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コンプラ旅館
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大学の課題がひと段落つき、学業の間に死ぬほど頑張ったバイトもとうとう辞めた。
目標にしていた金額に到達したからだ。
一日中、研究結果を精査してレポートを書き、陽が落ちれば、繁華街の居酒屋で身の毛もよだつような酔っ払い相手に働いた。
全ては旅行のためだ。
僕は大学に入ってから彼女ができた。
美人で、聡明で、素晴らしい女性なのだ。
今は大学生だが、いずれ大学を卒業すれば結婚するつもりだ。
そのためには、研究で成果を残して有名な会社に勤めなければならない。
だが、大学生たるもの、麗しのキャンパスライフも送らなければならない。
僕は死ぬほど働き、彼女を温泉旅行へ連れていけるほどの小遣いを貯めたのだった。
旅行は素晴らしかった。
レンタカーの道中もおしゃべりして楽しく、僕が必死で頑張ったことを彼女は褒めてくれた。
特に言っていたわけではなかったが、彼女の方が気づいていたようだ。
さて、温泉旅館に到着し、僕と彼女はそれぞれ大浴場で入浴することにした。
この旅館は、本来値の張る高級旅館なのだが、「カップルプラン」ということで、若いカップル向けの格安プランがあったのだ。
そのせいか、大浴場には若い男が沢山いた。
僕のように彼女と旅行に来ている連中だろう。
僕が湯につかっていると、高い木造の壁越しに女性の声が聞こえた。
温泉がつながっており、木の壁の向こうは女湯のようだ。
僕は彼女に話しかけたかった。
だが、周りはそんなことしてないし、なんだか恥ずかしいのでためらった。
ああ、一声会話出来たらなあ
僕がそう思っていると、面白いものを見つけた。
女湯と男湯を仕切る木造の壁に、小さな部屋のようなものが付いている。
それはちょうど懺悔室のような、小さな人一人入る部屋だ。
湯船につかりながら入る懺悔室と言ったところか。
小屋の入り口に注意書きが書いてある。
「お話部屋 この部屋の中には小窓が付いています。小屋に入り、施錠し、小窓を開ければ、女湯にいる相手と顔を見てお話ができます。事前に壁越しに打ち合わせの上ご利用ください。なお…」
とのことだった。
他にも何か書いてあるが、面倒なので読まなかった。
おもしろい。
確かに、この方式ならのぞきはできない。
僕は彼女に声をかけた。
「ねえ!面白いものがあるよ!」
「私も見たわ!使ってみましょう!」彼女が大きな声で壁越しに返事した。
僕は半分のぼせ、心臓がどきどきした。
なんせ、入浴中の彼女の姿を見て、会話するのだから。
僕は小部屋にいそいそと入り、彼女を待った。
ただ、窓は顔も通らないような小さな窓だった。
元々大きな窓枠があるが…なぜか小さな窓がその窓枠内に作られていた。
「そこにいる?開けるわね…」
彼女がやってきた。
そして、窓を開ける。
上気した彼女が顔をのぞかせる。
僕はうっとりした。
だが、彼女の顔しか見えない。
徹底して、相手の身体は見えないようにしてある。
「いい湯ね。連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」僕は言う。
顔しか見えないのは、正直なところ残念だった。
その時、背筋を冷たいものが走った。
どこからか、鋭い視線を感じる。
誰かが僕たちを見ている。
僕はその方角を見た。
僕は叫び声をあげた。
まるで、昔の風呂屋の番頭のように…男湯と女湯を半分に見ているのだろう。
僕たちのすぐ横に窓があって小窓から鋭い視線を向けてきている。
しわが多数刻まれ、三角のメガネをした、やせた壮年の女性だった。
厳しく僕たちを見つめている。
「なんですか!あなたは」彼女が叫んだ。
「え?私はスタッフです」女性が言った。「どうぞ、お気になさらず」
「気になりますよ!」僕が言った「なんで覗いているんです?」
「気づかなかったのかしら?入口の注意書きに『監視員常駐』って書いてありましたでしょ」女性は言った。
「なんで監視員なんか…」
「最初はいなかったのよ。ホホホ」スタッフの女性はメガネを直しながら言った。「自由気ままに男女の会話を楽しんでもらってたわ。監視員なんて野暮なこともしてなかったわ」
「これじゃあ…気になって彼女と話もできませんよ」僕は言った。
「話だけですんだのかしらん」監視員の女性は笑って言った。僕はぎくりとした。「今、世間はコンプライアンスに厳しい世の中でございましょ?もともとね、その窓だって大きい窓だったのよ」
僕は、小窓の外側にある大きな窓枠を触った。
「もともとね、女湯との会話、家族との会話を楽しんでもらいたかったんですのよ。でも人間って駄目ね。どうしても歯止めがきかなくなっちゃうから…ホホホ」
「なにか起きたのですか?」
