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2 旅立つ勇者と蚊帳の外
第13話 旅立ちという名の脱走
しおりを挟むハリュウの当主の真似をして、壁に張り出した窓枠の上を歩く。装飾や石材の出っ張りに指をかけて建物をよじ登り、時折吹き付ける風と高所に冷や汗をかきながら、台所というにはあまりにも大きな棟へ屋根伝いに向かう。
店一件突っ込んだのかと言いたくなるような衣裳部屋から寝巻として着替えておいたのは、一番簡素で地味に見える、白い服と黒のズボンだ。
過ごしやすい気候であるとはいえ、深夜の屋根の上を歩くには肌寒い服装だったが仕方ない。あとはどれもこれも見るからに目立つ、袖や襟に凝った細工がされた高級品揃いだった。
炊事や洗濯などの施設が集まっているらしい神殿の端の建物には、岩山の崖下に張り出した、小さな塔が二つ付いていた。
あれって絶対そう。
記憶にはないが知識にはある地球での情報を思い出して目指したその場所は正しく、昇降機を備えた荷物運搬用の設備だった。
毎夜、鍵を掛けにここまで来る者はいないらしい。不用心に開いていた塔の上部の窓から中へと入り、周囲を見回す。
物質転送術があるとはいえ、上下の行き来で済むところで、わざわざ魔法を使うことはしないだろう。広場に面した出入口は正面玄関なのだ。お勝手から直で必要な物を運び上げたり下ろしたり出来る方が、効率は良い。
地球で何があって、こんな知識を持っていたのかは知らないが、欧州の岩山に建つ古い教会や城などにある巨大な滑車を使った昇降機は、異世界でも現役で使用されていた。
部屋の上半分を占める大型の滑車から吊り下げられた真四角の小屋に、床に引き上げられた大きなかご。見るからに頑丈そうな太い綱に吊るされたそれらで荷物や人の上げ下ろしをするための設備は、どこも清潔に磨き込まれている。
滑車を通って下に伸びる、大蛇みたいな極太の縄は、歯車を横倒しにしたようなからくりに繋がれていた。普段の動力はよく分からないが、木製の棒が歯車から四方へ伸びていて、手押しで巻き上げや荷下ろしも出来るようだ。
さすがに、これを動かすのはまずい。
塔の出入口に近付いて、そっとのぞき窓に顔を寄せる。
扉は向こうから鍵が掛けられていた。ここからまた神殿内部に戻ったところで、どうにもならないし、今ここにあるもので何とかするしかない。
壁には整備などに使うものだと思われる、木や金属で出来た何かの道具。作業用なのか、服が数着、道具の合間に吊り下げられていた。
雨合羽っぽい、結構くたびれた古いものもある。しかも、頭巾付きだ。
柿の葉みたいな渋い色のそれを着込み、ついでに同じような布で出来たズボンも拝借する。雨をしのげるのなら旅立つ人間にはもってこいだ。
背負っていた革の鞄から、衣裳部屋にあるもので一番頑丈そうだった黒の長靴を出して履く。軽くなった鞄を上着に付いた外套の下に背負い直すと、窓に映った姿を見た。
作業員っぽくなった姿にうなずきかえす。鞄の下からのぞくのは、洗面所のランプシェードで間に合わせた、神剣の鞘だ。
洗面所の隅に立てられた細長い白い石が光を放つ不思議な照明は、ティーポットを温めていた石と同じに、どこにもボタンやスイッチの類が付いていなかった。つけっぱなしの明かりの調整には、石の下部の台座に折りたたまれた革の筒を上げ下ろしして使うそうだ。
それがちょうど、神剣を収めるのにいいと気付いて拝借してきた。用意してあった鞘はどれも、売り払ったらとんでもない値段になることが一目瞭然の、宝飾品まみれのものばかりだったからだ。
やっと落ち着いた。
己の旅姿に満足して、昇降機の巨大な滑車を改めて見上げる。
