約者は、年に何度か会うだけだったが、それでも会うと優しくて、私にとってはどこか兄のような人だった。
この人と大きくなったらケッコンするのだ、というのは、それこそ、中学行くとか高校行くとかの延長のように疑ったことはなかった。
なんでここにきて?でも、彼も23歳だし、子供の相手が嫌になったのかな、と、ぼんやり思っていた。
そう、あの頃の記憶はひどくぼんやりしている。その数ヶ月前に榛瑠が旅立っていて、屋敷は静かで、私はぼんやりしていた。
どうしてそんなところで話をしたのかは覚えていない。とにかく、彼と私はこの庭で向かい合っていた。
雨は降っていなかったが、風の強い日だった。
ごめんね、一花ちゃん、君が嫌いになったわけではないんだ。そう、彼は言った。
「むしろ、今も変わらず妹のように思うよ」
つまりそれは妹のようにしか思えないということだ。でもだから?お互い様だもの、今更じゃない?好きな人でもできたのかしら。
それだって、今更だわ、とその時の私は思った。
たぶん、引き止めたいというより、自分の状況が変わることが受け止められなかったんだと思う。
「結婚は契約だから、別に妻になる人に僕を熱烈に好きでいて欲しいとは思わないし、そういう意味では、むしろ一花ちゃんで良かったとずっと思っていたよ」
ええ、私もそう思っていました。
「でもね、特別好きでなくてもいいけど、他の男に心取られちゃってる子はやっぱり嫌なんだよ。僕もプライドがあるしね」
……?
何を言っているの?
彼は私の頭をそっと撫でた。今までと同じように。
「ごめんね一花ちゃん、君を一人にするけど……しょうがないよね?」
そう言って、彼は去って行った。その後ろ姿は記憶にない。ただぼんやりと立ちながら、木が揺れているのを見ていた。
音がしていた。風の音が。
低い、ごうっというような音がしていた。
ゴメンネイチカチャン キミヲヒトリニスルケド
そうだ。
ワタシハヒトリダ
風が、体の中を一気に吹き抜けて行った。
その瞬間、うわあっと、身体中から声が出た。榛瑠が去った時も泣かなかった。でもその時、いきなり私は泣き叫んだ。
引きちぎれるようだった。
この広い屋敷で誰にも届くことのないまま、風が泣き叫ぶ声を奪い去って行った。
誰を思って泣いたのか、何を思って叫んだのか、記憶はぼんやりとしていてわからないままだ。
ただ、あの時の低いごおっというような風の音は覚えていて、そして今も、耳の奥でなっている。
ねえ、榛瑠?あなたの知らないことも、あるのよ?
なんでこの男は、こんなにも美しくて、そして残酷なんだろう。
目をあけていられない。
また、キスされる。唇に、首筋に、鎖骨に…。
あつい。なんだかもう、なにもかもわからない。
涙がにじむ。
……榛瑠……。
その時、ザンッというような強い音が耳に入った。ビクッとして目を開ける。理由を探して視線がさまよう。その音は強風のために窓に雨が叩きつけられた音だった。
急に、かたまりで理性が戻ってきた。
「ちょっと、待って、榛瑠ダメ、どいて」
彼が動きを止める。でも、どいてくれない。
「ねえ、どいてってば、聞こえてる?」
榛瑠は黙ってそのまま私を抱きしめた。
押し返そうと腕に力を入れるがびくともしない。そういえば、この人って……。
「榛瑠お願いだから、どいて」
「……やだ」
彼は私を抱きしめたまま言った。
ちょっと、やだってなによ、ああ、忘れてたけど、この人!
「榛瑠!調子悪い時に女の子に触れたがる癖やめなさいって、前も言った!早くどきなさい!」
「……くせに」
榛瑠が何か呟きながら体をずらした。私は慌ててすり抜けてベットから降りる。
服の乱れをなるべく手早く直す。死ぬほど恥ずかしい、と思う。
榛瑠の悪癖忘れてた。何で今だになおってないのよ。でも、よりによって、私に手を出すなんて!
ちらっと彼をみると、ふてくされたように布団に包まっている。
なによ!ふてくされたいのは私の方よ!
私は彼に背を向けてドアへ向かった。早くここを出よう。ほんとにもう、なんでこんなことに……。
「お嬢様」
後ろから呼ぶ声がした。でも、知らない。無視。
だいたいお嬢様に手を出すなんて時代が時代なら切腹よ!切腹!
「一花」
そりゃあね、私だって拒まなかった……じゃなくて、うんと、流された、えっと、けど、でもでも……
しょうがないじゃない、免疫ゼロなんだもん!
