桜散る、その前に

日下奈緒

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第5章 司の患者

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僕が話し終えると、彩も司も、茫然と口を開いていた。

「いや、すまん。てっきり、エリートだと思っていたから。まさかそんな生い立ちだとは、思っていなかったよ。」

司は、気を遣っているのか、口を手で覆っていた。

だけど、彩は違っていた。

彩は涙目で、俺の手を握ってくれた。

「よく話してくれたわね。」


一つだけ気にかけていたのは、二人共こんな話をして、僕から離れて行ってしまわないかという事だった。

「……貧乏な育ちだったのだと、僕を蔑まないのか?」

「まさか!返って、あなたの芯の強さを見た気がするわ。」

彩は、涙を拭きながら、僕を励ましてくれた。

「俺だってそうだ。貧乏がなんだ。そんな事で、おまえの元から離れて行くもんか。」

僕の中で、心が揺さぶられた気がした。


「ありがとう、二人共。」

司と彩、二人と握手をし、僕は初めて安堵の気持ちを覚えた。

そして彩が、僕を抱きしめてくれた。

「私達、幸せになりましょう。」

彩のぬくもりが、僕に伝わって来た。

「ああ。」

この時僕は、彩と結婚して、本当によかったと思った。

この人とだったら、温かい家庭を築ける。

心の底から、そう思ったんだ。


「何かあったら、真っ先に俺に相談してくれよ。」

司もそう言ってくれた。

高校時代まで、ろくに友達もいなかった僕だ。

大学に入って、一番最初に話しかけてくれた奴。

それが司だった。

今は、司に大感謝しかない。

彩と一緒になれたのも、彼のおかげなんだから。


「あっ、ごめんなさい。私、もう帰る時間だわ。」

彩が急に立ち上がった。

「ゆっくりしていけばいいいのに。」

僕は、彩の手を握った。

「これから買い物に行かなきゃいけないのよ。」

彩は握った手を、握り返してくれた。

「じゃあ、また後で。」

「ああ。」

彩が帰った後、司は僕の腕を突っついた。

「おい、仲がいいな。」

「羨ましいだろ。」

「ああ。さすがは恋愛結婚だな。」

司は、はぁっとため息をつきながら、僕達の夫婦の仲を羨ましがっているようだった。


その時だ。

「掛川先生、回診のお時間です。」

看護婦が、司を呼びに来た。

「ああ、そんな時間か。」

司は、聴診器を持って立ちあがった。

「そうだ。和弥も来るか?」

「僕も?」

内科医の僕は、術後の回診などしない。

少しだけ興味があった。


「ああ、一緒に行ってもいいか?」

「いいよ。」

僕は立ち上がると、司と一緒に部屋を出た。


「今日行くのは、目の手術をした患者だ。」

「白内障か?」

「ああ。今日はまだ包帯をしているけれど、明日には取れるんじゃないかな。でも難しいオペだったよ。半分手遅れだったんだ。でも、生き別れた息子の顔を見たいって、難しいオペに臨んだんだ。すごいよな。」

「なるほど。それはすごいな。」

部屋を出て、2階へ上がり、真ん中の部屋に入ろうとした時だ。

「高坂先生、この患者さんの事ですが。」

「ああ。」

病室に入る前に、看護婦に呼び止められてしまった。

「先に入ってるぞ。」

「ああ。」

僕はカルテを見ながら、看護婦に一つ一つ丁寧に、患者の事を指示した。

「ありがとうございます。」

「ああ、頼むよ。」

そして僕が、病室に入ろうとした時だ。

見覚えのある人が、目に包帯をしていた。


僕は驚いて、廊下の壁に隠れた。

まさか、司の言っている患者って、その人じゃないだろうな。

ドキドキしながら、司を見ると、やはりその患者に寄って行く。


「どうですか?伊賀さん、目の調子は。」

「ええ。お陰様で少し痛みますけど、調子はいいです。」

この声。

そして、伊賀と言う名字。

まさか、まさか……

いや。いくら何だって、そんな事ある訳ないと、自分に言い聞かせた。


「今日は、桜が綺麗ですね。明日には見えるといいですね。」

司が言うと、その人は見えるはずのない、外を眺めた。

「そう言えば、あの時も桜が咲いていたわ。」

その人は、ぽつりぽつりと昔の事を、話し始めた。
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