金懐花を竜に

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第2章

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「延期?」
 朝いちばんにミスミと二人で基地長に呼び出され、てっきりようやく子守りから解放されると思っていたから、すっとんきょうな声が出た。
「どうしてまた」
「知らんよ。うえに聞いてくれ」
 ねえ、と傍らに立つトーラに同意を求めるも、賢明な隊長は肯定も否定もしなかった。そうやって、対外交渉をいつも誰かに任せるから、隊員から舐められてるんだと思う。
 とにかくうちで面倒見るから、と眉間に深い渓谷を作りながらニーニエは渋い声で唸った。こんなやっかいなもの、とっとと手放したいというのが本音だろう。
「え、ちょっと待ってくださいよ。そしたら俺、まだ復帰できないんですか?」
 ニーニエはふう、とため息をついてから、ミスミに視線を向けた。
「幼竜の生育状況は?」
「順調です。そろそろ粗みじんの肉に切り替えてもいいかと相談しているところで」
 孫の近況をきかれた祖父母のようにでれでれ答えるミスミは、見慣れてきたとはいえ、やっぱりちょっと気持ち悪い。
「えーっと、聞きたいのは、まだジーグエくんの手が必要かというところなんだけど……」
「ああ。失礼しました。もう大丈夫だと思いますよ。給餌の間隔も少しずつ伸ばしていますし、自分も少し手が空くと思います。雨季を抜けて竜のケガも減るでしょうし」
「そうか。ならジーグエくん、本日よりきみ、通常業務に復帰ね」
「そうこなくっちゃ」
 ようやく子守りから解放される。思わず満面の笑みになってしまう。隣からちくちくした視線を感じるけど、無視だ無視。
「通常任務の復帰ついでに、ひとつ頼み事をしたいんだけどね」
「はいはい、なんでしょう。いまならなんでもやりますよ」
 夜警でも離岸前審査でもなんなら倉庫の掃除だって。意気込んだジーグエに、基地長は指同士を組み合わせ、にっこり笑った。
「いやあ助かるね。そしたらきみ、僕の代わりに舞踏会の参加、よろしくね」

 いや、なんでだよ。
 釈然としない気分でリリの世話を終える。きけば北部の貴族や有力者を集めた舞踏会が近々開かれるらしく、飛竜隊北部基地長であるニーニエにも招待状が届いたらしい。そんな大事な会合に代理を立てるのはさすがに人としてどうか、とやや引きながら諫めるジーグエに、基地長は臆面もなく泣きついた。
「どうしても抜けられない仕事が被っちゃって」とわめいていたけど、単にダンスができないだけなんじゃないかとジーグエは睨んでいる。
 そういう仕事がしたかったわけじゃないんだけどな、と納得いかない気持ちで隊舎に戻る途中、カラリナと出くわした。
「あれ? ちっちゃい竜の世話はもういいの?」
「ああ、なんかきょうから通常任務復帰だって」
 まあ最初に頼まれたのが全然通常任務ではなかったけれど、黙っておく。カラリナはぱっと目を輝かせた。
「本当? じゃあ悪いんだけどさっそく仕事代わってくれない?」
「は? なんの仕事」
「大したことないんだけどさあ、昨日哨戒中にちょっと欠けさせちゃった、礼拝堂の屋根の始末書」
 それは代わっちゃいけないやつだろ。断ろうとした口元に、ぴっと指先を突きつけられる。
「あんたがぐーすか寝こけてた間、リリちゃんを面倒みてあげたのは誰?」
 やわらかくウェーブした金髪を逆立てる彼女に、思わず後ずさる。
「いや、忘れてないけど、それとこれとは」
「そりゃよかった。ってことで頼むね」
 娘の服、新調するって約束してるの。あ、始末書、出す前に確認するから勝手に提出しないでよね! 一方的な命令を残して、彼女はあっという間に去ってしまう。せめて状況の説明をしろ。
 彼女が、女手ひとつで育てている娘を溺愛していることは、隊の皆が知っている。事情をトーラに話すと、トーラは黙って肩を叩いてくれた。
 第四部隊に与えられた執務室で、トーラに状況を聞きながら、万年筆で妄想の記録をしたためていく。文字でバレそうな気もするが、ジーグエの知ったことではない。
「そういえば、例の卵の出どころってどうなった?」
 ある程度書き上がったところで訊ねる。日誌をまとめていたトーラは、紙面に視線を落としたまま首を振る。
