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外伝
古生物学者 福井謙一の場合①
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福井恭一は研究室の中で静かな時間を過ごしていた。机の上に広がる化石の数々、貝殻や小さな骨片、それらのひとつひとつを整理しながら、彼はその形状や構造を観察していた。古生物学者として、福井の目は常に過去の生命の痕跡に焦点を当てている。しかし、その日常は、ただ静かに化石を触っているだけの時間ではなかった。新しい発見や冒険の匂いが、どこか遠くから香り始めていた。
書類が散乱した机の上には、新聞が広げられている。だが、その新聞の内容に福井の関心は薄かった。トップに掲載された記事は、政府がアラスカを購入したというニュースだ。遠く離れた土地の話に、福井は興味を示さない。古生物学者として彼が関心を持つべきなのは、化石や過去の生物に関する新たな知見だった。
「アラスカ? 政府が買おうが、どうでもいいことだ」福井は無意識に独り言を呟きながら、目の前の貝化石に集中していた。確かに、アラスカという地名には少しも興味を引かれるところはなかった。そんな彼の思考を遮るように、ドアが軽くノックされる音が響いた。
「どうぞ」福井は無造作に返事をする。
すると、ドアの向こうから生徒が顔を覗かせた。その表情には興奮が溢れていた。
「教授、知ってますか? 政府がアラスカを購入したこと」
福井は新聞を一瞥し、無関心を装って答えた。
「それくらい知ってるさ。いくら研究熱心でも、国を左右する出来事を見逃すほどバカじゃない。そうはいっても、私には関係ない話だがね」
しかし、その生徒はひるむことなく、むしろその目を輝かせて続けた。
「先生、それは違います。ほら、ロシアでは冷凍マンモスが見つかったでしょう? 同じ極寒の地であれば、アラスカにもマンモスが眠っているということもありうるのでは?」
その瞬間、福井の心に一筋の光が差し込んだ。冷凍マンモスの話は確かに聞いたことがある。ロシアで発見された冷凍マンモスは、時折ニュースで取り上げられ、その保存状態の素晴らしさに驚かされていた。しかし、アラスカとなると、なぜその可能性に気づかなかったのかと、福井自身がその鈍さを悔いた。
「なるほど、アラスカにも可能性があるというわけか」福井は言葉を呑み込み、しばしの間沈黙した。その後、重い腰を上げるように、口を開いた。「よし、分かった。私は明日からアラスカに行く」
生徒は驚き、目を大きく見開いた。「え、明日ですか?」
「そうだ。明日だ」福井はその言葉に決意を込めて答えた。
「政府が金鉱を掘り進めていると聞いた。もし彼らの採掘作業で、マンモスの化石が傷つけられでもしたら、それは古生物界にとって大きな損失だ」
福井の表情は真剣そのものだった。彼のモットーは常に「即断即決」であり、研究に対する熱意も、時には人を驚かせるほど突き進むものだった。生徒が呆然とする中、福井はもう一度強い意志を持って言い放った。
「まあ、そういうことだ。当分、授業は休講だ。さあ、他の生徒たちに知らせてきてくれ」
生徒は言葉に詰まりながらも、「わかりました!」と答えて、急いで部屋を出て行った。その後ろ姿を見送った福井は、少し考え込んだ。
「アラスカという極寒の地で研究を進めるのは大変だぞ」と、ふと心の中で呟いた。だが、すぐにその考えは消え去った。どんな困難が待ち受けていようと、福井にとってはそれがどれほどの価値のある仕事であるかが重要だった。化石が眠っている可能性がある地で、彼の研究が進むならば、何も恐れることはなかった。
「さて、準備を始めるか」福井は深呼吸をし、机の上に散らばった書類を整理しながら、自分の決意を新たにした。
**
「寒い、寒すぎる」――それが、アラスカに到着してからの福井恭一の第一声だった。
氷点下の空気が頬を刺し、鼻の奥を焼くように冷たい。白い息がすぐに霧散し、足元には雪が厚く積もっている。遠くに見える山脈も、冬の厳しさを物語るかのように、どこまでも白い雪に覆われていた。
アラスカは極寒の地と聞いてはいたが、これほどまでとは思わなかった。厚手のコートを羽織ってきたつもりだったが、吹き付ける風の冷たさは骨の髄まで突き刺さる。
「ほら、言ったでしょう? 『その服装じゃあ、まずい』って」と、通訳の柿沼が肩をすくめながら笑った。
柿沼の服装は完璧だった。頑丈そうな防寒ジャケットに毛皮の帽子、耳当てまで装備している。福井は思わずため息をついた。無計画な自分の性格を、こういうときに呪いたくなる。
