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第6章
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追い風は、ジーグエたちを半日も早く北部基地に届けてくれた。
基地はとっくに放棄され、荒れ果てたままの姿で残っていた。多くの竜を抱えていたこの場所は、混乱もまた大きかった。壁に残る、人の身長くらいありそうな長い爪痕。見る影もなく押しつぶされた執務机。窓ガラスは割れ、壁には幾筋ものヒビが入り、あちこちに植えられていた黄色い花はすべて掘り返され、踏みにじられ、ばらばらに散らされていた。
様変わりした基地を歩く。からっぽの竜舎の端、いつも目印に掛けられていた黄色い花のリースは、奇蹟的にまだあった。
「リリューシェ」
何日も替えられていない、すっかりふやけきった藁のうえで、それでも彼女は静かに眠っていた。彼女は、汚い床敷きがなにより嫌いなはずなのに。
伏せられていたまぶたがゆっくりと開き、その紅い瞳がジーグエを捕らえた。裂いたばかりの血の色。命の色。互いに互いが怖かった初めての対面で、それでもジーグエが魅入られた色。
「何度もいなくなって、ごめん」
ためらわずに、その首に抱き着いた。ひんやりとした鱗からはいまも、深い森の匂いがする。
――王龍を引きずり下ろせばいい。
異様な雰囲気にそわそわするワーゴをなだめながら、トーラは言った。
――あの龍が長龍であるかぎり、この状況は変わらない。幸い、拡鱗が始まっている。各地の龍は群れに下るために集まっているけれど、中には勝負を仕掛けるものもいるはず。
――勝負?
――どちらが長にふさわしいか。彼らはそれを勝負で決める。
先に乗ったエルが、急かすように振り返った。
――王龍と戦って勝てる竜なんているのか?
あの巨体に匹敵する大きな竜は、竜団にはいない。数十で襲い掛かれば別だろうが、一対一で敵うものなど、ジーグエには想像できなかった。しかも、相手は金懐花を持っている。それを持ち出されては、いくら人に味方してくれても、手出しができない。ジーグエが弱気なことを言うと、トーラははじめて、口元に笑みを乗せた。
――龍の勝負は単純な肉対戦だけじゃない。それにうちには、金懐花なんて目じゃない子がいるでしょう?
まったく、簡単に無茶を言ってくれる。
鞍は一番軽いものにした。防具は手袋とゴーグルのみ。靴も腿まで覆う騎乗用ではなく、足首までの陸上用にして、踵に仕込んだナイフは捨てる。
できるだけそぎ落とした装備は、毎日の哨戒任務にすら足りない。まあ、いいか。どうせ自分は落ちた時点で、終わりだ。その後の備えなどいらなかった。
「ジーク!」
鞍にまたがって手綱を手に巻きつけたとき、ばたばたと駆けこんできた。いったいどこからうわさを聞き付けたのか、牢に入っていたはずのミスミは、髪を振り乱しながら呼吸を整える間もなく何かを投げつける。慌てて受け止めると、弩弓だった。
「なんてもん投げてよこすんだよ」
「持ってきなさい」
「え、いいよ。大した効果ないし、重いし」
「あなた自身が一番重たいお荷物なんだから、少しは役に立てって言ってるんです!」
さすがにひどくないか?