「情報が少なすぎるうえに、聞き込みもあまり。下手すぎると、逆に情報を流すことになるし」
 新種の竜の発見、しかも卵が見つかったなんて情報は確かに絶対に漏らしたくない。どんな竜種かわからない以上、民の不安をあおるのは必至だし、よからぬ者はこのあいだの竜務員のように、手に入れようと動き出すだろう。
「卵の方からは難しいから、いまは密航者たちの背後をさぐってる」
 淡々とトーラが渡してきた報告書に目を通す。
 雇用主からの虐待や、低い待遇、生活環境の悪化に耐えかねて、雲民が逃げ出すことはままあった。たいていは地域を変え、そこの雲民の生活圏に溶け込めれば、そのつてで名前を変え、新しい雇用先を得て働くくらいで、あんな組織だって国を出ようとすることはまれだ。彼らには通常、実行するだけのツテも資金力もないはずなので、そういう事件のときにはたいてい、協力者がいる。
「で、これらの店が怪しいと」
「まだ疑いだけど、最近、雲民やアラレの子たちの出入りが多くなっている店の一覧。きな臭いうわさもあるみたい」
「アラレも?」
 トーラは軽くあごをひき、頷く。
「表立った活動はないけど、彼らの不審な様子の報告、最近増えてきてる」
 眉をひそめた。雲民の待遇は、少しずつ良くなっている。少なくとも、王政府はそう発表している。金民と雲民の婚姻が正式に認められたのはジーグエが十のときで、そこから爆発的に、とまでは言わないものの、確実にアラレの子――金と雲、両方の血を引く子どもたちは増えていた。けれど、彼らの扱いを王政府はまだ公式に発表していない。
 彼らはこの国を率いる金民なのか。それとも付き従う雲民なのか。
「しばらくは、方針も決まんないだろうしな。不満が溜まるのも無理はない」
 彼らの扱いについての問題は、もうずっと議論されてきたものの、肝心の王が不在であればどうしようもなかった。現国王が病に倒れてから、どのくらい経っただろう。
 指導者の不在はもちろん、後継者も問題だった。王には息子と、歳の離れた妹がいる。王妹はちょうど若者を過ぎ、軍事や政略の経験も豊富である一方、王子はまだ成人したばかりで、竜にしか興味を示さず、浮雲のようなぼんやりとした性格らしい。王子が幼いころは、王妹が跡を継ぐことに異議を唱える者はいなかった。
 王妹フチが、王子ハルレイヒアを王宮から追放するまでは。
 現王の妃は雲民だった。歴代で初めて雲を王室に迎えた王として、賛否は別れた。王妹は、否の立場にいたらしい。妃が早逝するや否や、理由をつけて王子を離宮に飛ばしてしまった。その一件で、王宮と貴族院は割れた。王妹を賞賛するものと、眉をひそめる者。その態度はそのまま、市井に生きる雲たちへの態度となる。
「まあ、上が誰に変わろうが、俺たちは言われた仕事をするだけだ」
 重くなった空気をまぜっかえすように軽く言い放つと、エンユウが器用に片眉を上げた。
「意外ですね。あなたはてっきり、王妹派かと」
「なんで」
 エンユウは理由を語らず、軽く肩をすくめて棚に戻った。確かに、王妹が即位したほうが衛国竜団にとっては安全ではある。王子は情報が少なすぎて、何がどうひっくり返るか未知数だという懸念も大きい。
 でも、王妹フチが最高権力者になったらきっと、雲も、アラレの子も、いまの状況のままだろう。
 頬杖をつく。ポケットのなかにある舞踏会の招待状の封蝋は、フチの印章が刻まれている。
 いつの間にかペン先からインクが垂れてしまっていた。黒の散った報告書を慌ててこすると、乾く前のインクが指先を汚した。

 翌日は貴重な休みだった。景気よく一日中寝てやろう、と意気込んだのも束の間、舞踏会用の団礼服を引っ張り出したところ、シャツがネズミに喰い破られていた。基地飼いの猫は何をやってんだと腹を立てつつ、そういうわけで、ジーグエは渋々昼間に起き出すと、街へと繰り出すことにした。
 買い物自体はすぐに終わり、真っ白なシャツを包んでもらって店を出る。昼食時を少し過ぎた大通りは、ぬるまった水たまりみたいな穏やかさが漂っていた。
 せっかくなら、何か腹に入れてから戻ろう。
 そう思って屋台を物色していたはずなのに、気づけば宿場の前に立っていた。表向きはどこにでもあるような年季の入った簡易宿所。入り口に吊り下げられた看板にある名前は、先日ちらっと見た『怪しい』店の一覧にあったものと同じだ。