「ええ。お湯でのぼせてるんだったらよかったですけどね。色々とあってね…。血気盛んな人たちは、お湯以外でものぼせちゃうみたいでね。妙なことが起きて、それを耳にした年寄りがショックで運ばれたりして‥‥社長が頭を抱えましてね…今はあたくしみたいな世話焼き婆がいるというワケ」
「へえ…」と僕。
「ごめんなさいね。お嬢さん。こんな婆が横槍入れてね。どこから来なすったの?」
「A県です」
「まあ!素晴らしい、あそこはおいしいものが沢山ありますわね。学生さん?」
「そうなんですよ」
「まーいいわねえ。若くて勉強して、恋路を楽しんでねえ…この彼氏さんが連れてきてくれたの?」
「そうなんです。すっごく頑張ってくれて」彼女はふふと笑った。
「あーた、一生懸命頑張ったのね。その情熱分勉強は大丈夫なのかしら」
「頑張ってますよ!勉強も」僕も笑った。
そんな調子で、コンプラを見張る監視員と僕と彼女は話をつづけた。
面白い人で随分と話をした。
僕と彼女は、その後風呂を後にしたが、監視員さんの話が面白く、客室に戻っても世間話に花開いた。
そう。
世間話を堪能して、ぐっすり寝て、朝を迎えたというわけ。
僕はチェックアウト前にこの温泉のレビューを見た。
なんとほとんどのレビューで
「お話部屋の監視員おばさんが面白い」
と書いてあった。
ただなかには、
「監視員おばさんは面白いが、彼女といい感じになれなかった」
とも書いてあったりする。
それに対する旅館の返信もあった。
「当館は、非常にコンプライアンスを重視しており、かつて小部屋を閉鎖空間にしたせいで様々な男女トラブルを巻き起こし、旅館の運営に支障をきたすほどになってしまったのです。
温泉宿は男女トラブルでいがみ合いを起こす場所ではありません。
誰もが楽しく、笑って、笑顔で過ごしていただきたいのです。
イイ温泉で、疲れを癒して帰っていただく。そこに尽きるのです。
ハッキリ申し上げて、男女の仲なんて、当館でなくてもどうにでもなるのですから…
小部屋の監視はじめ、当館が取り組むコンプライアンスにご理解いただけますと幸いです。代表取締役社長」
僕は苦笑した。
まさかこんなことになるとは思わなかった。
苦労して貯めたお金で、男女コンプラ鉄壁の旅館に来るとは。
彼女は楽しそうで良かった。
だが、社長の『男女の仲なんて、当館でなくてもどうにでも』には少々腹が立ったが…
「また来ようね!」彼女は言った「監視員のおばさん、すごく面白かった。また会いたいわ」
ああ…どうもこのコンプラ鉄壁旅館を彼女は気に入ってしまったようだ。
目標にしていた金額に到達したからだ。
一日中、研究結果を精査してレポートを書き、陽が落ちれば、繁華街の居酒屋で身の毛もよだつような酔っ払い相手に働いた。
全ては旅行のためだ。
僕は大学に入ってから彼女ができた。
美人で、聡明で、素晴らしい女性なのだ。
今は大学生だが、いずれ大学を卒業すれば結婚するつもりだ。
そのためには、研究で成果を残して有名な会社に勤めなければならない。
だが、大学生たるもの、麗しのキャンパスライフも送らなければならない。
僕は死ぬほど働き、彼女を温泉旅行へ連れていけるほどの小遣いを貯めたのだった。
旅行は素晴らしかった。
レンタカーの道中もおしゃべりして楽しく、僕が必死で頑張ったことを彼女は褒めてくれた。
特に言っていたわけではなかったが、彼女の方が気づいていたようだ。
さて、温泉旅館に到着し、僕と彼女はそれぞれ大浴場で入浴することにした。
この旅館は、本来値の張る高級旅館なのだが、「カップルプラン」ということで、若いカップル向けの格安プランがあったのだ。
そのせいか、大浴場には若い男が沢山いた。
僕のように彼女と旅行に来ている連中だろう。
僕が湯につかっていると、高い木造の壁越しに女性の声が聞こえた。
温泉がつながっており、木の壁の向こうは女湯のようだ。
僕は彼女に話しかけたかった。
だが、周りはそんなことしてないし、なんだか恥ずかしいのでためらった。
ああ、一声会話出来たらなあ
僕がそう思っていると、面白いものを見つけた。
女湯と男湯を仕切る木造の壁に、小さな部屋のようなものが付いている。
それはちょうど懺悔室のような、小さな人一人入る部屋だ。
湯船につかりながら入る懺悔室と言ったところか。
小屋の入り口に注意書きが書いてある。
「お話部屋 この部屋の中には小窓が付いています。小屋に入り、施錠し、小窓を開ければ、女湯にいる相手と顔を見てお話ができます。事前に壁越しに打ち合わせの上ご利用ください。なお…」
とのことだった。
他にも何か書いてあるが、面倒なので読まなかった。
おもしろい。
確かに、この方式ならのぞきはできない。
僕は彼女に声をかけた。
「ねえ!面白いものがあるよ!」
「私も見たわ!使ってみましょう!」彼女が大きな声で壁越しに返事した。
僕は半分のぼせ、心臓がどきどきした。