とはいえ、まあ一理ある。お荷物がさらに重くなることを心で詫びながら武器を背負い、リリの首元を軽く叩いた。
ぶわりと両翼が広がる。
「行ってくる」
ミスミの返事を聞く前に、リリは風のなかに躍り出た。水に落ちたような衝撃と静止、その直後にはもう、彼女は風を従えている。
大きな羽ばたきをひとつ。ぐんと速度を増して前をにらむ。
なんだか、とんでもないことになったなあ。
矢のように飛ぶリリの負担を軽くするため、ぴったりとその身体に沿うように身をかがめながら、ジーグエの意識は、眠たい座学の最中みたいにぼんやりとたゆたっていた。
この作戦はたぶん失敗する。
たしかにリリューシェは優秀な竜だ。賢く肝が据わっていて、何よりも速い。それでも、あの巨大な王龍を退けられるかといえば、むずかしいように思えた。よくて相打ち、悪ければジーグエどころかリリも死ぬ。そのうえ、王龍を倒せたとて、本当に状況が変わるかどうかはわからない。
何をやってるんだろうな、俺は。
ぼんやり駆竜車に乗っていたら、いつの間にか異国の地に踏み入れていたような気分だ。せめてトーラかミスミに、助言を求めればよかったか。これから何が起こるのか、何をなさなければならないのか、いまいちぴんと来ていない。それを焦ってもいないのだから、おかしかった。死にに行くようなものだというのに。
気流が乱れ、ミスミから受け取った弩弓が背中で跳ねる。彼もわかっていたのかもしれない。最後に見た必死な顔はなかなかにおもしろかった。
リリは、いい瞬間に飛んでくれた。あいつはきっと、謝ろうとしていたから。
謝ってほしくなかった。謝らせたくなかった。罪がないとは言わない。けれどもし自分に裁く権利があるなら、全部許してやりたかった。えこひいきだ偽善だと後ろ指をさされたって全然かまわない。だってあいつは、特別だから。
でも自分にその権利はないから。だから、できることをして、そして言ってやるのだ。「な。何とかなっただろ」って。
リリューシェが吠える。いつの間にか、龍の群れがすぐそこにあった。
でかい。
わかってはいたが、あらためてそのでかさにおののく。片翼だけで、リリの体長くらいは軽くあるんじゃないか。コバエのように周りを飛び回る飛龍。降りてこいというように、あるいは忠誠を誓うように、地上から見上げては咆哮する駆龍。近くには見えないが、おそらく泳龍もこの様子をうかがっているのだろう。
ちらりと、赤い瞳がジーグエを見た。頷く。
ぐんと身体を上にひっぱられる感覚。ゆったりと回遊する王竜の鼻先に躍り出たリリは、ぎゃう、と挑発の声を上げた。人の頭ほどもありそうな青い目玉が、ぎょろっとこちらを向いた。その鼻先に向けて、ジーグエは矢を放つ。
当たった。
ぞおう、と空気がゆれる。王龍の吸気でたわんだ風が、咆哮となって放たれる。始まった。次の矢をつがえながら出方を見定める、と、目の前の身体はこちらに向かってくるでもなく、ゆっくりと上昇し始めた。なんだ? 翼が上下するたび、津波のような風が全身を打って、たまらず距離をとると、リリューシェもその後を追う。
上へ上へ。さらに上へ。舌を噛みそうなほど加速したリリの背中にしがみつく。龍たちはどうやら、上昇速度を競っているようだった。
これなら、勝機があるかもしれない。王龍の羽ばたきは確かに脅威だが、身体が大きい分、当然重量だって相当なものだ。もはや打撃に近い風圧を受けないよう、リリは器用に王龍の背後を取りながら、巨大な龍の腰、背中、肩、と徐々に高度を増していく。