小屋とかごを吊る用の大蛇のような縄の他に、もう二本。細くて色の違う縄が、滑車のさらに上からぶら下がっていた。塔の上部に渡した石で組んだ梁から床の穴へ向かって垂らされた縄は、外に向かって伸びている。
「補助用かな?」
大型のかごや小屋をそのまま支えも無しに下ろしたら、風に煽られると左右に振れるし、回り出してしまうこともあるだろう。吊るしたものが岩壁に当たったり、縄そのものがどこかに擦れて傷付く危険もある。
鉛色の二本の縄は、小屋やかごの両端から添わせて側面に付いた金具に繋ぎ、荷を固定して安全に下ろすためのもののようだ。
こっちだな。この縄を伝って降りよう。
何か使える物はないかと、中身が詰まった大きなかごをのぞく。
布の覆いの下にあったのは、大量の布だ。一枚引き出すと、何かの汁と酒がこぼれたような染みや杯を置いた跡がある。今宵の宴のテーブルクロスらしい。
洗濯に出すのか。頑固そうな汚れや大物とかは外注するんだな。
洗濯物のかごを漁って、ちょうど良さそうな大きさの布を引っ張り出し、片方の端を縄に何重か巻き付けてから、くくりつける。もう片方の端は輪っかにして結び、足をかけられるようにした。
縄にしっかり結び付けた方に、壁に掛けてあった変わった形の道具の金具を取り付ける。金輪になっているところに布を通し、洗濯ばさみみたいな形の部分は縄を挟むようにして添わせた。
取っ手みたいな握るところと、何かを挟み込める部分がある金属製の道具はたぶん、簡易的な停止装置、制動機だ。金属の棒の下側に付いた取っ手を握ると、中央辺りにある洗濯ばさみっぽいところが縄を強く挟み、握りを解くと開く。
全体が大きな取っ手のようにも思える見た目と、この動きから判断するしかないが、やっぱりこれは自転車のブレーキみたいなものだと思う。レバーを握ると分厚い革が取り付けられた部分が縄をしっかりと挟み込んで、止まれるようになっているのだ。
きっと。
「使ってみるしかないよな」
落ちても死なないらしい、神々の創造物を信じよう。
輪っかに足を入れる。推定ブレーキ金具を片手に、床の穴を見る。
地面は遥か遠い。縄の先が繋がる下の建物の屋根が、寝室にあった菓子箱くらいに見える。
菓子箱といっても布張りの豪華なやつで、開けてみるまで宝石でも入っているのかと思った。そこから失敬してきた宝石のような菓子、翡翠色の琥珀糖をひとつ、口に放り込む。
甘さが口に広がると、不思議とすべてが些細なことに感じる。
まあいい。知らない。危ないとなったら、どうにかしよう。これぐらいこなせないで魔王退治は出来やしない。
見た目に反して中はやわらかい、青りんごに似た味の琥珀糖を飲み下す。
間を置かず、床の開閉部から身を踊らせた。夜気が身を包み、一気に風に変わる。耳を塞ぐ風の音。
早すぎる? ちょっと握りを緩めすぎているのかも?
そんなことを考えている間に下の屋根が、どんどんと近づいて来た。
夜の王都の景色をながめる間もなく、屋根に己の影が映り、それが濃くなっていく。月は神殿の上辺りに出ているようだ。
金具の取っ手を少し強く握る。風音に摩擦音が混じる。
これ、夜空に響いてないか? 見つかるか、ぶつかるか。どっちを優先したら良い?
地面にぶつかる方がだめか、普通は。
ブレーキから手を離す。同時に輪っかから足を抜く。そんなに落下速度は下がっていなかった。屋根の開閉部を通り抜けるのに秒とかからない。
固くならされた地面まであと少し、宙で前転する。両足を開いて着地した。
ぐっと息を詰まらせる衝撃が体を走る。踏ん張って耐えた。右手を背後に伸ばす。手のひらに、停止装置の金具と洗濯物が落ちてきた。
重いっ!
