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紫に染まった記憶

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 矢木島たちが去ると、一心と部下の女も彼らのあとをつけるように会場から立ち去った。
 夏鈴はバーテンダーが動く前に素早く移動して、盗聴器と小型監視カメラを回収した。バーテンダーに不審がられたが、ピンを落としたことに気づいたと嘘をついてごまかした。
 足早に会場から出て更衣室で浴衣に着替えると、仲間の待つ部屋に向かった。情報解析を担当する仲間が夏鈴を迎え入れ、注意深くドアを閉めた。

「一課の連中が会場に居たよ」

 仲間の男に盗聴器と小型監視カメラを渡す。
 男はへっと笑った。

「驚きはないね。マトリ案件には、一課が絡むこともあるし。俺たちが判断することは、どっちに情報を売るかだけだ」
「そうだね」

 カバンのなかから水着に仕込んでいた残りの機材と、髪に差し込んでいた残りの小型カメラもすべて出すと、もうひとりの仲間である女が受け取った。

「お疲れさま。どうだった? 初めての単独潜入」
「ノーコメント。悪いけどあとはよろしく。解析後の電話連絡もいらないから」
「あれ、もう戻るの? 中身を確認しないなんて珍しい」
「察してやれよ。お姫様はご機嫌ナナメなんだよ」

 夏鈴は「うるさい」と言い残して自分の宿泊部屋に帰った。
 盗聴器の内容が気にならないわけではない。だが、今はひとりになりたかった。化粧を落としシャワーを浴び、浴衣姿でベッドに転がる。二時間経っても一心は来なかった。間接照明だけにしていたが、もう来ることはないだろうと判断して照明のスイッチに手を伸ばした。
 そのときだった。

 ――ピンポーン。

 真夜中に響く呼び出し音。
 ドアスコープから来訪者を確認し、息を呑んだ。

(ほんとに、来た……)

 静かに鍵を開ける。
 ドアノブを握る手がほてる。耳の奥で心臓がドクドクと波打つ音が響く。
 ドアガードをつけたまま押し開けて、ドアの隙間から一心を見上げた。

「ゴムは?」

 Tシャツ短パン姿の一心は無言でポケットから避妊具が入った小袋を取り出して、ドアの隙間から渡した。
 夏鈴は震えそうになる手で受け取り、ドアを閉めた。

(ほ、本物……? これが噂の)

 銀色の個包装を押して確認する。ムニムニと滑り、コリコリと固い感触もあった。
 目を白黒させているうちに、コンコンと扉をノックされる。はっと我に返り、ドアガードを外して一心を部屋に入れた。どんな顔をすればいいのか分からず、うつむいてしまう。

「入念にチェックなんてしなくても、袋に穴は開けてないし、なにも仕込んでないよ」

 一心の言葉に、夏鈴は勢いよく顔を上げた。

(ヤる前ってそんなことも確認するの?! いや、そっか。そうだよね。実は中出しされてましたってこともあるかもしれないし)

 一心は小首をかしげた。

「もしかして、見当違いなこと言った?」
「べつに」

 なにもかも見透かしたような目を向けられて、夏鈴は居た堪れなくなった。ゴムを突き返し、ベッドのほうへと歩いていく。

「それで、本来の目的はなに」
「君の欲求不満をどうにかするつもりだけど」

 夏鈴はベッドに飛び乗るように座った。バフッと布団が音を立てる。

「うそだね。一心さんがそんな無駄なことをするわけない。もうすぐ二時になるし、明日も朝から捜査会議あるんでしょ? そんな人が恋人でもない女とセックスする? 一心さんは……いつもの一心さんならそんなことしないよ」

 作られた明るい笑顔とためらいのない自虐。言葉はするすると出てくるのに、声が震えそうになる。涙が滲む前にはやく一心を追い出さなければ。

「説教ならまた今度ゆっくり聞くからさ、もう部屋に戻って寝なよ。疲れた顔してる人とヤっても楽しくないし。ということで、帰れ帰れ。しっしっ」

 なにが面白かったのか、一心は喉の奥で低く笑った。まるで聞く耳など持たず、ベッドにゴムを投げると夏鈴の隣に腰を落とした。
 
「その無駄なことを本気でやるつもりだとしたら?」
「だから、こっちはもうヤる気ないって――」

 言い終える前に、ベッドに強く押し倒された。手首をベッドに縫い止められ、顔と顔が近づく。
 パーティ会場でつけていた香水とは違う、優しくて柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。これが一心の香りなのだと知って、たまらなく切なくなった。

「そういう気分は、作っていくものだよ?」
「萎えてるからムリ」

 夏鈴は語気を強めてハッキリと言った。
 ワンナイトラブもセフレもごめんだ。自分から部屋に入れておきながらどうかと思うが、一心とそんな関係になったら、もう恋人にはなれないだろう。それなら、ずっと片想いのまま夢を見ていたい。