「一花っ」
「なによっ」
榛瑠が小さく叫ぶように名前を呼ぶ声に、思わず反応して振り返ってしまった。
彼はベットの上で下を向いたまま手をついて上体を起こしていた。頭の半分まで被っている布団で表情がよくわからない。
「お嬢様、その、」
榛瑠らしくなくボソボソっと言う。
「ごめん、なさい」
「……大人しく寝てなさい!」
私はわざと大きな音を立てて戸を閉めた。そのまま真っ直ぐ前を向いて廊下を進む。
「……」
考えない、考えない、忘れよう、今すぐ、うん。ぜんぶ。
うん……ムリ、だ。
私はその場で廊下の壁に手をついた。
なんなの、あれ?なんなの?なんであんなに心細げな声で謝るの?わざと?なに?
あんな風に言われたら怒れないじゃない!
なんで私が一瞬でも、かわいそうかもとか思わないといけないのよ!
いろいろ思い出すと、顔がほてってドキドキする。
「だめ、頭冷やそう」
私は二階のテラスに出た。外は嵐のようで、雨の量は思ったほどでなかったが風が強かった。そこは直接雨は当たらないようになっていたが、時折強い風が運んできた飛沫が顔を濡らす。
冷たくて気持ちがいい。火照った顔を冷やしてくれる。
深呼吸する。冷えた空気が肺に入る。
風で庭の木々が大きく揺れていた。木々の揺れる音が、風が吹き抜けていく音が、する。
この音だ、と思う。
風の音を聞くと、思い出すことがある。
そう、それこそ婚約者と別れた日のことだ。
あの日、今思うと彼の誠実さの形であったのだろう。彼が私に会いにきた。
数日前に正式に破談になっていた。向こうからの一方的な申し入れだった。父は言いたいこともあっただろうが、何しろ私がまだ若い、父にとってはまだ子供といってもいい歳だったせいもあってか、あまり揉めずに受け入れた。
私は悲しいというより、戸惑った。7つも年上の幼い時からの婚約者は、年に何度か会うだけだったが、それでも会うと優しくて、私にとってはどこか兄のような人だった。
この人と大きくなったらケッコンするのだ、というのは、それこそ、中学行くとか高校行くとかの延長のように疑ったことはなかった。
なんでここにきて?でも、彼も23歳だし、子供の相手が嫌になったのかな、と、ぼんやり思っていた。
そう、あの頃の記憶はひどくぼんやりしている。その数ヶ月前に榛瑠が旅立っていて、屋敷は静かで、私はぼんやりしていた。
どうしてそんなところで話をしたのかは覚えていない。とにかく、彼と私はこの庭で向かい合っていた。
雨は降っていなかったが、風の強い日だった。
ごめんね、一花ちゃん、君が嫌いになったわけではないんだ。そう、彼は言った。
「むしろ、今も変わらず妹のように思うよ」
つまりそれは妹のようにしか思えないということだ。でもだから?お互い様だもの、今更じゃない?好きな人でもできたのかしら。
それだって、今更だわ、とその時の私は思った。
たぶん、引き止めたいというより、自分の状況が変わることが受け止められなかったんだと思う。
「結婚は契約だから、別に妻になる人に僕を熱烈に好きでいて欲しいとは思わないし、そういう意味では、むしろ一花ちゃんで良かったとずっと思っていたよ」
ええ、私もそう思っていました。
「でもね、特別好きでなくてもいいけど、他の男に心取られちゃってる子はやっぱり嫌なんだよ。僕もプライドがあるしね」
……?
何を言っているの?
彼は私の頭をそっと撫でた。今までと同じように。
「ごめんね一花ちゃん、君を一人にするけど……しょうがないよね?」
そう言って、彼は去って行った。その後ろ姿は記憶にない。ただぼんやりと立ちながら、木が揺れているのを見ていた。
音がしていた。風の音が。
低い、ごうっというような音がしていた。
ゴメンネイチカチャン キミヲヒトリニスルケド
そうだ。
ワタシハヒトリダ
風が、体の中を一気に吹き抜けて行った。
その瞬間、うわあっと、身体中から声が出た。榛瑠が去った時も泣かなかった。でもその時、いきなり私は泣き叫んだ。
引きちぎれるようだった。
この広い屋敷で誰にも届くことのないまま、風が泣き叫ぶ声を奪い去って行った。
誰を思って泣いたのか、何を思って叫んだのか、記憶はぼんやりとしていてわからないままだ。
ただ、あの時の低いごおっというような風の音は覚えていて、そして今も、耳の奥でなっている。
ねえ、榛瑠?あなたの知らないことも、あるのよ?
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