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魔法にかけられて
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キリウス
私は妖物の鼻先に立った。
目の前にいるのは、キリウスだ。
姿形は違っても、彼を感じる。
妖物の赤く燃える瞳の中に見えるのはキリウスの猛る心のようだ。
獣が大きな口を開けた。臭気が風のように顔に吹きかかった。それだけでも失神してしまいそうな邪気に私は耐えた。
「私を食べるの?キリウス」
獣は口を開けたまま赤い炎の眼で私を見下ろしている。
不思議と怖いという気持ちは湧いてこなかった。
目の前にいるのはキリウスだから。
こんな姿になるほど苦しんで、辛かったんだね。
ごめんね、私、何にもできなくて。
だから。
「私を食べてもいいよ。貴方がそうしたいなら」
私を取り込んで、貴方が楽になるなら、そうしてもいい。
今にも喰いつきそうなほど側にいながら、獣は私をじっと見つめている。
一思いに私を取り込んでしまわないのは、キリウスが迷っているのだろうか、それとも妖しが時間をかけて私を嬲るのを楽しむつもりなのだろうか。
キリウスに私の声が届いているのだろうか。
私は足を前に出して妖物に近づいてみた。
鼻先に触れるほど近くに寄ると、低く唸りながらジリッと妖物がわずかに後ずさりした。
その燃えるような赤い双眸が少しだけ光を落としたような気がする。
迷っている?
「キリウス」
私の呼びかけに妖物が耳を傾けたような気がした。
たしかに、聞こえている。私の声はちゃんと届いている・・・そう、感じた。
言おう。
貴方が帰ってきたら、1番に話したかったこと。
「あのね、キリウス、貴方に聞いてほしいことがあるの」
私は黒い獣に向かって微笑んだ。
「私、赤ちゃんができたの。貴方と私の赤ちゃんがお腹にいるのよ」
獣の唸り声が止まった。
束の間の音のない静かな空間。
突然、地面が揺れて、断末魔のような遠吠えを獣が上げた。
濡れそぼった犬が体を振るって水を弾くように、妖物の体が大きく震え、黒いスライムのような破片が飛び散る。
妖物の破片は床に落ちてしまうと、蒸発するように煙を立てながら消えた。
身震いしながら、妖物はどんどん身を落として小さくなっていく。
煙で霞がかかったみたいにぼやけていた空気が澄んでくると、目の前のものがはっきりと見えた。
私の目前には、キリウスが呆然とした顔で立っていた。
うつろだった彼の焦点が目の前の私に合う。
「・・・赤ちゃん、って・・・俺の?」
抑揚のない声でキリウスが聞いた。
「他に誰の子供だと思うの?」
「あ、うん・・・そう、だよな。俺しか、いない」
まだ、呆けているキリウスに私は微笑んで腕を広げた。
「お帰りなさい。キリウス」
「これも・・・幻覚か?」
「抱きしめてみればわかるわよ」
意思が戻ったようにキリウスの目に光が差した。眩しそうに私を見て、そして、私の体を引き寄せると抱きしめた。
私の柔らかい体の感触を確かめるように彼の腕に力が入る。
「本物のレーナだ」
キリウスは震える声でそう言った。
「レーナに会いたかった」
長い抱擁の後、キリウスは張り詰めた糸が切れたみたいに私の腕の中で意識を失った。
キリウスの体重を支え切れず、ペタンと床に腰を落とし、膝枕したキリウスの頬を撫でながら、私は泣きそうなくらい切なくなった。
彼の憔悴した顔と痩せた体と足首の鎖の切れた足枷を見ただけでも、彼が過酷な状況にいたのだと分かった。
宰相が衛兵や召使いを呼び戻して、妖物の体に取り込まれていた人たちの手当てに当たっているのが見えた。
どうやら命を落とした人はいないようで、私がホッと息をついていたら
「ローマリウス王が悪いのよ。私が優しく愛してあげたのに、拒むのだもの。ひどいでしょう。せっかくいい思いをさせてあげるって言ってるのに」
耳障りなマーガレッタ王女の甲高い声が聞こえて、そちらに目をやるとリュシエールが王女といるのが見えた。
