憧憬坂~薄紅の頃~

日下奈緒

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第11話 恋人か妹か

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征太郎は道場を出ると、雪子の家に向かった。

雪子の家は歩いて、10分ほどの場所にあった。

もう何度も通っている家だから、そのまま何も言わずに、門をくぐれた。


「どなたかいらっしゃいますか。」

征太郎は玄関から叫んだ。

出てきたのは、雪子の母親だった。

「こんにちは。」

征太郎は頭を下げた。

「こんにちは、征太郎さん。さあ、お上がりになって。今、雪子を呼んできますから。」

「あ…」

「どうしました?」

征太郎は、一呼吸置いて、雪子の母と向き合った。

「今日は…外で話してもいいですか?」

「ええ…かまいませんよ。少しお待ちくださいね。」

母親はすぐに、雪子を呼んできてくれた。


雪子もきょとんとしながら、やってきた。

「何かありました?征太郎さん。」

雪子よりも、母親の方が心配そうだ。

「いや…その……」

征太郎の困った顔を見て、雪子が母親に言った。

「いいじゃない、お母さん。たまには、外を歩きながらお話するのも。」

「そう…ね……」

そして雪子は、外に出てきてくれた。

「行きましょう。征太郎さん。」

征太郎と雪子は、門を出て歩きはじめた。


いつもは話が弾む二人も、今日だけは一言も、話をしなかった。

いつの間にか、河原の土手まで来てしまったが、それでも征太郎は、何も言わなかった。

「あの…征太郎さん?」

「え?」

「そろそろおっしゃって頂かないと、時間が…」

「時間?」

「生徒さんが、お待ちになってるのでしょう?」


征太郎は仕事の事を、忘れているようだった。

何があっても、仕事を忘れるような人ではないのに。


「何かあったの?」

「う…ん……」

征太郎はそれ以上、何も言わなかった。


「今日はもう帰りましょう。」

そう言って雪子は、くるっと向きを変えた。

「話せるようになったら、話してくださいな。」

雪子は一人、家までの道を歩き始めた。

征太郎はまた何も言わずに、雪子の後を歩いて行った。


しばらくして、二人は雪子の家の前に来た。

「では、征太郎さん。帰り道お気を付けて。少しの時間でも会いに来てくださって、嬉しかったわ。」

雪子が門をくぐろうとした時だった。

「雪子…」

征太郎の呼びかけに、振り向いた瞬間だった。


「ごめん、雪子。」

征太郎は頭を下げて謝っていた。

「何を謝るの?…」

顔を上げた征太郎は、重い口を開いた。

「突然こんな事を言って、君には申し訳ないと思うけれど、どうしても言わなくてならなくて…」

雪子は不安に襲われた。

「どういう事ですか?」

征太郎は、頭を下げたまま言った。

「俺達の将来の事なんだが……なかった事にして貰えないだろうか。」

「…結婚できないってこと?」

征太郎はうなづいた。

「本当に…申し訳ない。」

雪子は理由が分からず困惑した。

「私……何かいけないことでも…」

「いいや。雪子は何も。」

「征太郎さんのご両親が、私を気に入らないとか…」

「いいや。母は逆に雪子のことを、とてもしっかりした人だと誉めていた。」

「では私の両親が、私に内緒で別れるように、言ったのですか?」

「そんな事、一度も言われてないよ。雪子のご両親は、いつも笑顔で俺を迎えてくれる。」

「だったら、何が原因だと言うんですか?」

雪子は初めて、感情的な部分を見せた。


「俺の気持ちが……変わってしまったんだ。」

雪子には征太郎の言葉が、信じられなかった。

「他に好きな方ができたんですか?」

征太郎は否定も肯定もしない。


「こんな事言って、信じてもらえるか分からないが……俺はもう少し……美和子の側にいてやりたいんだ。」

「美和子ちゃんの?」

征太郎の表情は真剣だった。

「…理解してくれとは言わない。本当にすまないと思っている。」

征太郎は頭を上げ、一歩前に出ると、雪子の手を取った。

「だが、これだけは信じてくれ。雪子の他に、好きな女なんていない。」

雪子は、下を向いた。

「美和子ちゃんの事も、好きなくせに。」

冗談で笑い飛ばしてくれると思った。


「美和子は…特別なんだ。」

征太郎は頭を傾げた。

「何でそう思うのかな……自分でもよく分からないくらいに美和子のこと、大切に思ってしまうんだ。」

雪子はふふふっと笑いだした。

「雪子?」

笑っている瞳から、涙がこぼれていた。


「征太郎さんは、本当に美和子ちゃんのことが、大切なのね。」

「あ…ああ……」

「…分かりました。征太郎さんの気持ち。」

「本当に、本当にごめん。」

征太郎は謝るしかなかった。

「もう、そんなに謝らないで。」

雪子は征太郎の顔を上げさせた。

「いいのよ。私は、そんなあなたを、好きになったのだから。」

雪子は精一杯の笑顔を、征太郎に見せた。
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