しかしそこから膠着した。気流の乱れは激しくなり、呼吸が苦しくなってくる。逆に王竜は加速していた。まるで巨大な岩が転がるときのように、はじめは遅くてもその質量を武器にするかのように、じわりじわりと早くなる。木にしがみつくような恰好のまま、ジーグエはなんとか狙いをつけると、残りの矢をすべて放ち、武器を捨てた。分厚い底敷きで守られた靴も脱ぎ捨てる。膠着していた二頭の距離が、またじわじわと縮まり始める。
いける。これなら。
さっと辺りが白くなる。雲のなかに入った。細かい水滴が撫でるようにびっしょりと全身を濡らす。この分じゃゴーグルも役に立たない。投げ捨てようと片手を手綱から離したとき。鐙にひっかけていた足が、つるっとすべった。
あ。
びん、と肩が痛む。腕が抜けなかったのは奇跡だ。巻きつけていた左手の手綱と腰の命綱だけで、ジーグエはリリにぶら下がった。落ちると言うよりひっぱられると言った方が正しい力が、肩と腰にかかり、呻く。気遣うリリの速度が落ちた。あっという間に、王龍との距離が広がっていく。
ここまでだな。
ためらいはなかった。
「行け!」
ジーグエは、腰元に忍ばせていた細い短剣を抜いた。命綱を切ると、ぶらんと身体がゆれだした。あとは、手を離せばいい。この竜はきっと、勝ってくれる。
ぐん、と強く手を引っぱられた。いや、正確には、手綱に絡まった腕を引かれた。リリが上体を水平にし、大きく軌道を変えたのだ。ふわっと浮いた身体が、叩きつけるように鞍に落ちる。
「は?」
ぎゃう! と短く吠えられ、我に返った。助けたのだ、自分を。
「ばか、追いかけるのが先だろ!」
叱咤はすぐに風に押し流されて、リリの耳には届かない。ぱっと両翼を広げ、ときおり優雅に羽ばたきながら、ぐるぐると旋回している。仰のくと、王龍のしっぽが見えた。
ああ、やっぱり。
じわりと苦いものがこみ上げる。気負っていなかったくせに、負けた途端に悔しがるのはお門違いだ。けれど、悔しかった。あと少しだったのに。自分が、邪魔をしてしまった。自分がいなければ、リリはきっと、勝っていたのに。
ゆるゆると回るリリの背中でうなだれているうちに、変なことに気づいた。段々と速さが増しているのだ。そのうえ、ゆっくりその場を回っているだけなはずなのに、どんどん空気が冷たくなっていく。
――上昇気流。
は、と顔をあげる。またひとつ、羽ばたきをして、速度があがる。ゆっくり、でも確実に。波に乗った小舟のように。まだ負けていないと、励ますように。
「まだ、やれるか?」
黒曜の鱗で覆われた身体に額をこすりつける。彼女は肯定するように短く鳴いた。そうか。なら。
「行こう」
ぐわりと両肩の筋肉が盛り上がる。爆発するような速度で、リリューシェは飛び始めた。
灰色の雲はまだ抜けない。その奥に消えようとしていた王龍の背中が、ぐんぐんと近づいてくる。いくらなんでも、追いつくのが早すぎる。訝しみながら薄目で様子を観察していると、その飛び方がどこかおかしいことに気づいた。
――麻痺毒か。
笑い出しそうになる。
渡された弩弓、その矢の先に仕込まれていたに違いない。あの竜医のことだから、きっと致死性のものではないだろうけど、こんな巨大な龍に効く濃度で仕込んでいたなら、せめてひと言いってくれ。
特に矢を撃ちこんだ左の羽が動かないようで、王龍は苦悶の声を上げている。その周りを舞うようにくるりと周回しながら、リリは風に乗りどんどんと高度を上げていった。尻尾の先、後肢の爪、腹、右翼の先端、肩先、首――頭。
青い目と視線が合った。
「飛べ!」
