エスケープ

北丘 淳士

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瓦解

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「葛飾支店営業部から参りました大楠武一といいます。出来るだけ早く、第二企画部の戦力になりたいと思っています。若輩者ですが、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いします」
 そう言って深くお辞儀すると、男女同じぐらいの比率である第二企画部の皆から拍手が湧いた。拍手が止むと、宮前部長が俺の隣に立って話し始める。
「大楠君には鷹津さんのチームに入ってもらう。今日は企画部の動きや雰囲気を知ってもらい、明日から本格的にチームの一員として働いてもらう、以上」
 その声に企画部の全員は着席し、PCを操作し始めたり、電話対応を始めた。一人だけデスクを離れ、喫煙室に向かう初老の男性がいた。
 そう言えば、俺の上司は鷹津さんと言ったが、部長が「さん」づけするなんて、相当のやり手なのだろうか。
 そう考えていたら宮前部長にデスクから呼ばれ、俺は速足で向かった。
「まあ、そこに座って」と用意されていた椅子に座る。
「君の上司になる鷹津さんだが、ちょっと問題があってな、部下が次々と辞めていっている。鷹津さんは、ほら喫煙室でスマホを見ている男だ」
 俺は正面にある喫煙室を見た。先ほど見た初老の男性だった。
「問題……といいますと?」
「見て分かると思うが、もう定年間際で仕事に対する意欲が全くない。次のビジョンとして、私は鷹津さんが辞めるまでに若い社員で、鷹津グループを刷新したい。せっかく、やる気のある挨拶をしてくれたが」
「はあ」思わず気の抜けた声を出してしまった。
「君の勤務態度や仕事に対する姿勢は、人事部から優秀だと聞いている。だが鷹津さんが辞めるまでの三年間、我慢を許してほしい」
「は、はい」
「じゃあ、この企画部の仕事内容についての説明から始める」と、宮前部長から第二企画部の説明を受けた。途中、「君は国内旅行やこの企画部について色々調べてきたかね」と問われた。
「はい。葛飾支店で手に入る情報には、一応すべて目を通してきました」
「うん、よし。第二企画部では国内向けのコーディネートからツアー、日帰り旅行まで手掛ける。メディアやネットなどの情報に対し、広くアンテナを張ってほしい。それでだ……」
 宮前部長の話を要約すると、第二企画部は六つのチームから成り立っている。それぞれが企画、立案し、他の部を交えて定期的に会議がある。各チームには企画のノルマが課せられており、顧客満足度が広報部や顧客対応課によって数値化され、それが昇給やボーナスなどに反映される。つまり、頑張り次第で給料に影響する、という事だ。
 俺は一抹の不安を胸に、定時となった午後六時に会社を後にした。