福井はアラスカに来るにあたって、柿沼という通訳を雇った。思い立った翌日に出発するという強引なスケジュールにもかかわらず、通訳を確保できたのには理由がある。冷凍マンモスの可能性を指摘した生徒の父親――それが柿沼だったのだ。
雪道を進むたびに靴がきしみ、冷たい風が首筋に入り込んでくる。アラスカの大地は、容赦なく福井の体温を奪い続けた。
「アラスカへの道のりは過酷だったな」と、福井は自嘲気味に呟いた。「よし、行こう」と思い立っても、待ち受けていたのは長い船旅だった。海上での数週間、冷たい海風と荒れた波に耐える日々。船酔いに苦しみながら、やっとの思いで到着した地が、さらに過酷だとは皮肉なものだ。
福井のモットーは即断即決――だが、それは裏を返せば無計画の証拠でもある。
「それで、どうするんです、教授?」柿沼が尋ねた。彼の吐く息も白く、額には小さな氷の粒がついていた。
「どうするって、まずは現地の案内人を雇うのが優先だろう。土地に詳しいだけじゃなく、地層にも明るい人物が適任だな」
そう言ったものの、内心では「かなり贅沢だな」と苦笑した。アラスカの現地人で、そんな専門知識を持つ人間がいるかどうか、かなり怪しい。無理な注文をしているのは承知の上だった。
「教授、こうするのはどうですか? ひとまず政府の人間と接触をとる。そして、採掘員を借りましょう。金鉱を掘っている彼らなら、少しは土地に詳しいでしょう。それに、冷凍マンモスを見つけた時に、人手がなくちゃなりません」
柿沼の提案はもっともだった。現地のことを知らない自分たちだけで探索するのは無謀だ。採掘員なら、地層の知識も多少はあるだろうし、何よりも人数が必要だ。
「その通りだな。よし、こちらに来ている勝海舟に会うとするか」
福井がそう言った瞬間、柿沼は目を丸くした。
「ちょっと待った。教授、海軍将軍にそう簡単に会えるわけがないでしょう」
「安心しろ。勝とは子供の頃からの付き合いだ。きっと理解してくれるさ」
**
勝海舟がいる政府の建物は、アラスカの雪原にそびえ立つ異質な存在だった。重厚な扉を開けると、暖房の効いた空気が迎え入れる。長旅で凍えた福井の頬がじんわりと温まり、思わずホッとした。
「なるほど、そういうわけか」勝海舟は福井の説明を聞き、困った顔で眉をひそめた。
「ダメなのかい? 古い友人の頼みでも?」
「福井、君の提案には穴がある。冷凍マンモスを見つけても、それは君の自己満足だ。政府にとって、何のメリットもない」
その言葉に、福井は「しまった」と額をピシャリと叩いた。勢いだけで行動してきた自分の浅はかさに気づく。勝は変わらず冷静で現実的だった。
「君の行動力は評価するが、無計画すぎる。こっちも金の採掘で忙しいんだ。諦めて帰ってくれ」
しかし、福井は簡単には諦められない。探求心と使命感が、彼の背中を押していた。
「これならどうだ? 冷凍マンモスを見つけたら、それを展示するんだ。『アラスカ購入のもう一つの理由』として、国民に示す。先見の明があったことを証明できる」
勝海舟は深いため息をついた。彼の視線が窓の外、白銀の大地へと向けられる。
「冷凍マンモスで国民が納得するとは思えない。でも、一部を持ち帰り、残りは他国に売るというのなら、政府の懐も潤うだろう。それが最大限の譲歩だ」
福井は唇を噛んだ。友人としての信頼と、国家を背負う立場――勝海舟の葛藤が伝わってきた。
「分かった。必ず成果を上げるよ」
アラスカの冷たい風が再び吹き込んできた。福井は固く拳を握りしめ、遠く広がる雪原を見つめた。この極寒の地に眠る未知の歴史を掘り起こすために――。
書類が散乱した机の上には、新聞が広げられている。だが、その新聞の内容に福井の関心は薄かった。トップに掲載された記事は、政府がアラスカを購入したというニュースだ。遠く離れた土地の話に、福井は興味を示さない。古生物学者として彼が関心を持つべきなのは、化石や過去の生物に関する新たな知見だった。
「アラスカ? 政府が買おうが、どうでもいいことだ」福井は無意識に独り言を呟きながら、目の前の貝化石に集中していた。確かに、アラスカという地名には少しも興味を引かれるところはなかった。そんな彼の思考を遮るように、ドアが軽くノックされる音が響いた。
「どうぞ」福井は無造作に返事をする。
すると、ドアの向こうから生徒が顔を覗かせた。その表情には興奮が溢れていた。
「教授、知ってますか? 政府がアラスカを購入したこと」
福井は新聞を一瞥し、無関心を装って答えた。
「それくらい知ってるさ。いくら研究熱心でも、国を左右する出来事を見逃すほどバカじゃない。そうはいっても、私には関係ない話だがね」
しかし、その生徒はひるむことなく、むしろその目を輝かせて続けた。