 休日まで仕事しちゃうなんて、偉すぎるな。自分で自分を褒めつつドアを開けると涼やかなカウベルが鳴り、カウンターの向こうから「いらっしゃい」と声が飛んでくる。一階は温かい雰囲気のあるパブ、二階が部屋になっているらしい。遅めのランチを注文しながら空いている席に座り、一足先にやってきたハーブ水でのどを潤しながら、さりげなく店内を見回す。
 入り口側に丸いテーブルが四卓、その奥にカウンターが五席。常連らしき老人がひとりスープをすすり、その反対では若い女二人がテーブルをはさんで会話している。昼下がりの日差しがよく似合う、感じのいいパブだった。左奥の壁際に、二階への階段が見える。
 とてもじゃないが、裏でこっそり雲民を逃がしているようには見えない。
 こりゃハズレかな、と考えながら蒸し鶏の粥を受け取ったとき、カウベルが鳴った。
「いやほんと、きみ、すごくかわいいし、才能あるよ」
 軽い。ふっと吹けばぶわりと膨らむ藁屑より軽い声が飛び込んできて、おっと顔をあげた。にこやかな笑みを張り付けた三人の男たちが、ひとりの少女を囲みながら入ってくる。前を歩く一人が、奥に座っていた女性二人に手をあげ、まるで水滴同士がくっつくみたいにあっという間に一つの大きな輪になった。ジーグエは粥をすすりながら、そっと集団を観察する。
「あたしたちもね、アラレなの」
 ぽんぽんと花が咲くように交わされる若者たちの会話は、テンポが速く聞き取りづらい。漏れ聞こえてくる内容をなんとか繋ぎ合わせると、どうやら自分たちを「同類」だと言って仲を深めようとしているようだった。
 それにしても、「アラレ」か。
 ことさらゆっくりと匙を進めながら、ジーグエは横目で彼らを観察する。暗色の髪。満月のような肌。はめ込まれた眼差しだけは、温かく湿ったこの地の茶色だ。というか。
 気のせいでなければ、いま、彼らの輪の中心にいる少女に見覚えがあるような。
「お客さん」
 は、と声の出どころに顔を向ける。いつの間にかカウンターから抜け出してきていたオーナーが、不機嫌そうに皿を指した。
「悪いけど、そろそろ『黄昏時』なんだ。さっさと食っちまってくれねえかね」
「ああ、これは悪かった」
 表面上は愛想よく、しかし内心では悪態を吐く。雲民と金民の食事時間を分ける黄昏制度はとっくに廃止されたというのに、市井にはまだ根強く残っているのが現実だ。ジーグエは残りをかき込むと、席を立った。
「お嬢さん」
 そうして、大股で若者の集団に近寄り声を掛ける。「ちょっと、お客さん」なんてオーナーの焦った声が聞こえるが、無視だ。
 一斉に視線が向く。そのひとつに、やっぱり見覚えがあった。思わず笑いだしそうになるのをぐっとこらえて、ジーグエは少女に手を差し伸べる。
「かわいいお嬢さん、よければこの後、お茶でもいかがかな?」
「……ジーグエさん?」
 少女――エルリナの瞳がまあるく見開かれる。最後に会ったのは数年前だが、覚えていてくれたようだった。エルリナが何か答える前に、「知り合い?」と男が割って入る。
「悪いんだけど、彼女は俺たちが先約でね」
「そうそう。日を改めてくれるかしら?」
 エルリナを挟むように座る女性たちも、するどい目でジーグエをにらむ。おお怖い。肩をすくめてから「俺はそちらのお嬢さんに聞いてるんだけど?」と鈍感なフリをする。
 エルリナを守るように立ちはだかった男は、ジーグエの浅黒い肌を睨みつけながら口を開く。
「いくらあなたが金民で、我々に雲の血が流れていようと、雇用契約も何もないあなたに我々が従う道理はない。彼女の意を無視して連れては行かせないし、なんなら衛兵を呼んだって――」
「なにか勘違いしているようだけど」
 血気盛んな若者の言葉を遮って、ジーグエは一歩距離を詰める。体格は互角、筋力では彼らのほうが上回るかもしれない。けれどこちらとて、無駄に歳をとっているわけじゃない。
「俺は、その子を誘ってるだけだ。生まれや歳を笠に着て、強要するつもりはみじんもない。そもそも、そんなことする必要もないしな」
 視線を和らげエルリナに向ける。ぽかんと口を開けて呆ける輪郭はずいぶんとすっきりし、幼さはもうどこにもない。ずいぶんと大きくなった、なんて親戚のような感想を抱きつつ、ジーグエは水仕事で荒れた小さな手を取って、その甲に恭しく口づけた。
「だって俺、ここにいる誰よりも、いい男だろう?」
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