「賢い子だと思っていたけど、こんなに世間知らずだったとは。そんな一言で逃げられると思ったら大間違いだよ。男を部屋に入れた時点で覚悟しておかなきゃ」

 馬鹿にするような冷たい声に、夏鈴は目を丸めた。驚いて開いてしまった口に指を突っ込まれ、舌をこすられる。嫌がる夏鈴のことなどお構いなしに、一心は夏鈴の舌を指でもてあそんだ。

「いいかい。仕掛ける相手を選ばないとハニートラップは危険なんだよ。君の気持ちなんて関係なく、君の身体はこうやって好き放題されるんだ。もしかしたら、無理やりクスリを飲まされて、まともな思考ができなくなって、そのまま犯されるかもしれない。君がなんのために自分に近づいてきたのか知ったら、相手は激怒して、それこそ命を奪ってくるかもしれない。そこのところ、理解してる?」

 夏鈴は表情を歪めた。口から指が引き抜かれると、おえっとえずいた。

「はぁ……ほんと、説教好きだね。そういうプレイが好きなの?」
「説教? 説教なんてたいそうなものじゃない。これはね、俺のために話しているんだよ」

 意図を掴みあぐね眉をひそめる夏鈴に、一心はふっと微苦笑をこぼした。

「君は一課の人間じゃない。だから、事件があるたびに、被害者が君じゃないことを願いながら現場に行く気持ちも、加害者が君じゃないことを祈る俺の気持ちも分からないだろうね」

 淡々と静かに、そしてゆったりと言葉が紡がれる。

「俺がなぜ情報屋を辞めろと言い続けるか、ずっと知りたがっていたけど、これが理由だよ」
「被害者は分かるけど加害者って……なんでそんなこと心配するの」
「君のいる組織が、犯罪事件の被害者や被害者遺族で構成されていることは知っているよ」
「えっ……」

 なぜ知っている。どこで、誰が、漏らした? 自分じゃない。断じて自分ではない。絶対に違う、はず。

「刑期を終えた人間に復讐しようとする者もいるだろう。あるいは、実行犯の関係者に刃を向ける場合も。君が当てはまらない理由はないだろう?」

 目の前にいる男が、ただの捜査一課の刑事ではなく、なにか得体の知れない存在に見えてくる。

「君の本名が藤波夏鈴じゃないことも、君が組織に居続ける理由も知ってる」
「……へぇ」

 さすがにそれはありえないだろう。
 カマをかけているんだろうと踏んだ夏鈴は、冷静を取り戻し口角を上げた。しかし、その笑みはすぐに凍りつくことになった。

「十三年前、ある県で小学校五年生の児童五人が、同日に連続で誘拐された。それも、ひとりの男の手によって。被害者は男子児童三名と女子児童が二名。犯行から五日後、被害者のひとりである女子児童の機転によって、四名の児童は監禁されていた部屋から抜け出し、警察によって保護された」
「……分かった、もういいよ」
「その女子児童の名前は、結城ゆうきいのり。君の本当の名前だ」
「っ……」
「そして、ただひとり帰らぬ人となってしまった児童の名前は、滝島たきしますみれ
「やめてってば!!」

 夏鈴の悲痛な叫びが部屋に響いた。
 犯人は無期懲役を言い渡され、事件は終わりを告げた。だが、夏鈴を始めとする多くの者は心に傷を抱えたまま過ごしている。事件が終わっても、痛みは続いているのだ。

「なんでそんなこと知ってるの?! 誰が、いったい誰がっ」
「組織の構成については、知り合いの公安から聞いた。そして、君のことについては俺自身が調べたことだ」

 公安という単語に、夏鈴の動きがピタリと止まる。

「公安? なんで? わたしたち、公安から目をつけられるようなことはなにも」
「末端の君はそうかもしれないけれど、組織のトップたちはどうだろうね」
「うそでしょ? だって、そんな……」

 夏鈴は悲しい目をして天井を見つめた。

(自分と同じ被害者を生まないために、自分たちで平和を作ろうって。そのためなら、どんなに怖いことも卑怯なことも、悔しいことも、我慢できたのに……どうして……)

 組織に所属する仲間にはそれぞれ目的があった。前科持ちの人間を監視し続けることや、麻薬の密売を行う者たちを破滅させることを目的としている者もいる。情報を売るのは活動資金を得るためで、活動の主軸ではない。
 夏鈴の目的はただ一つ。小児愛の癖を持つ前科者と犯罪予備軍を監視し、自分や菫のような目に遭う子供を減らすこと。そのためには、情報網と監視の目を多くする必要があった。
 そして、組織は夏鈴に手を差し伸べた。
 指定された情報を集め、仲間の目的が達成されるよう相互に協力をする。それが組織でのルールだった。
 夏鈴が組織のために情報を集めれば、いずれ自分の目的も達成されると信じていた。

(公安に目をつけられるってどういうこと? "ボス"はわたしたちを使ってなにをしようとしているの……?)
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