やっぱり、キリウスは王女を拒んだんだ。だから、こんなひどい目に。
温厚な私でもマーガレッタ王女には堪えきれない怒りが湧いた。
「うん、僕はキリウスのことなんか、どうでもいいから。そういう言い訳は必要ないよ」
リュシエールがさして興味もなさそうに言う。
確かに、リュシエールはキリウスのこと、好きじゃないかもしれないけど、そんな冷たい言い方しなくたって。と、私が不服に思っていると、リュシエールは私の方を見て意味ありげに笑った。
それは、魔界の悪魔の笑いだ。美しすぎて、畏怖を感じる。
「だけどね、キリウスになにかあるとレーナが悲しむんだよ。僕はそれは嫌なんだ。君はレーナの涙の分だけ償いをしなくちゃいけない」
剣呑な言葉を吐かれているのに、マーガレッタ王女は少年の美しい顔を見つめて恍惚となっている。魔法使いの桜色の唇から洩れる音楽のような呪文をうっとりと聞いていた。
「君にロマンチックな魔法をかけてあげたよ」
気取った口調でリュシエールが王女に言った。
私はマーガレッタ王女に起こった異変を見て、悲鳴が出そうになり思わず口を覆った。
マーガレッタ王女の、あまたの男性を虜にしたであろう蠱惑的な顔は、両生類の平べったくてぬらりとした顔に変わっていた。
肉感的な体を持つ両生類。不気味でシュールな悪夢だ。
「おとぎ話のように、魔法は『真実の愛』で解けるよ。その顔でも、誰かが君を本気で愛してくれたらね」
くっくっと少年は笑った。
マーガレッタ王女が少年の恐ろしい呪いの言葉で我に返り、自分の顔を手で触ると、引きつった表情(両生類の引きつった顔って私は初めて見た)で鏡を見に走った。その後ろ姿にリュシエールが冷酷な笑みを浮かべながら楽しそうに言った。
「見た目じゃなくて、君の心を愛してくれる男性が現れるといいね」
やっぱり、少年は悪魔だ。天使のような見た目なのに笑いながら残酷なことができる。
遠くでマーガレッタ王女の狂ったような悲鳴が聞こえた。
女にとっては死ぬ方がマシな罰を受けた王女に私はほんのわずかだけど憐れみを感じて、ほんのわずかだけど魔法使いの少年を恐ろしいと感じた。
「帰ろうか、レーナ。もう用はないでしょ」
リュシエールが王女にはまったく関心がなくなったように、いつもの気軽な声でキリウスを膝枕している私に向かって声をかけた。
用はない・・・はずだけど。
「ヨークトリア国はこれでいいのかしら」
リュシエールは忙しく立ち動いている宰相のほうを見て、「いいんじゃない?この国にとっては目の上の瘤だった王女が大人しくなれば、宰相もやりやすいだろうし」
私は頷いた。今は、一刻でも早くローマリウスに戻ってキリウスを休ませてあげたかった。
リュシエールは来たときと同様、ローマリウスとヨークトリアをつなげる魔法をかけて、私とキリウスをローマリウスに戻してくれた。
私は妖物の鼻先に立った。
目の前にいるのは、キリウスだ。
姿形は違っても、彼を感じる。
妖物の赤く燃える瞳の中に見えるのはキリウスの猛る心のようだ。
獣が大きな口を開けた。臭気が風のように顔に吹きかかった。それだけでも失神してしまいそうな邪気に私は耐えた。
「私を食べるの?キリウス」
獣は口を開けたまま赤い炎の眼で私を見下ろしている。
不思議と怖いという気持ちは湧いてこなかった。
目の前にいるのはキリウスだから。
こんな姿になるほど苦しんで、辛かったんだね。
ごめんね、私、何にもできなくて。
だから。
「私を食べてもいいよ。貴方がそうしたいなら」
私を取り込んで、貴方が楽になるなら、そうしてもいい。
今にも喰いつきそうなほど側にいながら、獣は私をじっと見つめている。
一思いに私を取り込んでしまわないのは、キリウスが迷っているのだろうか、それとも妖しが時間をかけて私を嬲るのを楽しむつもりなのだろうか。
キリウスに私の声が届いているのだろうか。
私は足を前に出して妖物に近づいてみた。
鼻先に触れるほど近くに寄ると、低く唸りながらジリッと妖物がわずかに後ずさりした。
その燃えるような赤い双眸が少しだけ光を落としたような気がする。
迷っている?