耳元で風が唸る。風圧はますます強くなり、ジーグエは目を閉じた。今度こそ落ちないように、腕と腿と全身でしがみつく。身体の下で躍動する肉体を感じる。
ぱっと、視界が白で塗りつぶされた。
身体が軽くなる。ジーグエたちを地上へ引き留めようとしていた力がすべて霧散し、ぽんっと栓が抜けたように、音の波が消えていく。
そっと目を開いた。
抜けるような蒼穹。その下に広がる雲海は、傾き始めた西日に照らされ、金色に輝いている。
王龍はいつまでも雲の海から浮かんでこなかった。まるで金懐花を敷き詰めたような景色のなかに、一人と一頭の寄り添う影だけがぽっかりと浮かんでいた。
基地はとっくに放棄され、荒れ果てたままの姿で残っていた。多くの竜を抱えていたこの場所は、混乱もまた大きかった。壁に残る、人の身長くらいありそうな長い爪痕。見る影もなく押しつぶされた執務机。窓ガラスは割れ、壁には幾筋ものヒビが入り、あちこちに植えられていた黄色い花はすべて掘り返され、踏みにじられ、ばらばらに散らされていた。
様変わりした基地を歩く。からっぽの竜舎の端、いつも目印に掛けられていた黄色い花のリースは、奇蹟的にまだあった。
「リリューシェ」
何日も替えられていない、すっかりふやけきった藁のうえで、それでも彼女は静かに眠っていた。彼女は、汚い床敷きがなにより嫌いなはずなのに。
伏せられていたまぶたがゆっくりと開き、その紅い瞳がジーグエを捕らえた。裂いたばかりの血の色。命の色。互いに互いが怖かった初めての対面で、それでもジーグエが魅入られた色。
「何度もいなくなって、ごめん」
ためらわずに、その首に抱き着いた。ひんやりとした鱗からはいまも、深い森の匂いがする。
――王龍を引きずり下ろせばいい。
異様な雰囲気にそわそわするワーゴをなだめながら、トーラは言った。
――あの龍が長龍であるかぎり、この状況は変わらない。幸い、拡鱗が始まっている。各地の龍は群れに下るために集まっているけれど、中には勝負を仕掛けるものもいるはず。
――勝負?
――どちらが長にふさわしいか。彼らはそれを勝負で決める。
先に乗ったエルが、急かすように振り返った。
――王龍と戦って勝てる竜なんているのか?
あの巨体に匹敵する大きな竜は、竜団にはいない。数十で襲い掛かれば別だろうが、一対一で敵うものなど、ジーグエには想像できなかった。しかも、相手は金懐花を持っている。それを持ち出されては、いくら人に味方してくれても、手出しができない。ジーグエが弱気なことを言うと、トーラははじめて、口元に笑みを乗せた。
――龍の勝負は単純な肉対戦だけじゃない。それにうちには、金懐花なんて目じゃない子がいるでしょう?
まったく、簡単に無茶を言ってくれる。
鞍は一番軽いものにした。防具は手袋とゴーグルのみ。靴も腿まで覆う騎乗用ではなく、足首までの陸上用にして、踵に仕込んだナイフは捨てる。
できるだけそぎ落とした装備は、毎日の哨戒任務にすら足りない。まあ、いいか。どうせ自分は落ちた時点で、終わりだ。その後の備えなどいらなかった。
「ジーク!」
鞍にまたがって手綱を手に巻きつけたとき、ばたばたと駆けこんできた。いったいどこからうわさを聞き付けたのか、牢に入っていたはずのミスミは、髪を振り乱しながら呼吸を整える間もなく何かを投げつける。慌てて受け止めると、弩弓だった。
「なんてもん投げてよこすんだよ」
「持ってきなさい」
「え、いいよ。大した効果ないし、重いし」
「あなた自身が一番重たいお荷物なんだから、少しは役に立てって言ってるんです!」
さすがにひどくないか?