なんせ、入浴中の彼女の姿を見て、会話するのだから。
僕は小部屋にいそいそと入り、彼女を待った。
ただ、窓は顔も通らないような小さな窓だった。
元々大きな窓枠があるが…なぜか小さな窓がその窓枠内に作られていた。
「そこにいる?開けるわね…」
彼女がやってきた。
そして、窓を開ける。
上気した彼女が顔をのぞかせる。
僕はうっとりした。
だが、彼女の顔しか見えない。
徹底して、相手の身体は見えないようにしてある。
「いい湯ね。連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」僕は言う。
顔しか見えないのは、正直なところ残念だった。
その時、背筋を冷たいものが走った。
どこからか、鋭い視線を感じる。
誰かが僕たちを見ている。
僕はその方角を見た。
僕は叫び声をあげた。
まるで、昔の風呂屋の番頭のように…男湯と女湯を半分に見ているのだろう。
僕たちのすぐ横に窓があって小窓から鋭い視線を向けてきている。
しわが多数刻まれ、三角のメガネをした、やせた壮年の女性だった。
厳しく僕たちを見つめている。
「なんですか!あなたは」彼女が叫んだ。
「え?私はスタッフです」女性が言った。「どうぞ、お気になさらず」
「気になりますよ!」僕が言った「なんで覗いているんです?」
「気づかなかったのかしら?入口の注意書きに『監視員常駐』って書いてありましたでしょ」女性は言った。
「なんで監視員なんか…」
「最初はいなかったのよ。ホホホ」スタッフの女性はメガネを直しながら言った。「自由気ままに男女の会話を楽しんでもらってたわ。監視員なんて野暮なこともしてなかったわ」
「これじゃあ…気になって彼女と話もできませんよ」僕は言った。
「話だけですんだのかしらん」監視員の女性は笑って言った。僕はぎくりとした。「今、世間はコンプライアンスに厳しい世の中でございましょ?もともとね、その窓だって大きい窓だったのよ」
僕は、小窓の外側にある大きな窓枠を触った。
「もともとね、女湯との会話、家族との会話を楽しんでもらいたかったんですのよ。でも人間って駄目ね。どうしても歯止めがきかなくなっちゃうから…ホホホ」
「なにか起きたのですか?」
「ええ。お湯でのぼせてるんだったらよかったですけどね。色々とあってね…。血気盛んな人たちは、お湯以外でものぼせちゃうみたいでね。妙なことが起きて、それを耳にした年寄りがショックで運ばれたりして‥‥社長が頭を抱えましてね…今はあたくしみたいな世話焼き婆がいるというワケ」
「へえ…」と僕。
「ごめんなさいね。お嬢さん。こんな婆が横槍入れてね。どこから来なすったの?」
「A県です」
「まあ!素晴らしい、あそこはおいしいものが沢山ありますわね。学生さん?」
「そうなんですよ」
「まーいいわねえ。若くて勉強して、恋路を楽しんでねえ…この彼氏さんが連れてきてくれたの?」
「そうなんです。すっごく頑張ってくれて」彼女はふふと笑った。
「あーた、一生懸命頑張ったのね。その情熱分勉強は大丈夫なのかしら」
「頑張ってますよ!勉強も」僕も笑った。
そんな調子で、コンプラを見張る監視員と僕と彼女は話をつづけた。
面白い人で随分と話をした。
僕と彼女は、その後風呂を後にしたが、監視員さんの話が面白く、客室に戻っても世間話に花開いた。
そう。
世間話を堪能して、ぐっすり寝て、朝を迎えたというわけ。
僕はチェックアウト前にこの温泉のレビューを見た。
なんとほとんどのレビューで
「お話部屋の監視員おばさんが面白い」
と書いてあった。
ただなかには、
「監視員おばさんは面白いが、彼女といい感じになれなかった」
とも書いてあったりする。
それに対する旅館の返信もあった。
「当館は、非常にコンプライアンスを重視しており、かつて小部屋を閉鎖空間にしたせいで様々な男女トラブルを巻き起こし、旅館の運営に支障をきたすほどになってしまったのです。
温泉宿は男女トラブルでいがみ合いを起こす場所ではありません。
誰もが楽しく、笑って、笑顔で過ごしていただきたいのです。
イイ温泉で、疲れを癒して帰っていただく。そこに尽きるのです。
ハッキリ申し上げて、男女の仲なんて、当館でなくてもどうにでもなるのですから…
小部屋の監視はじめ、当館が取り組むコンプライアンスにご理解いただけますと幸いです。代表取締役社長」
僕は苦笑した。
まさかこんなことになるとは思わなかった。
苦労して貯めたお金で、男女コンプラ鉄壁の旅館に来るとは。
彼女は楽しそうで良かった。
だが、社長の『男女の仲なんて、当館でなくてもどうにでも』には少々腹が立ったが…
「また来ようね!」彼女は言った「監視員のおばさん、すごく面白かった。また会いたいわ」
ああ…どうもこのコンプラ鉄壁旅館を彼女は気に入ってしまったようだ。
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