「キリウス」
私の呼びかけに妖物が耳を傾けたような気がした。
たしかに、聞こえている。私の声はちゃんと届いている・・・そう、感じた。
言おう。
貴方が帰ってきたら、1番に話したかったこと。
「あのね、キリウス、貴方に聞いてほしいことがあるの」
私は黒い獣に向かって微笑んだ。
「私、赤ちゃんができたの。貴方と私の赤ちゃんがお腹にいるのよ」
獣の唸り声が止まった。
束の間の音のない静かな空間。
突然、地面が揺れて、断末魔のような遠吠えを獣が上げた。
濡れそぼった犬が体を振るって水を弾くように、妖物の体が大きく震え、黒いスライムのような破片が飛び散る。
妖物の破片は床に落ちてしまうと、蒸発するように煙を立てながら消えた。
身震いしながら、妖物はどんどん身を落として小さくなっていく。
煙で霞がかかったみたいにぼやけていた空気が澄んでくると、目の前のものがはっきりと見えた。
私の目前には、キリウスが呆然とした顔で立っていた。
うつろだった彼の焦点が目の前の私に合う。
「・・・赤ちゃん、って・・・俺の?」
抑揚のない声でキリウスが聞いた。
「他に誰の子供だと思うの?」
「あ、うん・・・そう、だよな。俺しか、いない」
まだ、呆けているキリウスに私は微笑んで腕を広げた。
「お帰りなさい。キリウス」
「これも・・・幻覚か?」
「抱きしめてみればわかるわよ」
意思が戻ったようにキリウスの目に光が差した。眩しそうに私を見て、そして、私の体を引き寄せると抱きしめた。
私の柔らかい体の感触を確かめるように彼の腕に力が入る。
「本物のレーナだ」
キリウスは震える声でそう言った。
「レーナに会いたかった」
長い抱擁の後、キリウスは張り詰めた糸が切れたみたいに私の腕の中で意識を失った。
キリウスの体重を支え切れず、ペタンと床に腰を落とし、膝枕したキリウスの頬を撫でながら、私は泣きそうなくらい切なくなった。
彼の憔悴した顔と痩せた体と足首の鎖の切れた足枷を見ただけでも、彼が過酷な状況にいたのだと分かった。
宰相が衛兵や召使いを呼び戻して、妖物の体に取り込まれていた人たちの手当てに当たっているのが見えた。
どうやら命を落とした人はいないようで、私がホッと息をついていたら
「ローマリウス王が悪いのよ。私が優しく愛してあげたのに、拒むのだもの。ひどいでしょう。せっかくいい思いをさせてあげるって言ってるのに」
耳障りなマーガレッタ王女の甲高い声が聞こえて、そちらに目をやるとリュシエールが王女といるのが見えた。
やっぱり、キリウスは王女を拒んだんだ。だから、こんなひどい目に。
温厚な私でもマーガレッタ王女には堪えきれない怒りが湧いた。
「うん、僕はキリウスのことなんか、どうでもいいから。そういう言い訳は必要ないよ」
リュシエールがさして興味もなさそうに言う。
確かに、リュシエールはキリウスのこと、好きじゃないかもしれないけど、そんな冷たい言い方しなくたって。と、私が不服に思っていると、リュシエールは私の方を見て意味ありげに笑った。
それは、魔界の悪魔の笑いだ。美しすぎて、畏怖を感じる。
「だけどね、キリウスになにかあるとレーナが悲しむんだよ。僕はそれは嫌なんだ。君はレーナの涙の分だけ償いをしなくちゃいけない」
剣呑な言葉を吐かれているのに、マーガレッタ王女は少年の美しい顔を見つめて恍惚となっている。魔法使いの桜色の唇から洩れる音楽のような呪文をうっとりと聞いていた。
「君にロマンチックな魔法をかけてあげたよ」
気取った口調でリュシエールが王女に言った。
私はマーガレッタ王女に起こった異変を見て、悲鳴が出そうになり思わず口を覆った。
マーガレッタ王女の、あまたの男性を虜にしたであろう蠱惑的な顔は、両生類の平べったくてぬらりとした顔に変わっていた。
肉感的な体を持つ両生類。不気味でシュールな悪夢だ。
「おとぎ話のように、魔法は『真実の愛』で解けるよ。その顔でも、誰かが君を本気で愛してくれたらね」
くっくっと少年は笑った。
マーガレッタ王女が少年の恐ろしい呪いの言葉で我に返り、自分の顔を手で触ると、引きつった表情(両生類の引きつった顔って私は初めて見た)で鏡を見に走った。その後ろ姿にリュシエールが冷酷な笑みを浮かべながら楽しそうに言った。
「見た目じゃなくて、君の心を愛してくれる男性が現れるといいね」
やっぱり、少年は悪魔だ。天使のような見た目なのに笑いながら残酷なことができる。
遠くでマーガレッタ王女の狂ったような悲鳴が聞こえた。
女にとっては死ぬ方がマシな罰を受けた王女に私はほんのわずかだけど憐れみを感じて、ほんのわずかだけど魔法使いの少年を恐ろしいと感じた。
「帰ろうか、レーナ。もう用はないでしょ」
リュシエールが王女にはまったく関心がなくなったように、いつもの気軽な声でキリウスを膝枕している私に向かって声をかけた。
用はない・・・はずだけど。
「ヨークトリア国はこれでいいのかしら」
リュシエールは忙しく立ち動いている宰相のほうを見て、「いいんじゃない?この国にとっては目の上の瘤だった王女が大人しくなれば、宰相もやりやすいだろうし」
私は頷いた。今は、一刻でも早くローマリウスに戻ってキリウスを休ませてあげたかった。
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