とはいえ、まあ一理ある。お荷物がさらに重くなることを心で詫びながら武器を背負い、リリの首元を軽く叩いた。
ぶわりと両翼が広がる。
「行ってくる」
ミスミの返事を聞く前に、リリは風のなかに躍り出た。水に落ちたような衝撃と静止、その直後にはもう、彼女は風を従えている。
大きな羽ばたきをひとつ。ぐんと速度を増して前をにらむ。
なんだか、とんでもないことになったなあ。
矢のように飛ぶリリの負担を軽くするため、ぴったりとその身体に沿うように身をかがめながら、ジーグエの意識は、眠たい座学の最中みたいにぼんやりとたゆたっていた。
この作戦はたぶん失敗する。
たしかにリリューシェは優秀な竜だ。賢く肝が据わっていて、何よりも速い。それでも、あの巨大な王龍を退けられるかといえば、むずかしいように思えた。よくて相打ち、悪ければジーグエどころかリリも死ぬ。そのうえ、王龍を倒せたとて、本当に状況が変わるかどうかはわからない。
何をやってるんだろうな、俺は。
ぼんやり駆竜車に乗っていたら、いつの間にか異国の地に踏み入れていたような気分だ。せめてトーラかミスミに、助言を求めればよかったか。これから何が起こるのか、何をなさなければならないのか、いまいちぴんと来ていない。それを焦ってもいないのだから、おかしかった。死にに行くようなものだというのに。
気流が乱れ、ミスミから受け取った弩弓が背中で跳ねる。彼もわかっていたのかもしれない。最後に見た必死な顔はなかなかにおもしろかった。
リリは、いい瞬間に飛んでくれた。あいつはきっと、謝ろうとしていたから。
謝ってほしくなかった。謝らせたくなかった。罪がないとは言わない。けれどもし自分に裁く権利があるなら、全部許してやりたかった。えこひいきだ偽善だと後ろ指をさされたって全然かまわない。だってあいつは、特別だから。
でも自分にその権利はないから。だから、できることをして、そして言ってやるのだ。「な。何とかなっただろ」って。
リリューシェが吠える。いつの間にか、龍の群れがすぐそこにあった。
でかい。
わかってはいたが、あらためてそのでかさにおののく。片翼だけで、リリの体長くらいは軽くあるんじゃないか。コバエのように周りを飛び回る飛龍。降りてこいというように、あるいは忠誠を誓うように、地上から見上げては咆哮する駆龍。近くには見えないが、おそらく泳龍もこの様子をうかがっているのだろう。
ちらりと、赤い瞳がジーグエを見た。頷く。
ぐんと身体を上にひっぱられる感覚。ゆったりと回遊する王竜の鼻先に躍り出たリリは、ぎゃう、と挑発の声を上げた。人の頭ほどもありそうな青い目玉が、ぎょろっとこちらを向いた。その鼻先に向けて、ジーグエは矢を放つ。
当たった。
ぞおう、と空気がゆれる。王龍の吸気でたわんだ風が、咆哮となって放たれる。始まった。次の矢をつがえながら出方を見定める、と、目の前の身体はこちらに向かってくるでもなく、ゆっくりと上昇し始めた。なんだ? 翼が上下するたび、津波のような風が全身を打って、たまらず距離をとると、リリューシェもその後を追う。
上へ上へ。さらに上へ。舌を噛みそうなほど加速したリリの背中にしがみつく。龍たちはどうやら、上昇速度を競っているようだった。
これなら、勝機があるかもしれない。王龍の羽ばたきは確かに脅威だが、身体が大きい分、当然重量だって相当なものだ。もはや打撃に近い風圧を受けないよう、リリは器用に王龍の背後を取りながら、巨大な龍の腰、背中、肩、と徐々に高度を増していく。
しかしそこから膠着した。気流の乱れは激しくなり、呼吸が苦しくなってくる。逆に王竜は加速していた。まるで巨大な岩が転がるときのように、はじめは遅くてもその質量を武器にするかのように、じわりじわりと早くなる。木にしがみつくような恰好のまま、ジーグエはなんとか狙いをつけると、残りの矢をすべて放ち、武器を捨てた。分厚い底敷きで守られた靴も脱ぎ捨てる。膠着していた二頭の距離が、またじわじわと縮まり始める。
