憧憬坂~薄紅の頃~

日下奈緒

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第10話 曖昧

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「美和子、美和子。」

「えっ…」

「茶の間はこちらよ。」

「ああ!」

美和子は次の日の朝、ぼうっと廊下を歩いていて、母親に言われるまで、茶の間を過ぎた事も分からなかった。

「また遅くまで、起きてたの?」

「ん~…」

美和子が、席に着いた時だ。


「征太郎さん、どこまで行くんですか?」

母親の声が聞こえてきた。

「茶の間はこちらですよ。」

「はい…」

隣の席に座る征太郎を、美和子は見ることができない。


「朝からなんでしょうね。同じ事を注意されるなんて。」

二人は一緒にうつむいた。

「やっぱり兄妹ね。」

料理を並べる母親の言葉に、美和子はまた胸が痛んだ。

嫌でも思い知らされる、自分と兄妹だということを……


その時、隣でガチャンという音がした。

見ると征太郎が、お味噌汁のお椀を、ひっくり返していた。

「あらあら。」

瞳子は慌てて、こぼれた味噌汁を拭く。

「今日の征太郎さんは、なんだかうわの空ね。」

「すみません…」

美和子が見ても、征太郎はいつもと違っていた。

「兄さん…大丈夫?」

美和子が手を差し出した途端、征太郎は慌てて手を隠した。

「えっ…」

目が合った瞬間、二人は赤い顔をする。


「征太郎さん。」

母の声に、ハッとした。

「着替えてきた方がいいわ。」

「あ…はい。」

征太郎は立ち上がって、茶の間を出て行った。


美和子は征太郎が出て行った後も、なかなか顔の火照りはおさまらない。

そんな美和子の様子を、母の瞳子は見逃さなかった。


征太郎の仕事は、お昼を過ぎて頃。

生徒たちが学校を終え、家に帰り、腹ごしらえをし、道場へと集まってから始まる。

夕飯までの時間、少年たちに剣道の稽古をつけるのだ。


征太郎を産んでくれた母親は、3歳の時に亡くなっていた。

他に兄弟をなく、父親は薬屋で日本全国を飛び回っていて、幼い征太郎の面倒をみてくれたのは、今は隣町に住んでいる叔母だった。


そして、両親のいない寂しさを紛らわせてくれたのは、仲間と一緒に通う剣道の稽古だった。

征太郎が7歳の時、叔母が結婚することになり、瞳子さんという新しい母親がやってきて、一年後、暑い夏の日に妹の美和子が産まれた。


「あなたの妹よ。」

そう言われて、産まれたばかりの美和子を見せられた時は、剣道の練習を忘れるくらいびっくりした。

おかげで寂しさも感じる暇などなくなったが、剣道はずっと征太郎を支え続けていた。

学校を卒業した頃、自分の商売を継いで欲しい父親を説得して、庭に道場を建てさせてもらった。

今は少年たちに、剣道を教えて生計を立てていた。

だからだろうか。

何かあると征太郎は、一人で道場にこもることも多かった。

その日も征太郎は、いつもよりも早く道場に入り、一人素振りをしていた。


昨日の夜の、美和子の顔が離れない。

自分になついているかわいい妹。

その妹も17歳になり、いつの間にか恋を知り、その相手が自分だと言い張る。


征太郎は美和子の姿をかき消すように、竹刀を振り続けた。

それから、一時間ほど経った。

「征太郎さん。」

名前を呼ばれ、振り向くとそこには、瞳子が立っていた。

「やはりここに、いらっしゃったのね。お昼も食べないで、素振りしているだなんて。きちんと食べないと、お勤めも果たせませんよ。」

そう言って瞳子は、入口におにぎりを置いた。


「わざわざ作ってくれたんですか?」

「ええ。」

征太郎は素振りをやめると、瞳子の側にきて座った。

お腹は減っていなかったが、持ってきてくれたその気持ちが、嬉しかった。

「いただきます。」

征太郎がおにぎりを頬張ると、瞳子は征太郎の隣に腰をおろした。