思ったより強い衝撃に思考が追い付かず、体を持っていかれそうになった。手の甲が固く踏みしめられた地面に触れる。寝転ぶ寸前、ひざで体を支える。
良かった、大丈夫だった。
立ち上がった時に少しふらついたが、足も折れてはいないし、体のどこかにガタがきてもいない。それを確かめるように空いた腕を交互に回したり、縄から金具と布を取り外しつつ、上体や足を動かしてみる。
何の問題もない。ほんとに大丈夫だ。これで高い所から落ちても、まあまあ行けると分かった。
上から持って来た金具を壁の仲間に入れてやり、洗濯物を部屋の隅に置かれた椅子の上に雑に畳んで置く。椅子の側には上とやり取りする用の伝声管が、壁に据付られていた。
大型の荷物を搬入するための大きな引き戸の横に、扉がある。引き戸にはこちら側、倉庫のような建物の内側から閂が渡されていた。外側から錠が掛けられているのは小さい方の出入り口のようだ。扉のノブを念のため回してはみたが、開かなかった。
じゃあ、まあ、屋根から出るしかないよね。
上と二本の縄で繋がった開口部の真下に戻る。地面に固定された縄の一本をつかんで夜空を見上げる。縄を両手でつかみ、体を引き上げてみた。
全然、行ける。そのままぐいぐい両腕だけで登って、屋根の少し上に出る。体を振って、木の板を葺いた屋根に飛び乗った。
軽く音が鳴ったが、誰も気にする者はいない。石壁に囲まれた内には人影もない。
もうひとつ、すぐ側に似たような建物があって、そこの屋根からも岩山の上の神殿へ向かい、二本の縄が繋がっていた。こちらのものより長さは短い。
あっちは神殿一階の台所への直通だと思われる。下に追加注文した食材が届いたと調理人が話していたのを聞いて、こういう設備があるのではないかと目星を付けたのだ。
昇降機用の施設は静まり返っていて、仕事が始まるまで誰もいないらしい。唯一の明かりは大きな門の側の、石造りの小屋から漏れていた。門番が詰めているのだろう。
「結界とかあったりするかな?」
崖下から神殿へ侵入しようと思えば、この施設を狙う。賊を警戒して警備は厳重なはずだ。
反対に神殿内の警備が薄いように思えたのは、入って来る者を精査して、色々と手数を踏んだ後だからだ。ネフェル主席神官長も言っていた。覚醒の間に、救世主降臨神殿へ通してもいい者を吟味したと。
安全な人物なら神殿に招かれた後は自由にしても良いとなっているんだな。だから押し掛ける者が出たり、外壁をよじ登って不法侵入する者がいたりするわけだ。
自分もその中の一人に加わって、侵入でなく脱走してきたのだが、さすがに、ここは神殿外だ。神殿の客として許可された者がうろつくにしても度が過ぎる。
見つからないように出るには、どうするかな。
高い石壁の上部には、いばらの蔓と棘をかたどった優美な鉄柵が設置されていた。ちょうど高さが同じくらいの屋根からは目線が合うせいか、鉄柵の細工も詳細に見える。神殿の設備であるから、美しさも兼ね備えていないとならないのだろう。
あれは刺さらなくても触れたら痛そうだ。扉とか壁を、神剣で斬るわけにもいかないし。よし、忘れ物取って来よう。
屋根から中をのぞき込み、先ほどまでいた場所へ舞い戻った。
二重に張られた結界の微細な変化を、番屋の壁に取り付けられた一番小さな鐘が告げる。同時に、鐘の上の照明が点滅した。
小さな音と淡い明滅は、葉っぱや紙くず、防水布のような無機質の何かが結界の内側から鉄柵や壁の上に引っかかったくらいの、些細な異常を感知したという合図だ。
だからといって、寝ずの見張り番の仕事をしている以上、確認を怠るわけにはいかない。
今晩の担当として小屋の椅子に腰かけて眠気覚ましの苦いお茶を嫌々すすっていた若い男は、腰の剣を確かめつつ外へ出た。相棒の年老いた魔術師は曲がった腰をさすりながら、警報装置に繋がった感知器の設定を確認している。
小屋の外で顔を上げた番兵は、ほっと息を吐いた。
上から降ってきたらしい。門の側の鉄柵に白い布がかぶさっている。
剣じゃだめだと番兵は小屋の壁に立てかけてあった竿を手にして、石壁に引っかかった洗濯物を器用に回収した。
しっかり周囲を見回して、再度、異常がないかを確認する。他にこれといって不審な点はない。汚れてはいても高価な洗濯物を破れずに取り外せたことに安堵して、番兵は小屋に戻った。
警報装置を鳴らした原因は、壁の向こうへ、とっくに行っていた。
馬車二台分も離れた建物の屋根から助走を付け、洗濯物を鉄柵に引っかけると同時に石壁をやすやすと飛び越えた勇者には、番兵でなくても気付くわけがなかった。
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