金懐花を竜に

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第1章

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 国土の西端を占める大渓谷、その崖っぷちに作られた南北中央の衛国竜団駐屯基地は、斜めにカットされたパイみたいな三層構造になっている。断崖とつながるパイの底の部分が負傷した竜の処置室と竜医務室、演習場がある一層目で、二層目が庁舎、そうして最上層の三層目が竜舎だ。
 基地を貫く大階段をのぼり、月明かりを震わせないように忍び足で竜舎に入る。
 聴覚も嗅覚も人の何十倍もあるという竜は、ジーグエが来ることをまるで予見していたみたいに、しずかに首をもたげて待っていた。月に照らされた鱗の縁が、白銀にかがやいている。
「遅くなってごめんな」
 神聖な作り物みたいな姿にすこしだけ見惚れてから、ジーグエは静かに手を伸ばした。
「まだ落ち込んでんのか?」
 つめたい身体をさすりながら、額を頬にくっつける。肉食のくせに、リリューシェからはいつも、湿った苔のような森のにおいがする。クルル、とのど奥から弱々しい返事が聞こえて、声を出さずに笑みを深める。騎乗者を落としたことが、相当堪えたらしい。竜に表情はないが、こうして近くで触れあっていると、ひとなどよりよっぽど感情豊かな生き物だとわかる。
「大丈夫だって」とジーグエは優しく背中を叩いた。
「こうして生きてんだろ。あれは、俺のミスだった。次も頼むよ」
 もちろん、というように、リリューシェは鼻づらをジーグエの首筋に埋めた。甘酸っぱい果汁を垂らされたみたいに、胸がぎゅっとなる。ジーグエは特別に竜を愛しているわけではないが、自分の相棒となれば話は別だ。当たり前に他の竜より優先するし、用がなくても会いに来るし、珍しい肉が手に入ったら食べさせてやりたくなるし、苦しんでいれば何とかしてやりたくなる。
 しずかな夜だった。しばらく空に出られない詫びも込めて、ジーグエはつめたい鱗に熱が移るまで、すべらかな身体をそっとなで続けた。