「先生、それは違います。ほら、ロシアでは冷凍マンモスが見つかったでしょう? 同じ極寒の地であれば、アラスカにもマンモスが眠っているということもありうるのでは?」
その瞬間、福井の心に一筋の光が差し込んだ。冷凍マンモスの話は確かに聞いたことがある。ロシアで発見された冷凍マンモスは、時折ニュースで取り上げられ、その保存状態の素晴らしさに驚かされていた。しかし、アラスカとなると、なぜその可能性に気づかなかったのかと、福井自身がその鈍さを悔いた。
「なるほど、アラスカにも可能性があるというわけか」福井は言葉を呑み込み、しばしの間沈黙した。その後、重い腰を上げるように、口を開いた。「よし、分かった。私は明日からアラスカに行く」
生徒は驚き、目を大きく見開いた。「え、明日ですか?」
「そうだ。明日だ」福井はその言葉に決意を込めて答えた。
「政府が金鉱を掘り進めていると聞いた。もし彼らの採掘作業で、マンモスの化石が傷つけられでもしたら、それは古生物界にとって大きな損失だ」
福井の表情は真剣そのものだった。彼のモットーは常に「即断即決」であり、研究に対する熱意も、時には人を驚かせるほど突き進むものだった。生徒が呆然とする中、福井はもう一度強い意志を持って言い放った。
「まあ、そういうことだ。当分、授業は休講だ。さあ、他の生徒たちに知らせてきてくれ」
生徒は言葉に詰まりながらも、「わかりました!」と答えて、急いで部屋を出て行った。その後ろ姿を見送った福井は、少し考え込んだ。
「アラスカという極寒の地で研究を進めるのは大変だぞ」と、ふと心の中で呟いた。だが、すぐにその考えは消え去った。どんな困難が待ち受けていようと、福井にとってはそれがどれほどの価値のある仕事であるかが重要だった。化石が眠っている可能性がある地で、彼の研究が進むならば、何も恐れることはなかった。
「さて、準備を始めるか」福井は深呼吸をし、机の上に散らばった書類を整理しながら、自分の決意を新たにした。
**
「寒い、寒すぎる」――それが、アラスカに到着してからの福井恭一の第一声だった。
氷点下の空気が頬を刺し、鼻の奥を焼くように冷たい。白い息がすぐに霧散し、足元には雪が厚く積もっている。遠くに見える山脈も、冬の厳しさを物語るかのように、どこまでも白い雪に覆われていた。
アラスカは極寒の地と聞いてはいたが、これほどまでとは思わなかった。厚手のコートを羽織ってきたつもりだったが、吹き付ける風の冷たさは骨の髄まで突き刺さる。
「ほら、言ったでしょう? 『その服装じゃあ、まずい』って」と、通訳の柿沼が肩をすくめながら笑った。
柿沼の服装は完璧だった。頑丈そうな防寒ジャケットに毛皮の帽子、耳当てまで装備している。福井は思わずため息をついた。無計画な自分の性格を、こういうときに呪いたくなる。
福井はアラスカに来るにあたって、柿沼という通訳を雇った。思い立った翌日に出発するという強引なスケジュールにもかかわらず、通訳を確保できたのには理由がある。冷凍マンモスの可能性を指摘した生徒の父親――それが柿沼だったのだ。
雪道を進むたびに靴がきしみ、冷たい風が首筋に入り込んでくる。アラスカの大地は、容赦なく福井の体温を奪い続けた。
「アラスカへの道のりは過酷だったな」と、福井は自嘲気味に呟いた。「よし、行こう」と思い立っても、待ち受けていたのは長い船旅だった。海上での数週間、冷たい海風と荒れた波に耐える日々。船酔いに苦しみながら、やっとの思いで到着した地が、さらに過酷だとは皮肉なものだ。
福井のモットーは即断即決――だが、それは裏を返せば無計画の証拠でもある。
「それで、どうするんです、教授?」柿沼が尋ねた。彼の吐く息も白く、額には小さな氷の粒がついていた。
「どうするって、まずは現地の案内人を雇うのが優先だろう。土地に詳しいだけじゃなく、地層にも明るい人物が適任だな」
そう言ったものの、内心では「かなり贅沢だな」と苦笑した。アラスカの現地人で、そんな専門知識を持つ人間がいるかどうか、かなり怪しい。無理な注文をしているのは承知の上だった。
「教授、こうするのはどうですか? ひとまず政府の人間と接触をとる。そして、採掘員を借りましょう。金鉱を掘っている彼らなら、少しは土地に詳しいでしょう。それに、冷凍マンモスを見つけた時に、人手がなくちゃなりません」
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福井は唇を噛んだ。友人としての信頼と、国家を背負う立場――勝海舟の葛藤が伝わってきた。
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