いける。これなら。
さっと辺りが白くなる。雲のなかに入った。細かい水滴が撫でるようにびっしょりと全身を濡らす。この分じゃゴーグルも役に立たない。投げ捨てようと片手を手綱から離したとき。鐙にひっかけていた足が、つるっとすべった。
あ。
びん、と肩が痛む。腕が抜けなかったのは奇跡だ。巻きつけていた左手の手綱と腰の命綱だけで、ジーグエはリリにぶら下がった。落ちると言うよりひっぱられると言った方が正しい力が、肩と腰にかかり、呻く。気遣うリリの速度が落ちた。あっという間に、王龍との距離が広がっていく。
ここまでだな。
ためらいはなかった。
「行け!」
ジーグエは、腰元に忍ばせていた細い短剣を抜いた。命綱を切ると、ぶらんと身体がゆれだした。あとは、手を離せばいい。この竜はきっと、勝ってくれる。
ぐん、と強く手を引っぱられた。いや、正確には、手綱に絡まった腕を引かれた。リリが上体を水平にし、大きく軌道を変えたのだ。ふわっと浮いた身体が、叩きつけるように鞍に落ちる。
「は?」
ぎゃう! と短く吠えられ、我に返った。助けたのだ、自分を。
「ばか、追いかけるのが先だろ!」
叱咤はすぐに風に押し流されて、リリの耳には届かない。ぱっと両翼を広げ、ときおり優雅に羽ばたきながら、ぐるぐると旋回している。仰のくと、王龍のしっぽが見えた。
ああ、やっぱり。
じわりと苦いものがこみ上げる。気負っていなかったくせに、負けた途端に悔しがるのはお門違いだ。けれど、悔しかった。あと少しだったのに。自分が、邪魔をしてしまった。自分がいなければ、リリはきっと、勝っていたのに。
ゆるゆると回るリリの背中でうなだれているうちに、変なことに気づいた。段々と速さが増しているのだ。そのうえ、ゆっくりその場を回っているだけなはずなのに、どんどん空気が冷たくなっていく。
――上昇気流。
は、と顔をあげる。またひとつ、羽ばたきをして、速度があがる。ゆっくり、でも確実に。波に乗った小舟のように。まだ負けていないと、励ますように。
「まだ、やれるか?」
黒曜の鱗で覆われた身体に額をこすりつける。彼女は肯定するように短く鳴いた。そうか。なら。
「行こう」
ぐわりと両肩の筋肉が盛り上がる。爆発するような速度で、リリューシェは飛び始めた。
灰色の雲はまだ抜けない。その奥に消えようとしていた王龍の背中が、ぐんぐんと近づいてくる。いくらなんでも、追いつくのが早すぎる。訝しみながら薄目で様子を観察していると、その飛び方がどこかおかしいことに気づいた。
――麻痺毒か。
笑い出しそうになる。
渡された弩弓、その矢の先に仕込まれていたに違いない。あの竜医のことだから、きっと致死性のものではないだろうけど、こんな巨大な龍に効く濃度で仕込んでいたなら、せめてひと言いってくれ。
特に矢を撃ちこんだ左の羽が動かないようで、王龍は苦悶の声を上げている。その周りを舞うようにくるりと周回しながら、リリは風に乗りどんどんと高度を上げていった。尻尾の先、後肢の爪、腹、右翼の先端、肩先、首――頭。
青い目と視線が合った。
「飛べ!」
耳元で風が唸る。風圧はますます強くなり、ジーグエは目を閉じた。今度こそ落ちないように、腕と腿と全身でしがみつく。身体の下で躍動する肉体を感じる。
ぱっと、視界が白で塗りつぶされた。
身体が軽くなる。ジーグエたちを地上へ引き留めようとしていた力がすべて霧散し、ぽんっと栓が抜けたように、音の波が消えていく。
そっと目を開いた。
抜けるような蒼穹。その下に広がる雲海は、傾き始めた西日に照らされ、金色に輝いている。
王龍はいつまでも雲の海から浮かんでこなかった。まるで金懐花を敷き詰めたような景色のなかに、一人と一頭の寄り添う影だけがぽっかりと浮かんでいた。
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