 子竜の世話はまあ端的に言えば重労働だった。三時間おきの給餌、排泄の介助と掃除、まだやわらかい鱗は何の機能も有してないから、藁の節をひとつずつ取り除いて、部屋は常に乾晴期の午後みたいに温かく保つ。ひとつひとつの作業は単純でも、それを夜通し続けるのはなかなかに厳しい。
 ようやく朝日を拝み、やってきたミスミと交代して庁舎に戻る。まぶしい日差しに背を向けて眠りについたのも束の間、がんっ、と扉をなぐられる音で目覚めた。
 最悪の寝起きだ。窓の外はオレンジに染まり、夜が近いことを知る。
「どうした?」
「大変です、リリューシェが!」
 扉越しのエンユウの焦った報告を聞いた瞬間、ジーグエは上着だけ引っ掴むと部屋を飛び出していた。
 竜舎に踏み入る前、甲高い咆哮が聞こえた。鼓膜を引き裂くような、神経をびりびり揺らす音。本気で怒っている声を、数年ぶりに聞いた。
「なにがあった!」
 リリューシェの房を遠巻きに囲んでいる一人を捕まえて問いただす。
「わ、わかりません。急に暴れ始めて」
「なにもなく暴れるわけないだろ!」
 そのとき、ぴゃー、と小さな声が聞こえた。はっと振り向く。
「あいつ……!」
 房と廊下を仕切る柵、その下から男が這い出てきた。騎乗者以外の房への立ち入りは禁止されている。ジーグエは大股で近づくと、男の胸ぐらをつかみ上げた。
「おまえ、誰の許可を得てこの房に立ち入った」
「こっ、これは――」
 ぴゃー、とまた声が聞こえる。はっとして男を押しのけ、扉を開けた。
 リリューシェは、藁の敷き詰められた個室の、一番奥にいた。入ってきた人間がジーグエだとわかっているのかも怪しいほど興奮し、全身を膨らませて歯をむき出している。その対角には、ちいさな黒い生き物が這っていた。なんで。呆然とする。だっていまは、ミスミが面倒をみているはずなのに。
 くそっ、と悪態をついて、ジーグエはゆっくりと腰を落としながら、這いつくばる幼竜をかばうようにリリューシェに手を向けた。
「落ち着け。こいつは、敵じゃない」
 ふー、ふー、とせわしない息が髪を揺らす。怒りと恐怖と理性の間でゆれている瞳を見つめながら、頼むからこのまま落ち着いてくれよ、と念じつつ、そっと幼竜を抱き上げた。そのとき。
「離せえ!」
 捕らえられていた男が最後の抵抗をみせる。があん、となにかが蹴り飛ばされ、複数の怒声が飛び交う。
 まずい。
 きぃああああ、と耳をつんざく咆哮と共に、リリューシェの両翼が大きく広がる。翼端のするどい爪がぎらりと光った。
 本能だった。子どもを腕に抱き、背を向けて歯を食いしばる。
 何かが引き裂かれるにぶい音は、痛みを伴わなかった。
 悲鳴が上がる。うっすら開けたまぶたの向こうで、細い影が崩れる。
「……ミスミ?」
 地に伏したミスミは、う、と小さく漏らしたきり立ち上がらない。頭の下からじわりと赤いしみが広がったのを見たとき、一瞬、音が消えた。
 ばさっと風が顔にあたる。叡智に富んだ瞳は焦点が合っておらず、興奮と混乱のみがらんらんと光っている。逃げなければ。柵の外へ。幼竜とミスミを連れて、いますぐ。
 間に合わない。腕の中の幼体を抱え直したとき、ポケットのなかで何かが鳴った。
「リリューシェ!」
 打たれたように愛竜が動きを止める。
 突き出したこぶしのなかには、くったり萎れてなお鮮やかさを失わない金懐花があった。
 息すら止まったような沈黙が満ちる。じわっとわきの下に汗がにじむ。リリューシェは動かない。その目がみるみる、絶望に染まっていくのを見た。
「落ち着け。動くな」
 低く語り掛けながら、これほどの矛盾もないな、と冷静な部分で思った。いま、ジーグエは自分の竜を脅しているのだ。これだけはしたくなかった。一秒ごとに彼女との絆が崩れていくのを感じながら、けれどこれ以上の方法を思いつかずにいた。
 幼竜を地面に置き、両手を花びらにかける。視界の端に捕らえたエンユウを呼び、幼竜とミスミを回収させようとした。そっと身をかがめて、四つん這いで柵を潜り抜けてきたエンユウの手のひらの下で、藁がぱきんと折れる。緊張が走った。
「だめ」
 ぐ、とズボンのすそを引かれ、はっと下を向いた。額を押さえたミスミが、上体を起こす。
「それを、使っては、だめです。ジーグエ」
 流れ続ける血を乱暴にぬぐい、ミスミはへらっと笑みを浮かべた。
 その瞬間、すこしだけ泣きそうになったのは、死ぬまで秘密だ。
 ぐっと膝に力をいれ立ち上がったミスミは、いたっていつも通りにリリューシェに向き合った。
「驚かせて、すみません」
 ぐう、とのど奥に唸り声を溜め、警戒と疑念を解かないリリューシェに、ミスミはしずかにほほ笑みかける。
「あなたを脅かすものはもういません。大丈夫」
 ことさらにゆっくりとそう言って、深く息を吐き、さあ行きましょうと、ミスミはあっさり背中を向けた。その気負いなさにぎょっとする。慌てるジーグエの肩を押し、「いいから、いつも通りに」と小声で耳打ちした。そのくちびるは、夕暮れのなかでなおわかるほど色がなかった。肩越しにリリを見る。夕陽を背に暗く沈む影。
 背を押してくる身体を先に押しやる。焦る声を無視して、ジーグエは腰をかがめながらリリューシェに一歩、近づいた。竜が、半歩下がる。もう一歩。しゃあ、と短い警告音が向けられても、ジーグエはもう目を逸らさなかった。
 そっと、彼女の前に金懐花を置く。破られることを免れた小さな花を、リリューシェはじっと見つめて離さない。
「悪かった」
 片膝をつき、一度だけ頭を下げて、そっと竜舎をあとにした。咆哮はもう聞こえなかった。

