天使は金の瞳で毒を盛る

藤野ひま

文字の大きさ
上 下
16 / 50

5. 惑溺の低気圧 ④

しおりを挟む
唇が離れた。思わずため息がもれる。目を開けると、薄っすらと笑みを浮かべながら榛瑠が私を見下ろしていた。

なんでこの男は、こんなにも美しくて、そして残酷なんだろう。

目をあけていられない。

また、キスされる。唇に、首筋に、鎖骨に…。

あつい。なんだかもう、なにもかもわからない。

涙がにじむ。

……榛瑠……。

その時、ザンッというような強い音が耳に入った。ビクッとして目を開ける。理由を探して視線がさまよう。その音は強風のために窓に雨が叩きつけられた音だった。

急に、かたまりで理性が戻ってきた。

「ちょっと、待って、榛瑠ダメ、どいて」

彼が動きを止める。でも、どいてくれない。

「ねえ、どいてってば、聞こえてる?」

榛瑠は黙ってそのまま私を抱きしめた。

押し返そうと腕に力を入れるがびくともしない。そういえば、この人って……。

「榛瑠お願いだから、どいて」

「……やだ」

彼は私を抱きしめたまま言った。

ちょっと、やだってなによ、ああ、忘れてたけど、この人!

「榛瑠!調子悪い時に女の子に触れたがる癖やめなさいって、前も言った!早くどきなさい!」

「……くせに」

榛瑠が何か呟きながら体をずらした。私は慌ててすり抜けてベットから降りる。

服の乱れをなるべく手早く直す。死ぬほど恥ずかしい、と思う。

榛瑠の悪癖忘れてた。何で今だになおってないのよ。でも、よりによって、私に手を出すなんて!

ちらっと彼をみると、ふてくされたように布団に包まっている。

なによ!ふてくされたいのは私の方よ!

私は彼に背を向けてドアへ向かった。早くここを出よう。ほんとにもう、なんでこんなことに……。

「お嬢様」

後ろから呼ぶ声がした。でも、知らない。無視。

だいたいお嬢様に手を出すなんて時代が時代なら切腹よ!切腹!

「一花」

そりゃあね、私だって拒まなかった……じゃなくて、うんと、流された、えっと、けど、でもでも……

しょうがないじゃない、免疫ゼロなんだもん!

「一花っ」

「なによっ」

榛瑠が小さく叫ぶように名前を呼ぶ声に、思わず反応して振り返ってしまった。

彼はベットの上で下を向いたまま手をついて上体を起こしていた。頭の半分まで被っている布団で表情がよくわからない。

「お嬢様、その、」

榛瑠らしくなくボソボソっと言う。

「ごめん、なさい」

「……大人しく寝てなさい!」

私はわざと大きな音を立てて戸を閉めた。そのまま真っ直ぐ前を向いて廊下を進む。

「……」

考えない、考えない、忘れよう、今すぐ、うん。ぜんぶ。

うん……ムリ、だ。

私はその場で廊下の壁に手をついた。

なんなの、あれ?なんなの?なんであんなに心細げな声で謝るの?わざと?なに?

あんな風に言われたら怒れないじゃない!

なんで私が一瞬でも、かわいそうかもとか思わないといけないのよ!

いろいろ思い出すと、顔がほてってドキドキする。

「だめ、頭冷やそう」

私は二階のテラスに出た。外は嵐のようで、雨の量は思ったほどでなかったが風が強かった。そこは直接雨は当たらないようになっていたが、時折強い風が運んできた飛沫が顔を濡らす。

冷たくて気持ちがいい。火照った顔を冷やしてくれる。

深呼吸する。冷えた空気が肺に入る。

風で庭の木々が大きく揺れていた。木々の揺れる音が、風が吹き抜けていく音が、する。

この音だ、と思う。

風の音を聞くと、思い出すことがある。

そう、それこそ婚約者と別れた日のことだ。

あの日、今思うと彼の誠実さの形であったのだろう。彼が私に会いにきた。

数日前に正式に破談になっていた。向こうからの一方的な申し入れだった。父は言いたいこともあっただろうが、何しろ私がまだ若い、父にとってはまだ子供といってもいい歳だったせいもあってか、あまり揉めずに受け入れた。