 翌日、俺は三十分早い八時半には与えられたデスクのPCを立ち上げていた。そして会社のホームページに飛び、国内旅行の案内にざっと目を通していた。
「おはよう、大楠君」
 その声に俺は振り返る。
「あ、おはようございます。えーっと……」
「中山だ」と首からぶら下がっているIDカードを、中山さんが見せてくれた。
「早いな、何時から来てた?」
「八時半です。よろしくお願いします、中山さん」
「そんなに頑張らなくてもいいよ。部長から聞いているだろ、うちの鷹津チーフの話」
「ええ、まあ」
「あと三年だ。気長にいこう」
 その後、続々とメンバーが入社し、ギリギリに鷹津さんが入ってきた。手には競馬新聞を持っている。
「おはようございます、鷹津チーフ。大楠武一といいます。よろしくお願いします」
 その言葉に鷹津チーフは軽く右手を挙げただけで、声すらかけてもらえなかった。
 なんだ、この熱量の無さは。
 そして朝のミーティングでも鷹津チーフは、「今日もよろしく、以上」と抑揚のない一言で終わった。残り五人を残して、喫煙室に歩いていく。
「やれやれ、企画書を上げたと思ったらすぐあれだ」
「あとノルマは三本でしたよね」
「あの人、弾くからな」
「まったく、やってられないわ」
 鷹津チームの面々は、喫煙室に入っていく鷹津さんに唾でも吐くように愚痴を言う。
「毎日、こんな感じですか?」
 俺は隣のデスクに座る立花さんに聞く。
 観光地の検索をしていた立花さんは呆れた表情で愚痴をこぼす。
「こんなもんだよ。企画が通るパーセンテージは各チームの中でずっと最下位さ。あの人、前は営業部で部長やってたらしいんだけど、定年間際になってから仕事をしなくなったこともあって閑職に追いやられ、さすがにそれはと抗議したらしくてさ、企画部のチーフを与えられたってわけ。おかげでこっちはいい迷惑だよ」
「はあ、そうなんですか」
 とんでもないタイミングで企画部に来たものだ。
「ところで立花さん、部長に出す書類のテンプレートは、これでいいんですか?」
「ん? ああ、そうそう。よく見つけたね。でも大楠君には必要ないと思うよ。鷹津チーフ、新人には目もくれないからね。以前も二人辞めていったし」
 それを聞いて一気にやる気がそがれた。あんな人間がまだ存在していたんだ。俺は思わず、喫煙室で競馬新聞を見ている鷹津チーフを睨んでしまった。そして再び立花さんに向き直り聞いた。
「じゃあ、俺は何をすればいいんですか?」
「まだ初日だから、他のチームが通した企画などを見ているといいよ。中には面白いものもあるからね」
「……はい、分かりました」
 俺はホームページで国内旅行の内容などを見ていた。仕事が出来ないという微かなストレスが滲み出てくる。十分ほどで鷹津チーフが喫煙室から出て来た。そして煙草の臭いを引き連れ自分の席に座る。昼食の時間までが異常に長く感じた。

 その夜チームのメンバーにより、新人歓迎会を鷹津チーフ抜きで行ってくれた。俺は久しぶりに酒を多めに飲んだ。チームのメンバーは鷹津チーフの悪態や、自分たちの企画の話で盛り上がっていたが、俺にとっては不味いだけの酒だった。歓迎会は二次会まで突入し、当然俺もそれについて行った。

 飼い殺しのような状態が一ヶ月ほど続いた。チームでミーティングする回数も三回だけと、他のチームと比べて異常に少ない。そして企画会議が行われたが、俺は「電話の留守番だ」と鷹津チーフから言われ、参加すらさせてもらえなかった。電話すら、ろくにかかって来ないのに。
 俺は夏の旅行企画を考えていた。夏といえば、穏やかな四万十川を舟で下りながら、鮎のフルコースなどどうだろうか。暇を持て余していた俺は必要な情報をネットで検索しながら、部長に出す企画書のテンプレートに詳しい内容を書いていった。すると企画会議が終わったチームが帰ってきた。モニター越しに鷹津チーフが俺のモニターを覗き込んでいるのが見えた。俺は慌てて振り返る。
「馬鹿か。舟が事故を起こしたらどうするつもりだ。ライフジャケットを着せたまま料理食わす気か? 余計なことをするんじゃない」
 そう俺の顔に唾を吐くように言って、自分の席に戻っていった。
「すいません」とチーフの背中に謝る事しか出来なかった。

 少しずつ一人で飲む酒の量が増えてきた。冷蔵庫に入れていた酒が空になると、一階のコンビニに買いに行く回数も増えた。
 なんなんだ、あの人は一体。
 テレビで旅行番組を見ながらも、ネガティブになっている。これではだめだと思いながらも、酒の量が増えていく。
 あの人は、何か会社に恨みでもあるのだろうか。通常では定年間際ともなると、提携している保険会社や旅館、ホテルなどや航空会社等の引き継ぎを行うのが当たり前なのだろうが、俺には引き継ぎどころか、書類の書き方さえも教えてくれない。時間を追うごとに困るのは部下だ。その点をあの人は全く気にしていない。おそらく競馬の事しか考えていないのだろう。閑職に追いやられそうになったのも納得だと思った。
 一度、立花さんに企画書の書き方を習おうとした時も、『彼にはまだ早いから、そんなことしなくてもいい』と鷹津チーフに止められた。
「企画書を書くのに早いも遅いもあるか、くそっ!」
 昼休み、屋上で俺は思わず汚い言葉が口に出た。すでに頭の中ではいくつも企画が出来ているというのに。
 もやもやを抱えたまま酒で眠る日が続いた。