 深夜を過ぎたころ、ミスミは目を覚ました。
「起きたか」
「このまえと逆ですね」
 うっすらほほ笑む顔はまだ青白い。隊医の見立てでは、頭の傷は骨まで達していないとのことだったけれど、全身を打っていること、けっこうな血を失っていることから、注意が必要とのことだった。幼竜の世話と合わせて、夜の見張りをかって出るくらいの罪悪感はある。
「あの子は?」
「ぴんぴんしてるよ」
 ふらつきながらも上体を起こしたミスミは、藁のベッドで眠る幼竜を見てほっと力を抜いた。先に自分の心配をしろ、と腹が立たないこともなかったが、こいつらしいなと安心もした。人用の医務室ではなく、ここに運んでよかった。
「すみませんでした」
「なんだよ」
「あのとき、この子から一瞬目を離してしまったんです。急な呼び出しがあって」
 たいていの相談事や処置はこの竜医務室で行われるが、なかにはミスミが直接現場に行って、病状を確認したり処置したりしなければならないものもある。通常なら竜医見習いの誰かや、手の空いた隊員に留守を任せていたのだけれど、運悪く誰も捕まらず、数分のことだからと、部屋をあけてしまったという。幼竜を攫った男は職員で、たまたま幼竜のことを知り、魔が差したと非を認めた。生活に困っていたらしい。
「彼女の声を聞いたときは肝が冷えました……だれも傷つかなくてよかった」
「おまえがケガしてんだろ」
「へ?」
 当たり前のように自分を省いた男は、心から安堵しているように見えた。せめて、労わられる期待くらい見え透いていてほしい、と意地悪く思いながら、ジーグエは布団の上の手を叩く。
「いたっ。え、なんか怒ってます?」
「怒ってねえよ」
「はあ……」
 まっすぐ放った矢が、途中でへなへなのやわらかい毛糸に変わってしまったみたいにもどかしい。椅子に座ったまま、組んだ両手に額をつける。まったく、この竜が来てから、なにもかもうまくいかない。
「僕の白衣、取ってもらえますか?」
 ややあって、ミスミが身じろぎした。寝てろよ、と忠告してもどうせ受け入れないのだろう。ジーグエは黙って立ち上がり、外套掛けにひっかけてあった白衣を投げる。
「その子、考えなしに巣に入ったわけじゃないと思いますよ」
 考えってなんだよ、と訊ねる前に、ミスミはポケットから取り出したものを掲げた。
 いくつもの金懐花が連なったリース。
「あの子がくわえていたんですよ。これ、リリューシェの房の入り口に掛けてあるやつでしょう? 彼女だけ、視界に金懐花が入らないようにって目印で」
 そうだ。竜舎は、竜たちが居心地よく暮らせるよう、外壁に金懐花を伝わせ育てているが、リリューシェだけは過去の事件を考慮して、目の届く範囲に茂らないよう手入れしていた。刈った余りを捨ててしまうのも忍びないので、気を利かせた庭師がよく、こうしてリースを作り、扉に掛けてくれるのだ。
「あの子はこれを、あなたに届けたかったんだと思いますよ」
「俺に?」
「竜は好きな相手に花を贈る習性がありますから」
 手招きされ、ベッドに腰かける。ミスミの手が伸びて、頭に軽い衝撃が走った。
「……あのときみたいですね」
 おかしそうに笑う。
 あのとき。ジーグエがはじめてリリューシェと騎乗飛行を成功させたとき。
 そうだ、あのとき、ジーグエは金懐花を贈られたのだ。リリューシェから。何度も心を踏みにじられ、金懐花を視界に入れただけで落ち着きを失くしていた竜から。
 竜舎の屋根に繁茂する一輪をくわえて、差し出されて。うれしくて、誇らしくて。同じくらい顔を真っ赤にして喜んでくれたこいつの髪に、この指が飾った。やわらかい笑みに、若き頃のおもかげが重なる。
 そうだった。忘れていた。
 こいつは覚えていたのか。二十年も前のことを。きょう、あの瞬間も。
 嬉しさよりも、知らないところで庇われていた悔しさみたいなものが入り混じってこみ上げ、ジーグエは身体をひねると、まだぼんやりしていたミスミのくちびるを奪った。二度、三度と角度を変えて合わせ、うすく開いたすき間から舌をすべり込ませる。
 普段より温度の低い口腔をさぐり、うすい舌を絡めて吸うと、ん、と艶を帯びた声が漏れる。
 二の腕を弱い力で掴まれて、ようやく主導権を取り戻せたような、貰ったものを返せたような気になって、溜飲が下がる。そうすると現金なもので、優しくしてやろうかという気が湧いてくる。手のひらを冷たい頬に沿わせて、舌の動きに合わせて耳朶をさするとびくりと身体が震えた。追い詰められた動物めいた反応にのどが渇くも、額に巻かれた包帯の感触ですぐに我に返り、しぶしぶ身体を離す。
「……止めるんですか?」
「病人の血の気、いきなり上げたらよくないだろ」
 そっちからしてきたくせに、と言いたげな視線を無視して立ち上がる。落ちてしまったリースを手に取ると、「これ、この部屋に飾っていいか?」と訊ねた。
「構いませんけど、自室じゃなくていいんですか?」
「いいよ。こっちにいる時間の方が長いし」
 ずらりと薬草が吊られた壁のフックにひっかける。背を向けながらつぶやいた「ありがとな」に返事はなかったけれど、たぶん伝わっていたと思う。

 眠る一人と一匹を夜通し見守って、翌朝、様子を見に来た軍医に交代してもらい、自室に戻る。徹夜明けには厳しい日差しに顔をしかめながら、窓を閉めようと近づいたとき、ひゅっと黒い何かがガラス戸を叩いた。
 一瞬手を止め、それから窓を開ける。
 飛び込んできた小さな諜竜は、二、三回羽を動かして窓の桟を掴む。小鳥程度のちいさな羽ばたきは、人の出払った官舎によく響いた。
 感情の読めない大きな目を見つめ返し、ジーグエはそっと口を開く。
「状況に変化なし。引き続き特務を続行する」
 するどく二回舌を鳴らすと、竜はぱっと羽を広げ、あっという間に見えなくなった。
 温めた油を薄く広げたような、穏やかで明るい朝だった。次第に賑わいを増していく外を、ジーグエはしばらくの間、じっと睨みつけていた。
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