「美和子のことで、悩んでいるのですか?」

征太郎は突然の質問に、喉をつまらせた。

「ずいぶん、唐突ですね。」

「征太郎さんが、ここでずっと素振りなさっている時は、大抵悩みを抱えている時ですもの。」

「だからと言って、美和子の事だと……」

「あら、美和子は征太郎さんに、好きだと伝えたのでしょう?」

征太郎はまた、喉をつまらせそうになった。

「言ってないのですか?」

そして、慌てて唾を飲み干す。


「ど、どうしてそのことを…」

「ほら、好きだと言ったんじゃないですか。」

征太郎は、しまったという顔をした。


「確かに…美和子にはそれっぽいことは、言われましたが…」

「美和子は、はっきり言ったのでしょう?征太郎さんが好きだって。」

「き、聞いてたんですか!?」

「聞いたのではありません。聞こえてきたのです。」

征太郎は、飛び上がる程驚いて、焦りに焦った。

そんな征太郎をよそに、瞳子は話を続けた。

「それにしても、お父様がいらっしゃらなくてよかったわ~。」

「そ、そこを心配するんですか!」

「だって、お父様に聞かれたら、二人とももう一緒には住めないどころか、今にも美和子は結婚させられてしまうでしょうに。」

瞳子は、他人事のように言ってきた。


「それで、どうされるんです?」

「どうするって、僕と美和子は兄妹ですよ。」

「そうね~。母親が違うって言っても、父親が一緒じゃ、結婚はできないわね~。」

瞳子は楽しそうだ。

「分かってるなら、言わないでください。」

ムキになっている征太郎を見て、瞳子は尚、からかってきた。

「それにしても征太郎さんなら、美和子の気持ちを分かって下さると思ってたわ。」

「えっ?」

「美和子を見ていると、少し前の征太郎さんを思い出して…」

「ぎゃっ!!」

「そりゃあもう、征太郎さんの視線が痛くて、痛くて…」

征太郎は慌てて、瞳子の話を遮った。

「お母さん!そろそろ生徒も来ますから!」

「まあ、お母さんって言ってくれるの?」

瞳子は頬に手を当て、喜んでいる。

「いつも言ってるじゃないですか!」

「美和子の前ではね。」

「お母さん!!!」

瞳子は、赤い顔をしている征太郎を見て笑った。


「ったく…瞳子さんは…」

そう言って、征太郎は口を押さえた。

「すみません…」

「いいえ、全然気にしてなくてよ。」

瞳子は、静かに微笑んだ。


「ねえ、征太郎さん。」

「はい。」

「誰かを想う気持ちや、恋焦がれる気持ちは、誰にも止められませんわ。」

征太郎はドキッとした。

「当の本人にも、どうしたら忘れることができるのか、分からないのよ。」

「ええ…」

「無理に忘れようとすれば、返って忘れられなくて、想いが通じない相手だと思えば思うほど、気持ちは盛り上がってしまう。」

征太郎にも、その気持ちは理解できた。

「今一番せつないと思っているのは、美和子だと分かっていらっしゃるわね。」

征太郎は息を飲んだ。

「では、美和子の気持ちに応えろと…」

「征太郎さん!!」

「冗談です!冗談ですよ。」

瞳子は恐い顔から、すぐに笑顔に戻った。


「今まで通りで、いてくださいな。」

「今まで通り…」

「私も何一つ、変わらなかったでしょう?」

瞳子はイジワルそうに、征太郎を見つめた。

「確かに…」


征太郎は瞳子を、見つめ続けた日々を思い出した。

確かに、瞳子は何一つ態度を変えなかった。

それに救われたこともあった。

自分の気持ちなど、知らないと思っていたのに。


「美和子のこと、頼みましたよ。征太郎さん。」

瞳子は立ち上がって、道場を出た。

「瞳子さん。」

立ち止まった瞳子に、征太郎は頭を下げた。

「ありがとうございました。」

「どういたしまして。」

瞳子はにっこり笑って、母屋に戻って行った。

それを見届けると、征太郎も道場を飛び出した。
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