私は悲しいというより、戸惑った。7つも年上の幼い時からの婚約者は、年に何度か会うだけだったが、それでも会うと優しくて、私にとってはどこか兄のような人だった。

この人と大きくなったらケッコンするのだ、というのは、それこそ、中学行くとか高校行くとかの延長のように疑ったことはなかった。

なんでここにきて?でも、彼も23歳だし、子供の相手が嫌になったのかな、と、ぼんやり思っていた。

そう、あの頃の記憶はひどくぼんやりしている。その数ヶ月前に榛瑠が旅立っていて、屋敷は静かで、私はぼんやりしていた。

どうしてそんなところで話をしたのかは覚えていない。とにかく、彼と私はこの庭で向かい合っていた。

雨は降っていなかったが、風の強い日だった。

ごめんね、一花ちゃん、君が嫌いになったわけではないんだ。そう、彼は言った。

「むしろ、今も変わらず妹のように思うよ」

つまりそれは妹のようにしか思えないということだ。でもだから?お互い様だもの、今更じゃない?好きな人でもできたのかしら。

それだって、今更だわ、とその時の私は思った。

たぶん、引き止めたいというより、自分の状況が変わることが受け止められなかったんだと思う。

「結婚は契約だから、別に妻になる人に僕を熱烈に好きでいて欲しいとは思わないし、そういう意味では、むしろ一花ちゃんで良かったとずっと思っていたよ」

ええ、私もそう思っていました。

「でもね、特別好きでなくてもいいけど、他の男に心取られちゃってる子はやっぱり嫌なんだよ。僕もプライドがあるしね」

……?

何を言っているの?

彼は私の頭をそっと撫でた。今までと同じように。

「ごめんね一花ちゃん、君を一人にするけど……しょうがないよね?」

そう言って、彼は去って行った。その後ろ姿は記憶にない。ただぼんやりと立ちながら、木が揺れているのを見ていた。

音がしていた。風の音が。
低い、ごうっというような音がしていた。

ゴメンネイチカチャン キミヲヒトリニスルケド

そうだ。

ワタシハヒトリダ

風が、体の中を一気に吹き抜けて行った。

その瞬間、うわあっと、身体中から声が出た。榛瑠が去った時も泣かなかった。でもその時、いきなり私は泣き叫んだ。

引きちぎれるようだった。

この広い屋敷で誰にも届くことのないまま、風が泣き叫ぶ声を奪い去って行った。

誰を思って泣いたのか、何を思って叫んだのか、記憶はぼんやりとしていてわからないままだ。

ただ、あの時の低いごおっというような風の音は覚えていて、そして今も、耳の奥でなっている。


ねえ、榛瑠?あなたの知らないことも、あるのよ?


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生

花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。 女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感! イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【R18】ドS上司とヤンデレイケメンに毎晩種付けされた結果、泥沼三角関係に堕ちました。

雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向けランキング31位、人気ランキング132位の記録達成※雪村里帆、性欲旺盛なアラサーOL。ブラック企業から転職した先の会社でドS歳下上司の宮野孝司と出会い、彼の事を考えながら毎晩自慰に耽る。ある日、中学時代に里帆に告白してきた同級生のイケメン・桜庭亮が里帆の部署に異動してきて…⁉︎ドキドキハラハラ淫猥不埒な雪村里帆のめまぐるしい二重恋愛生活が始まる…!優柔不断でドMな里帆は、ドS上司とヤンデレイケメンのどちらを選ぶのか…⁉︎ ——もしも恋愛ドラマの濡れ場シーンがカット無しで放映されたら?という妄想も込めて執筆しました。長編です。 ※連載当時のものです。

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

処理中です...