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彼女から歌を奪った者

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「ハイウェル様、すこしお時間よろしいでしょうか」

 ランスが席を外しているときだった。
 早朝に届いた書状を取りまとめて持ってきたロレンスが、ハイウェルにそう尋ねてきた。
 この部下が自分から話しかけてくることは初めてのことで、込み入った話題であることは容易に想像できた。
 走らせていたペンを置き「なんだ」と目を上げる。

「オフィーリアは歌いましたか」

 ハイウェルの眉がぴくりと反応する。

「その問いの意図がわかりかねるな」

 ロレンスという男は目つきも鋭いが、相手がどんなに立場の強い者であっても揺るがない強さを持っていた。
 はっきりと譲らない意志を見せる瞳が、ハイウェルの冷淡な笑みを映す。

「あなたの顔色や彼女が頻繁に出入りしていることから、ある噂が流れ始めています」
「それがどうした? 私の周りは噂好きな連中ばかりだ。今さらひとつ、ふたつ増えたところで驚きはしない。重要な話でないなら仕事に戻れ」
「オフィーリアから歌を奪ったのは、おそらく……私だと思います」

 ペンを持ちかけた手が止まり、再びロレンスを見上げた。

「どういうことだ」

 ロレンスは親友と共にミーフィズで戦ったこと。この戦いで生き残ったら故郷に帰って、互いに嫁をもらおうと約束したこと。性別の違う子供を得たら許嫁にしようと冗談を言っていたこと。ロレンスだけが負傷して前線から離れたこと。そして、そこでオフィーリアと出会ったことなどを暗い調子でハイウェルに語って聞かせた。

「彼女の歌に縋る人も多かったのは確かですが、俺は聴きたくはなかった。あなたに想像できますか。どんなに幸せな夢を見ても、目覚めたら変わらない地獄が待っている。あれは戦場で見るにはあまりにも残酷な夢でした」

 ハイウェルは無言で頷くだけに留めた。

「基地にはまともな治療室もなければ、個室があるわけでもない。彼女は苦慮していたけど、結局は自分の歌を望む者、望まない者にもまとめて歌を聴かせた」
「それがどうして、彼女の歌を奪うきっかけになったんだ」
「ある明け方のことです。前線基地のひとつが奇襲に遭い、陥落しました。そこには私の親友がいたんです」

 ロレンスの声が無念を訴えかけるように震えた。

「奇襲の報せが届いたとき、親友の死を悟りました。私は……あいつが苦しんでいる間、あいつの夢を見て幸せに浸っていたんです」
「まさか、それを理由に彼女に当たったのか」
「はい。目が覚めて、自分が許せなくなって暴れていたところを彼女に見られました。それで、言ってしまったんです。お前が歌わなければ、俺は脚を引きずってでもあいつの元に行けたのにって。俺は聴きたくなかった。お前のせいだって、周りに止められるまでずっと、彼女を責め続けました」
「そうか」

 ハイウェルは「ごめんなさい」と悲しそうに謝るオフィーリアの顔を思い出していた。
 親睦を深めて歌ってもらおうだなんて、たった一瞬でも思った自分を殴りたくなった。

「ミーフィズのセイレーン」と称された彼女がなぜ歌わなくなったのか。そこに深く暗い理由があることくらい察することができたのではないか。
 無遠慮に彼女の傷に触れただけでなく、オフィーリアの「なにかしてあげたい」という思いやりをぞんざいに扱ってしまった。捨てた茶葉を今さら悔やんだところで戻ってはこない。
 健気な彼女に対して、軽々しく好意を抱いた自分が浅ましく恥ずかしくなった。

「私が謝れば、彼女はまた歌うかもしれません。ですが……やっぱりまだ……」
「彼女は、君が謝ったところで歌ったりしないだろう」
「え……?」
(他人を責めるような人間が、あんな表情をして謝ったりするものか。あれは、自分を責め、罪悪感を抱き続けている者の顔だ)
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