 一年経ち、春の穏やかさに含まれる紫外線が強くなってきた。その間教えてもらったのは、コピーと会議のための資料作成、あとは雑用だけだった。
 俺の次に若い中山さんは『もうやってられない』と言い残し、先月退職してしまった。
 俺のボーナスの査定も低く、随分減給となっていた。
 その頃から、顔、特に額の吹き出物が多くなってきた。自分が会社の歯車になれていないストレスが、こんなにも如実に現れてくるとは思わなかった。
 金曜日、いつものように自分のデスクで、他の旅行会社の企画に一通り目を通した後、自社のホームページを見た。すると夏の国内ツアーのところに、『一泊二日、清流四万十川、鮎食べ放題ツアー』という文字が出ていた。
「はあ!?」
 俺は思わず頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
 同じチームの高田さんが俺の方を向く。
「い、いえ、なんでも。すいません」
「そう。あと一年半の我慢だからね」
 高田さんは小声で俺に言ったまま、自分の仕事に戻った。
 俺は思わず鷹津チーフの顔を見た。一瞬目が合ったが、すぐに彼は自分のパソコンに目をやった。
 第二企画部は六つのチームからなっているが、半分は東日本、俺が所属するチームと後の二チームは西日本を担当している。後の二チームから偶然同じ企画が出ていたのだろうか。いや、それはないだろう。だが自分が以前考えたツアーに酷似している。
 疑念が湧出する。
 俺はそのツアーの内容をアウトプットして立花さんに見せた。
「これって、うちからですよね?」
「ああ、珍しく鷹津チーフから案を出してきてね、結構反響が良いみたいだよ」
 間違いない。去年、自分が仮で作った案がそのまま採用されている。
 俺の心の中は、憤怒と憐憫と諦観が複雑に混ざり合っていた。

 その夜、俺は文字通り酒を浴びるほど飲んだ。喉が焼ける程アルコール度数が高い酒をストレートで飲み、口や鼻から胃液の混ざった酒を吐いてトイレで流し、またアルコールを胃袋に注ぐ。その繰り返しで気を失い、土曜日も二日酔いのまま繰り返した。日曜日は飲み疲れたのか、飲食さえ出来なかった。途中つけたテレビで旅番組をやっていたが、すぐにチャンネルを変えた。
 数日経ったある日の朝、俺は何時もの時間に目が覚めたが、精神的に起き上がれなかった。
 もうだめだ……。
 ぷつっと何か紐のようなものが切れた感じがした。我慢してきたものが一気に瓦解した。会社に休暇の連絡することも出来ず、俺は涙も出ず天井を眺める。六時半には起床していたが、十時頃まで何もできなかった。鷹津チーフからの連絡は電話ではなく、メールで『今日は休みか?』の一文だった。
 そのメールで俺は社会人としてはあるまじき、突発で会社を辞める事にした。
 心配して電話してきたり、自宅訪問してきたのは部長勢だった。
「今の部を辞めて私の部に異動しないか?」
 そのうちの一人は最大級の賛辞ともとれる言葉をくれたが、俺はもう戻るつもりはなかった。酒の影響か、すでに幻覚や幻聴が現れ、精神的に参ってしまっていたのだ。こんな状態で仕事が出来るわけがない。
 社会不適合者だ……。
 ボーナスの残りや失業保険は入ってきたが、それは酒へと消費された。社会の歯車から欠落してしまったのだ。いや辞めた会社にとって俺は歯車でもなかった。
 気を失うほど酒を飲み、睡眠時間も狂う。

 そこで区役所のケースワーカーに勧められて、初めて精神科クリニックを受診した。そこで七~八種類の症状を言われたのだ。

 初めて精神科に通って薬をもらうも、酒で薬を飲んでは吐いての繰り返しで、自殺も何度か考えた。一回首を吊ってみたが紐が細かったのか、吊った瞬間に切れて、自分の情けなさに泣きながら、結局酒に逃げた。やがて貯金も底をつき、落ちるところまで落ちたと、貯金の残高を見て思った。
 両親との不仲もあり、実家に戻ることなど考えてもなかった。
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